4 余白
── 帝城・皇帝の寝所 ──
王女の嗚咽が止んでから、どれほどの時が経ったのか。
室内には、もう音というものがなかった。
乱れた寝具の上に、彼女の髪が散っている。
蝋燭の炎がわずかに揺れ、蜜蝋の匂いが静かに漂っていた。
床の軋みも、外の風も、どこか遠い。
抱き寄せた身体は、息を潜めた獣のように、かすかに震えている。
その細さに、いくらかの熱と、余計な罪の気配が宿っているのがわかる。
(……滑稽だな)
ダリオスは、己の腕の中の小さなものに視線を落とし、ふっと笑う。
帝国と旧王国、政敵たちの腹の内、
民衆の声、将の忠義、暗殺者の兆し。
多くの者たちが、この女ひとりに価値を与え、それぞれの秤にかけている。
この細い身体が、どれだけの取引材料となり、どれほどの戦略に組み込まれているか。
それなのに、当のこの女は、
“自分の弱さ”などという取るに足らぬものに沈んでいる。
──『一日中、机の前でうつむいて何か考えごとをされています。食も細く、呼ばれてもすぐには応じません』
ミレイユの報告を思い出す。
愚かだ、と思う。
無知で、無防備で、いっそ見ていられぬほどに。
だが──
そうした小さな痛みに向き合おうとする、その行為こそが、
世界がいくら回っても、失ってはならぬものなのかもしれない。
この愚かさの奥にある、ささやかな光にこそ、この世界がまだ守るに値する理由がある──
そんな思いも、冷えた胸の奥でひそやかに息をしていた。
指先で、濡れた頬を拭った。
その動作に、理屈も思惑もなかった。
ただ、この夜ばかりは、彼女の思考をすべて閉じてやりたかった。
何も考えず、何も言わせず、
生きているという事実だけを、
身体の奥で確かめさせるために。
そのとき、不意に、昼間の声が脳裏を掠めた。
誰より冷静なはずの男が、珍しく低く、警鐘のように告げた言葉。
──『混沌の芽ですよ。誰の手にも制せぬ火が、あの方の胸の奥で、静かに育っている』
──『暗殺者が姫君を狙うやもしれぬ、と』
ダリオスは、わずかに目を伏せた。
腕の中の王女は、何も知らぬまま眠っている。人としての熱と痛みを宿したまま、無防備に呼吸を繰り返している。
そっと、首筋へ指を伸ばす。
触れた先に、まだ赤く残る傷跡──彼女自身の手で選び取った、“命”のかたちがあった。
その痕に触れながら、ダリオスは静かに思いを重ねる。
(……俺は、お前を生かすと決めた)
この世界に、ただ「在る」ものとして。
(だから──誰にも、お前の命を奪わせはしない。お前は、ただ……その胸の奥の小さな火を、誰にも消させず、育ててゆけ)
その火が、
いずれ何を焼き、何を照らすのか──それはまだ、誰にもわからない。
けれど、今だけは。
眠る王女を抱くこの腕だけは、
その揺らぎを拒まず、見守るものだった。
蝋燭の炎がひときわ揺れる。
まるで胸の奥に灯った火に、ひそやかに応じるように。
一瞬の呼吸のように、やわらかな光を吐いた。
── 王女の居室 ──
窓を透かして、淡い陽が石壁を照らしていた。
王女は、椅子に身を預けながら、ただぼんやりと、何を考えるでもなく、何も考えられないでもなく、その境目に、ゆるく身体を置いていた。
身体の芯に、妙な気怠さが残っている。重さではなく、どこか空っぽに似た感覚だった。
何かをすべて吐き出したあとの、しんとした静寂。
それが、皮膚の内側からじんわりと広がっていく。
(……泣いた、のだわ)
言葉にするのが、少しだけ恥ずかしかった。
けれど、昨夜の腕の重みや、耳に落ちた声、唇を噛み殺して堪えた涙の熱は、まだどこか、肌の奥に残っている気がする。
頬を撫でる風が、やわらかくて、心地よかった。
胸の奥を刺すような痛みも、ひりつくような後悔も、まだ全部は消えていない。
けれど──ほんの少しだけ、胸の奥にあった重たい何かが、淡く、ほどけているような気がした。
扉の向こうで、金属が軽く鳴った。
続いて、控えめなノック。
扉が静かに開き、ミレイユが姿を見せた。
手には銀盆を携え、湯気の立つスープとパンが載っている。
いつものように、整った動作で机の上にそれを置くと、彼女は一礼し、無表情のまま口を開いた。
「……姫様。下働きの娘、リシェルがあなたに会いたがっております」
王女は、まばたきをひとつ。
その名を聞いて、胸の奥の何かがわずかに揺れた。
ミレイユは続けた。
「陛下より特別に、許可が下りました」
窓の光を受けて、銀の器がわずかに光を返す。
昼のはずなのに、その一言だけが、夜の名残のように思えた。




