5 光の方へ
── 帝城・片隅の小部屋 ──
厚い石壁に囲まれた、窓も小さな質素な部屋。
城の隅にひっそりと設えられたその空間には、贅のかけらもない。
王女は下働きの時に身に付ける粗末な衣をまとい、長椅子に腰掛けていた。
リシェルの目に、余計なものを映さぬため――
そういうことなのだろうと、王女は何となく察していた。
豪奢な衣装も、広すぎる居室も、鉄環も。
無意識のうちに相手を萎縮させてしまうものすべてを、
少しだけ遠ざけるように場が整えられている。
(……彼なりの“配慮”、なのだろう)
皮肉にも似た、けれどどこかくすぐったいような感覚が胸の奥をかすめた。
扉が軋み、ミレイユに導かれてリシェルが現れる。
普段なら朗らかに飛び込んでくるはずの少女は、今日は背を縮め、周囲を気にしながら一歩ずつ足を進めていた。
王城の奥に足を踏み入れるなど初めてのこと、怯えが全身に滲んでいる。
「……姫様」
呼ぶ声はかすかに震えていた。
その呼びかけが、胸の奥をかすかに打った。
リシェルの声なのに、ほんの少し、遠くに感じられる。
(……そう、呼ぶのね)
王女は目を伏せた。
今まで彼女は、王女を名前で呼んでいた。
親しみをこめて、距離を恐れず、まっすぐな眼差しで――
そうして交わしたささやかな日々の言葉が、ふいに遠ざかった気がした。
……仕方のないこと、なのだろう。
自分がいま、どこにいるのかを思えば。
どこに“戻されて”しまったのかを考えれば。
けれど、わずかな痛みが、胸の奥に残った。
静かに息を吸う。
表情は崩さずに――王女は柔らかく微笑んだ。
「久しぶりね、リシェル」
かつて交わした距離を、取り戻せるように。
あるいはもう、それが戻らぬものであっても、せめて――
温もりだけは伝えられるように。
しかし、目の前の娘は、固く、ぎこちなく、まるで何かを堪えるような表情のまま立ち尽くしている。
王女は小さく首を傾げ、思わずもう一度、名を呼んだ。
「……リシェル?」
その名に応えるように、少女はわずかに身体を動かした。少女は、かつての快活さをすっかり失い、沈痛な面持ちで、ゆっくりと歩み寄ってくる。
両の手を胸の前でぎゅっと握りしめながら、まるで何かを告白するように、震える声で言った。
「姫様……ずっと……お会いしたかったんです」
王女は息をのんだ。
その声音のかすれに、胸の奥が不穏に波立つ。
ただ“隔たり”が生まれたから、というだけではない。
何かもっと深い痛みが、そこにあるように思えた。
リシェルは一歩、また一歩と近づき、やがて、涙を滲ませた瞳で顔を上げた。
「市場で……あの場で、姫様がお命を懸けられたのを見てから……ずっと考えていました。
私が……あの日、姫様に言ったこと。
『信じられるなら見守る、無理だと思うなら止める』って……あれが、姫様をあんな行動に駆り立ててしまったんじゃないかって……」
リシェルは息を詰め、唇を震わせた。
「私……あのとき、姫様がどんな立場で、どんな重さの中におられたのか、
何ひとつ分かっていなかったんです。
自分が同じ場所に立てるような気でいて……ただ、わかったふりをして……!」
言葉の端が掠れ、声が崩れる。
握った手が小刻みに震え、涙が頬を伝った。
「もしそうなら……私のせいで、姫様が……!」
最後の一言は、ほとんど嗚咽に溶けた。
しばらく言葉を失ってリシェルを見つめていた王女は、ゆっくりと理解した。
彼女が自分を「姫様」と呼んだのは、ただ距離のためではなく――悔恨のためだったのだと。
そして、王女は気づいて、そっと俯いた。
――自分はずっと、自分の選択ばかりを悔いていた。
助けられなかったこと、信じきれなかったこと――
その痛みに囚われて、そこから一歩も動けずにいた。
けれど、こうしてリシェルをも苦しめていたのだと知る。
自分の迷いが、誰かの胸にまで影を落としていたのだと。
(……私がここで沈んでいれば、彼女をさらに苦しめるだけ……)
悲しみに沈むことは、もう慰めではない。
顔を上げねばならない――
自分に関わった誰かを、これ以上苦しめぬために。
(……もう、俯いてはいけない)
王女は、静かに息を整え、顔を上げた。
「……あの日、私は……そうするしかないと思ったの。彼らを守るには、ああする他なかった」
言葉にするだけで、胸の奥が痛んだ。
けれど、目の前の娘を苦しませるよりはましだった。
「だから……あれは、私自身の選択だったの。あなたのせいじゃない。
むしろ、あなたの言葉に背中を押されたから……私は自分で決められた」
リシェルの目に、はっとしたような光が宿る。
王女はかすかに笑みを作った。
苦しげで、震えてはいたが――それでも俯いていた時よりずっと確かな笑みだった。
「ありがとう、リシェル。……私を支えてくれて」
その言葉に、リシェルの頬を涙が伝った。
だがその涙は、もはや罪悪感ではなく、安堵に近いものだった。
小部屋の空気がわずかに和らぎ、
王女の胸にも、初めて――
重荷とは違う、静かな温もりが芽生え始めていた。
* * *
「……姫様。そろそろお時間です」
ミレイユの温度のない声が、部屋に静かに響いた。
リシェルが、はっとして振り返る。
そして王女を再び見て、言葉を探すように唇が動いた。
「姫様、また――」
けれど、その先は続かなかった。
言葉の終わりを、彼女自身が飲み込む。
囮の役目が終わった今、王女の下働きの仕事も終わりだろう。
二人の視線が重なった。
互いに理解している――再び会えるかどうかは、自分たちでは決められない。
会いたいと願ったところで、それを許すのは別の誰かだ。
しばしの沈黙。
光の粒が、二人の間を静かに満たしていた。
「……元気でいてね、リシェル」
ようやく絞り出した王女の声は穏やかだった。
無理に笑おうとはせず、それでも確かな温もりがあった。
リシェルはうなずき、涙をこらえるように微笑んだ。
「姫様も……どうか……」
その言葉が途切れたとき、
王女はふと、何かを思い出したように小さく息を吸った。
「……もし、できるなら――」
言葉を選ぶように、そっと続ける。
「最後に、以前のように……名前で呼んでくれないかしら?」
リシェルの瞳が揺れた。
次の瞬間、花が綻ぶように笑みが広がる。
「……はい。元気でね、――。またね」
その名を呼ぶ声は、泣き笑いのように震えていた。
けれどそこには、かつてのあの陽だまりの響きが確かにあった。
王女は小さく頷き、
その声を胸の奥にそっと閉じ込めた。
扉が開かれる。
小窓から差し込む西日が、去っていくリシェルの背をやわらかく照らした。
光の中に包まれるように、少女の姿はゆっくりと遠ざかっていく。
残された空気の中に、金のような光が淡く漂っていた。
それはもう、痛みではなく――
静かに灯る、ぬくもりだった。




