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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第五章 光の胎動 ~ 第二幕 裏切りの証 ~
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7 裁可

── 帝城・政務の間 ──


王女は、何が起きているのか、わからなかった。


光の帯が伸びる石床、壁にかけられた帝国旗、長卓を囲んでずらりと居並ぶ人々――。その全員の視線が、一様に自分に向けられている。


さきほどまで彼女は、自室で書物を紐解いていた。そこに突然、侍従が現れて「陛下がお呼びです」と告げた。

着替える間もなく、部屋着のまま廊下を歩かされる。問い返す暇も、意味を考える余裕もなかった。


扉が開いた瞬間、冷たい空気と無数の視線が、一度に押し寄せた。


(……ここは、どこ?)


胸の奥で、言葉にならない声が震える。重く張りつめた沈黙のなか、王女はただ茫然と立ち尽くしていた。


そのとき、静寂の奥から低い声が響いた。

「よく来たな、王女」


その声を聞いた瞬間、胸の奥がひやりと凍る。顔を上げると、長卓の最奥――高く据えられた席に、ダリオスがいた。


窓から射す光が、卓をなぞるように斜めに差し込み、その横顔を淡く照らしている。

その存在だけで、室内の空気がわずかに揺らぐ。


「ここにいるのは、帝国の四方を治める総督たちだ。本日は政務や軍務の方針を定めるための会議であったが……」

言葉が一瞬だけ途切れた。

「思いがけず、そなたをめぐる議題となった」


王女は呼吸を忘れた。

ダリオスは淡々と続ける。


「そなたが市場で起こした件をどう裁定すべきか――。

 北は言った。規律の逸脱である、と。皇の庇護にある身が、勝手に刃を手にした。罰してこそ秩序は保たれる、とな」


王女の喉がかすかに鳴る。誰が“北”なのか、顔も名も知らない。けれど、冷たい判断の言葉だけが胸に鋭く刺さる。


「南は利を説いた。“慈悲”の名が軽くなれば、民の金も心も離れると」


何を言われているのか理解しきれず、ただ背筋がこわばっていく。


「東は、祈りの形を見た。憎しみを和らげる兆しありと述べ、その行いを帝の慈悲として示すべきだと」


“慈悲”という音が耳に届くたび、胸の奥で何かが強く軋む。それが望ましいものなのかどうかすら、わからない。


「西は、整合を求めた。判断の積み重ねこそが“信”を生むと。我らが是とするなら、その理を貫け、と」


語られる言葉の意味が、ひとつひとつ、遠くから聞こえるような感覚で通り過ぎていく。

自分の行いが、帝国という仕組みの中で分解され、秤にかけられている――そのことだけが肌でわかる。

ただ、その重さを理解するには、思考があまりに追いつかない。


ダリオスは机上の文書を軽く指で叩いた。

 「――以上が、諸卿の見解だ」


「面白いものだな。ひとつの行いに、四つの答えが返った。力、利、心、理。どれも間違いではない。――では、そなたはどう見る?」


黒曜の光がまっすぐ王女に向けられた。

「あの日の自分の行いを、どの席に置く?」


王女は、青ざめていた。

言葉の意味をすぐには掴めなかった。

ただ、“北”が自分を罰すべきだと述べたこと――その一点だけは、冷たく脳裏に残っている。

それ以外の言葉は、遠くで鳴る鐘のように響くだけで、輪郭を結ばない。

質問されたのだとわかっても、どう答えればよいのか、答えてよいのかさえ、判断できなかった。


(なにを、求められているの……?)


ダリオスは短く息をつき、ほんのわずかに声の調子を和らげた。


「言い換えよう。――あの日、そなたは何を守ろうとして動いた?」

その声は穏やかだったが、逃げ道はなかった。

「自分の身か。民か。あるいは――誇りか」


王女は、わずかにまばたきをした。

ようやく、彼の問いの意味がわかった気がして、胸の奥に小さな安堵が灯る。

けれどそれは、すぐに沈む光だった。


そっと、うつむく。


あの日――自分が守ろうとしたのは、故国の者たちの命だ。

けれど本当は、違うのかもしれない。

彼らを信じきれず、自分の恐怖と弱さから勝手に手を伸ばし、その誇りを折っただけかもしれない。


そんな自分に、「命を守ろうとした」などと口にする資格があるのだろうか。

謹慎のあいだ、何度も考え、答えの出なかった問いがまた巡る。


――だけど。


リシェルの面影が、瞼の裏に浮かんだ。

もう俯かないと決めたのだ。


王女は顔を上げ、まっすぐにダリオスを見据えて言った。


「故国の者たちの命です」


その声は震えていなかった。

静かで、どこか幼く、それでも確かだった。


沈黙が落ちた。

長卓の向こう側――総督たちとその側近たちの間に、わずかなざわめきが生まれて、すぐに消えた。


誰もが思っていた。もっと理屈を並べる姫か、威勢のよい反逆者かと。

だが、目の前に立つのは、ただまっすぐに言葉を放つ若い女だった。その素朴さに、想像が静かに崩れていく。


ダリオスはその空気の変化を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。

彼の目は王女を捉えたまま、ゆるやかに場を見渡す。その視線ひとつで、会議の空気が再び整えられた。


「――諸卿。これが“象徴”だ。名でも理でもなく、血と呼吸をもつ存在としての」


誰もすぐには返さなかった。ただ、政務の間の空気がわずかに変わった。

春の光が揺れ、石床に淡い影を落とした。


ダリオスはしばらくのあいだ、王女を見つめていた。

その眼差しには怒りも嘲りもなかった。ただ、何かを量るような静けさがあった。


やがて、ゆるやかに口を開く。


「皆の者、よく聞かせてもらった」


低い声が政務の間に広がる。


「北は力を語り、南は利を語り、東は心を語り、西は理を語った。

 そしていま、象徴が命を語った。――どれも、この国を保つために必要なものだ」


彼はゆっくりと席を立ち、手にしていた文書を卓上に置いた。


「王女の行いは乱にあらず。叛徒を傷つけずに鎮めたは、帝国の慈悲の証とする。その功をもって罪を贖い、象徴の位を保たせる」


ざわめきが走る。だが、ダリオスが軽く手を上げると、すぐに静まった。


「ただし、これ以後の象徴は、独断で動くことを許さぬ。その息も祈りも、帝国の理のうちに置かれる。その定めをもって――赦しとする」


沈黙。


総督たちは一斉に立ち上がり、頭を垂れた。

南は安堵の笑みを浮かべ、北は口を閉ざし、東は深く頷き、西はわずかに目を伏せた。

ダリオスは最後に視線を巡らせた。

「布告文には“象徴の慈悲”と記せ。その意味を知るのは、我らだけでよい」


その言葉とともに、政務の間に漂っていた緊張が、静かに解けていった。

春の光が淡く傾き、長卓の上を斜めに横切る影が、ゆるやかに伸びていた。

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