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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第五章 光の胎動 ~ 第二幕 裏切りの証 ~
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4 余白

── 帝城・皇帝の寝所 夜半 ──


王女の嗚咽が止んでから、どれほどの時が経ったのか。

室内には、もう音というものがなかった。


乱れた寝具の上に、彼女の髪が散っている。

蝋燭の炎がわずかに揺れ、蜜蝋の匂いが静かに漂っていた。

床の軋みも、外の風も、どこか遠い。


抱き寄せた身体は、息を潜めた獣のように、かすかに震えている。

その細さに、いくらかの熱と、余計な罪の気配が宿っているのがわかる。


(……滑稽だな)


ダリオスは、己の腕の中の小さなものに視線を落とし、ふっと笑う。


帝国と旧王国、政敵たちの腹の内、民衆の声、将の忠義、暗殺者の兆し。

多くの者たちが、この女ひとりに価値を与え、それぞれの秤にかけている。

この細い身体が、どれだけの取引材料となり、どれほどの戦略に組み込まれているか。


それなのに、当のこの女は、

“自分の弱さ”などという取るに足らぬものに沈んでいる。


――『一日中、机の前でうつむいて何か考えごとをされています。食も細く、呼ばれてもすぐには応じません』


ミレイユの報告を思い出す。


愚かだ――と思う。

無知で、無防備で、いっそ見ていられぬほどに。


だが――

そうした小さな痛みに向き合おうとする、その行為こそが、

世界がいくら回っても、失ってはならぬものなのかもしれない。

この愚かさの奥にある、ささやかな光にこそ、この世界がまだ守るに値する理由がある――


そんな思いも、冷えた胸の奥でひそやかに息をしていた。


指先で、濡れた頬を拭った。

その動作に、理屈も思惑もなかった。

ただ、この夜ばかりは、

彼女の思考をすべて閉じてやりたかった。


何も考えず、何も言わせず、

生きているという事実だけを、

身体の奥で確かめさせるために。


そのとき、不意に、昼間の声が脳裏を掠めた。

誰より冷静なはずの男が、珍しく低く、警鐘のように告げた言葉。


『……混沌の芽ですよ。

 誰の手にも制せぬ火が、あの方の胸の奥で、静かに育っている』


『暗殺者が姫君を狙うやもしれぬ、と』


ダリオスは、わずかに目を伏せた。

腕の中の王女は、何も知らぬまま眠っている。

人としての熱と痛みを宿したまま、無防備に呼吸を繰り返している。


そっと、首筋へ指を伸ばす。

触れた先に、まだ赤く残る傷跡――彼女自身の手で選び取った、“命”のかたちがあった。

その痕に触れながら、ダリオスは静かに思いを重ねる。


(……俺は、お前を生かすと決めた)


この世界に、ただ「在る」ものとして。


(だから――誰にも、お前の命を奪わせはしない。お前は、ただ……その胸の奥に宿る小さな火を、誰に消されることもなく、育ててゆけ)


その火が、

いずれ何を焼き、何を照らすのか――それはまだ、誰にもわからない。


けれど、今だけは。

眠る王女を抱くこの腕だけは、

その揺らぎを拒まず、見守るものだった。


蝋燭の炎がひときわ揺れる。

まるで胸の奥に灯った火に、ひそやかに応じるように。

一瞬の呼吸のように、やわらかな光を吐いた。





── 翌昼 王女の居室 ──


窓を透かして、淡い陽が石壁を照らしていた。


王女は、椅子に身を預けながら、ただ、ぼんやりと、

何を考えるでもなく、何も考えられないでもなく、

その境目に、ゆるく身体を置いていた。


身体の芯に、妙な気怠さが残っている。重さではなく、どこか空っぽに似た感覚だった。

何かをすべて吐き出したあとの、しんとした静寂。

それが、皮膚の内側からじんわりと広がっていく。


(……泣いた、のだわ)


言葉にするのが、少しだけ恥ずかしかった。

けれど、昨夜の腕の重みや、耳に落ちた声、唇を噛み殺して堪えた涙の熱は、

まだどこか、肌の奥に残っている気がする。


頬を撫でた風が、やわらかくて、心地よかった。

胸の奥を刺すような痛みも、ひりつくような後悔も、

まだ全部は消えていない。


けれど――ほんの少しだけ、

胸の奥にあった重たい何かが、

淡く、ほどけているような気がした。


扉の向こうで、金属が軽く鳴った。

続いて、控えめなノック。


扉が静かに開き、ミレイユが姿を見せた。

手には銀盆を携え、湯気の立つスープとパンが載っている。

いつものように、整った動作で机の上にそれを置くと、

彼女は一礼し、無表情のまま口を開いた。


「……姫様。下働きの娘、リシェルがあなたに会いたがっております」


王女は、まばたきをひとつ。

その名を聞いて、胸の奥の何かがわずかに揺れた。


ミレイユは続けた。

「陛下より特別に、許可が下りました」


窓の光を受けて、銀の器がわずかに光を返す。

昼のはずなのに、その一言だけが、夜の名残のように思えた。

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