3 春の底
── 帝城・王女の居室 ──
外は春の気配に満ちているはずだった。
けれど王女の居室には、まだ冬の名残が色濃く沈んでいた。
石壁に囲まれた空間。
格子窓の向こうでは朝の空気がかすかに揺れているが、その温もりは届かない。
この部屋に射し込むのは、春の光ではなく、閉ざされた静けさだけだった。
市場での一件の後、王女は自室での謹慎を命じられた。
先日の、故国の者たちの罪状が読み上げられた場に列席したときを除けば、すでに半月近く――ずっとこの部屋に閉じこもっている。
王女はひとり、机の前に座っていた。
背筋を伸ばした姿は静謐だが、瞳の奥には波紋のような思索が絶えず揺れていた。
(……あれで、本当によかったのだろうか)
問いが、胸の底から浮かんでは、消えずに残る。
罪状の読み上げが行われた、あの日の大広間。
高窓から射す白い光。
磨き上げられた大理石の床。
玉座の背に掲げられた、黒獅子の紋章。
そして、列席していた帝国貴族たちの視線――
好奇、侮蔑、冷淡。それらが入り混じった、無遠慮な眼差し。
(……私は、彼らの誇りを折っただけなのでは)
記憶が、胸の奥を冷たく這う。
助けたはずの故国の者たちの顔。
叫びも抗いもせず、ただそれぞれの沈黙の中に滲んでいた痛み。
あれは――屈辱のかたちだったのではないか。
かつて王家に仕えた彼らが、王女である自分の口から「命を賭して守る」と聞かされたとき、抱いたのは救いではなく、“信じられていない”という現実だったのかもしれない。
もし彼らが誇りを胸に、最後まで抗おうとしていたのだとしたら。
自分の差し出した手は、むしろその誇りを押し潰したのではなかったか。
「……命を救うため、だなんて」
ぽつりと漏れた声が、静まり返った室内に虚ろに響いた。
(私は……ただ、怖かったのだ)
また誰かが、自分の目の前で死ぬことが。
だから、手を伸ばした。
けれどその手は――
自分がその痛みに耐えたくなかっただけの、弱さからのものだった。
(……私は、信じきれなかっただけ)
もし彼らが、あのまま戦って、そして討たれていたとしても。
それは、名も誇りも失わぬ死だったかもしれない。
それを、奪ったのは――自分。
自分のために命を賭けようとする彼らを、信じることができなかった。
その怖れが。
その弱さが。
その身勝手さが。
彼らの誇りを、踏みにじった――。
窓辺に淡い陽が伸び、机の上の紙片をかすかに照らす。
だが光は冷たく、部屋の温度を変えることはなかった。
そのとき――
扉の外で、衣擦れの音がした。
やがて、控えめなノック。
現れたのは、影のように静かな黒髪の侍女――ミレイユだった。
彼女は王女の前で一礼し、感情のない声で告げた。
「陛下より、お言伝えを預かっております」
王女の胸が、わずかに強く脈打った。
「陛下は、姫様のご様子をお確かめになりたいとのこと。
今夜、私室へお越しになるように――との仰せです」
王女の喉が、わずかに鳴る。
沈黙ののち、ミレイユが小さく付け加えた。
「――“謹慎中ゆえ、形式は要らぬ”とも」
その言葉が、微かな冷気のように部屋に落ちた。
王女は、しばし口を閉ざしたまま、机の上の光を見つめていた。
それは春の光でありながら、どうしようもなく冷たかった。
── 夜・皇帝の私室 ──
回廊の角ごとに衛兵の影が立っていたが、誰も声をかけてはこない。
ただ、王女とミレイユが通るたび、槍を垂れて道を開けた。
扉の前で足を止める。
ミレイユが一度だけ王女を見やり、扉を二度叩いた。
応答はない――だが、彼女はそれで十分と判断したのか、無言で取手を回す。
蝋燭の光がこぼれ、春の夜気が淡く流れ込む。
王女はわずかに息を吸い込み、光の方へ視線を向けた。
ミレイユは一歩退き、扉を静かに支える。
王女は小さく頷き、足を踏み入れた。
木の床が柔らかく鳴る。
その音を背に、扉は静かに閉ざされ、ミレイユと外の気配は遠ざかっていった。
視線の先、長椅子に凭れた男がいる。
黒衣の肩に落ちる光、手にした杯。
王女が一礼すると、ダリオスは目だけを上げ、ゆるやかに笑みを刻む。
「――来たか。一日中、狭い籠の中で膝を抱えて、どうでもいい思考に溺れていただろう。だから呼んでやった」
その言葉に、王女の喉がわずかに詰まる。
図星を射抜かれた痛みが胸の奥に走り、視線を落とす。
「どうせ今も考えているんだろう」
ダリオスの声が続く。
「“あれで良かったのか”“信じるべきだったのか”……堂々巡りだ。
笑わせる。答えの出ない問いを何度転がしても、卵は雛にならん」
王女は、喉の奥に何かがせり上がるのを感じた。
唇がわずかに動く。言葉にしようとした想いが、胸の内で形を持ちかける――けれど、その声が空気を震わす前に、ダリオスの声がそれを封じた。
「お前が口を開けば開くほど、自分の無力を晒すだけだ」
ダリオスの声は、淡々としていた。それだけに、言葉が刃のように響く。
「“信じるべきだった”? なら、黙って奴らが死ぬのを見守ればよかった。
“守りたかった”? なら、己が選んだ道に胸を張れ。あれしか方法はないと思ったからこそ、あの芝居を打ったのだろう?」
王女はうつむく。肩がわずかに震えた。
ダリオスは脚を組み替える。その動作だけで、空気がまた張り詰めた。
「胸を張れぬなら、最初から口を開くな」
言葉は低く、静かに落ちる。
「“故国の兵を信じきれなかった王女”でも、“命を差し出して庇った王女”でも構わん。だが曖昧に揺れる奴に価値はない。そんなものは――ただの自己憐憫だ」
王女は思わず顔を上げた。黒い瞳が、真正面から彼女を捉えている。
追い詰めるのでも、突き放すのでもない。ただ、逃げ場を残さぬほどの現実だけがそこにあった。
瞬間、王女の胸が焼けるように熱くなった。
喉がきゅっと締めつけられ、息がうまく吸えない。
「……っ」
声にならない音だけが、唇の隙間から洩れた。
視線を逸らそうとしたが、できなかった。
黒い瞳に捕らえられたまま、逃げ道が消える。
血の気が引いていくのを感じながら、王女はそっと唇を噛んだ。
指先がかすかに震え、木床の上に影が揺れる。
――言い返せない。
悔しいほどに。
長椅子に凭れたダリオスは、杯を弄ぶ指を止めた。
その沈黙ひとつで空気の重さが変わる。
炎ではなく、静かな刃だけが二人のあいだに漂っていた。
「……言葉はもういらん。来い」
低く、静かな声だった。
穏やかでありながら、拒む余地を与えない声。
(……まだ、何も言っていないのに)
王女は、わずかに息を詰めた。
その声が身体を縫い止めたように、動けない。
胸の奥が強く脈打つ。
蝋燭の光に縁どられた黒い瞳が、まっすぐに自分を射抜く。
酔いのせいか、その奥に普段より柔らかな影が揺れている。
けれどそれが、優しさでないこともわかっていた。
――それでも、考えることから逃れたくて、確かめたくて、足がわずかに前へ出た。
王女は一歩、また一歩と近づいた。
木の床がかすかに鳴る。
その音が、やけに大きく響く。
ダリオスは杯を卓に置き、片腕をゆるやかに上げた。
触れた瞬間、ぐいと力がこもる。
「――!」
声にならぬ息が洩れる。
腰のあたりを引き寄せられ、抗う暇もなく、胸元まで抱き込まれた。
黒衣の中の空気は熱く、葡萄酒と鉄の匂いが混じっていた。
「考えるな」
囁きが、耳の奥に沈んだ。
「理屈を捏ねるたび、お前は自分を弱くする」
言葉よりも近い距離。
呼吸が触れ、心音が重なる。
王女は動けなかった。
拒むことも、受け入れることもできない。
ただ、抱き寄せる腕の重みが、冷たくも確かな現実として、彼女の輪郭を確かめていた。
不意にこみ上げるものがあった。
熱く、浅く、胸の奥をかき乱すような波。
それは、涙だった。
最初はひとすじ。
次に、もうひとすじ。
気づけば、肩が震えていた。押し殺すような嗚咽が、腕の中に洩れた。
(……ああ、私は……)
(何ひとつ、できなかった……)
助けたかった。
守りたかった。
でもそれは、自分のためだったかもしれない。
彼らの力を信じきれず、
自分の恐れから、手を伸ばした。
そうして彼らの誇りを踏みにじった。
嗚咽がまた一つ、喉を突いて洩れた。
この腕の中で泣くことが、どれほどの矛盾か、よくわかっていた。
彼女を囮に使って、故国の者たちを屈させた男――
帝国という名の檻の番人、その象徴。
その腕の中で、王女はいま、
抗えずに、崩れていた。
そして、男は――
黙って、それを抱き留めていた。
言葉はなかった。
拒むことも、慰めることもしなかった。
ただ、しっかりと抱き寄せたまま、
震える身体をその胸に預けさせていた。
春の夜気は、閉ざされた窓の向こうでかすかに揺れていた。
部屋の中にあるのは、ただ小さな嗚咽と、
それを引き受ける静かな腕の重みだけだった。




