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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第五章 光の胎動 ~ 第二幕 裏切りの証 ~
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3 春の底

 ── 帝城・王女の居室 ──


 外は春の気配に満ちているはずだった。

 けれど王女の居室には、まだ冬の名残が色濃く沈んでいた。


 石壁に囲まれた空間。

 格子窓の向こうでは朝の空気がかすかに揺れているが、その温もりは届かない。

 この部屋に射し込むのは、春の光ではなく、閉ざされた静けさだけだった。


 市場での一件の後、王女は自室での謹慎を命じられた。

 先日、故国の者たちの罪状が読み上げられた場に列席したときを除けば、すでに半月近く──ずっとこの部屋に閉じこもっている。


 王女はひとり、机の前に座っていた。

 背筋を伸ばした姿は静謐だが、瞳の奥には波紋のような思索が絶えず揺れていた。


(……あれで、本当によかったのだろうか)


 問いが、胸の底から浮かんでは、消えずに残る。


 罪状の読み上げが行われた、あの日の大広間。


 高窓から射す白い光。磨き上げられた大理石の床。

 玉座の背に掲げられた、黒獅子の紋章。

 そして、列席していた帝国貴族たちの視線──

 好奇、侮蔑、冷淡。それらが入り混じった、無遠慮な眼差し。


(……私は、彼らの誇りを折っただけなのでは)


 記憶が、胸の奥を冷たく這う。


 助けたはずの故国の者たちの顔。

 叫びも抗いもせず、ただそれぞれの沈黙の中に滲んでいた痛み。


 あれは──屈辱のかたちだったのではないか。

 かつて王家に仕えた彼らが、王女である自分の口から「命を賭して守る」と聞かされたとき、抱いたのは救いではなく、“信じられていない”という現実だったのかもしれない。


 もし彼らが誇りを胸に、最後まで抗おうとしていたのだとしたら。

 自分の差し出した手は、むしろその誇りを押し潰しただけなのではないか。


「……命を救うため、だなんて」


 ぽつりと漏れた声が、静まり返った室内に虚ろに響いた。


(私は……ただ、怖かったのだ)


 また誰かが、自分の目の前で死ぬことが。


 だから、手を伸ばした。

 けれどその手は──

 自分がその痛みに耐えたくなかっただけの、弱さからのものだった。


(……私は、信じきれなかっただけ)


 もし彼らが、あのまま戦って、そして討たれていたとしても、それは、名も誇りも失わぬ死だったかもしれない。

 それを、奪ったのは──自分。


 自分のために命を賭けようとする彼らを、信じることができなかった。


 その怖れが。

 その弱さが。

 その身勝手さが。

 彼らの誇りを、踏みにじった──。


 窓辺に淡い陽が伸び、机の上の紙片をかすかに照らす。だが光は冷たく、部屋の温度を変えることはなかった。


 そのとき──

 扉の外で、衣擦れの音がした。

 やがて、控えめなノック。


 現れたのは、影のように静かな黒髪の侍女ミレイユだった。


 彼女は王女の前で一礼し、感情のない声で告げた。

「陛下より、お言伝えを預かっております」


 王女の胸が、わずかに強く脈打った。


「陛下は、姫様のご様子をお確かめになりたいとのこと。今夜、私室へお越しになるように──との仰せです」


 王女の喉が、わずかに鳴る。


 沈黙ののち、ミレイユが小さく付け加えた。

「──“謹慎中ゆえ、形式は要らぬ”とも」


 その言葉が、微かな冷気のように部屋に落ちた。


 王女は、しばし口を閉ざしたまま、机の上の光を見つめていた。

 それは春の光でありながら、どうしようもなく冷たかった。





 ── 皇帝の私室 ──


 回廊の角ごとに衛兵の影が立っていたが、誰も声をかけてはこない。

 ただ、王女とミレイユが通るたび、槍を脇へ寄せ、半歩退いて道を開けた。


 扉の前で足を止める。

 ミレイユが一度だけ王女を見やり、扉を二度叩いた。

 応答はない──だが、彼女はそれで十分と判断したのか、無言で取手を回す。

 蝋燭の光がこぼれ、春の夜気が淡く流れ込む。


 王女はわずかに息を吸い込み、光の方へ視線を向けた。

 ミレイユは一歩退き、扉を静かに支える。

 王女は小さく頷き、足を踏み入れた。

 木の床が柔らかく鳴る。

 その音を背に、扉は静かに閉ざされ、ミレイユと外の気配は遠ざかっていった。


 視線の先、長椅子に凭れた男がいる。

 黒衣の肩に落ちる光、手にした杯。


 王女が一礼すると、ダリオスは目だけを上げ、ゆるやかに笑みを刻む。


「──来たか。一日中、狭い籠の中で膝を抱えて、どうでもいい思考に溺れていただろう。だから呼んでやった」


 その言葉に、王女の喉がわずかに詰まる。

 図星を射抜かれた痛みが胸の奥に走り、視線を落とす。


「どうせ今も考えているんだろう」

 ダリオスの声が続く。

「“あれで良かったのか”、“信じるべきだったのか”……堂々巡りだ。

 笑わせる。答えの出ない問いを何度転がしても、卵は雛にならん」


 王女は、喉の奥に何かがせり上がるのを感じた。

 唇がわずかに動く。

 言葉にしようとした想いが、胸の内で形を持ちかける──けれど、その声が空気を震わす前に、ダリオスの声がそれを封じた。


「お前が口を開けば開くほど、自分の無力を晒すだけだ」


 ダリオスの声は、淡々としていた。それだけに、言葉が刃のように響く。


「“信じるべきだった”? なら、黙って奴らが死ぬのを見守ればよかった。

 “守りたかった”? なら、己が選んだ道に胸を張れ。あれしか方法はないと思ったからこそ、あの芝居を打ったのだろう?」


 王女はうつむく。肩がわずかに震えた。

 ダリオスは脚を組み替える。その動作だけで、空気がまた張り詰めた。


「胸を張れぬなら、最初から口を開くな」


 言葉は低く、静かに落ちる。


「“故国の兵を信じきれなかった王女”でも、“命を差し出して庇った王女”でも構わん。

 だが曖昧に揺れる奴に価値はない。そんなものは──ただの自己憐憫だ」


 王女は思わず顔を上げた。

 黒い瞳が、真正面から彼女を捉えている。

 追い詰めるのでも、突き放すのでもない。ただ、逃げ場を残さぬほどの現実だけがそこにあった。


 瞬間、王女の胸が焼けるように熱くなった。

 喉がきゅっと締めつけられ、息がうまく吸えない。


「……っ」


 声にならない音だけが、唇の隙間から洩れた。

 視線を逸らそうとしたが、できなかった。黒い瞳に捕らえられたまま、逃げ道が消える。


 胸の奥を押さえつけられるような感覚のまま、王女はそっと唇を噛んだ。

 指先がかすかに震え、木床の上に影が揺れる。


 ──言い返せない。

 悔しいほどに。


 長椅子に凭れたダリオスは、杯を弄ぶ指を止めた。

 その沈黙ひとつで空気の重さが変わる。


 静かな刃だけが二人のあいだに漂っていた。


「……言葉はもういらん。来い」


 低く、静かな声だった。穏やかでありながら、拒む余地を与えない声。


(……まだ、何も言っていないのに)


 王女は、わずかに息を詰めた。

 その声が身体を縫い止めたように、動けない。胸の奥が強く脈打つ。


 蝋燭の光に縁どられた黒い瞳が、まっすぐに自分を射抜く。

 酔いのせいか、その奥に普段より柔らかな影が揺れている。けれどそれが、優しさでないこともわかっていた。


 ──それでも、考えることから逃れたくて、確かめたくて、足がわずかに前へ出た。


 王女は一歩、また一歩と近づいた。

 木の床がかすかに鳴る。

 その音が、やけに大きく響く。


 ダリオスは杯を卓に置き、片腕をゆるやかに上げた。

 触れた瞬間、ぐいと力がこもる。


「──!」


 声にならぬ息が洩れる。

 腰のあたりを引き寄せられ、抗う暇もなく、胸元まで抱き込まれた。

 黒衣の中の空気は熱く、葡萄酒と鉄の匂いが混じっていた。


「考えるな」

 囁きが、耳の奥に沈んだ。

「理屈を捏ねるたび、お前は自分を弱くする」


 言葉よりも近い距離。

 呼吸が触れ、心音が重なる。


 王女は動けなかった。

 拒むことも、受け入れることもできない。

 ただ、抱き寄せる腕の重みが、冷たくも確かな現実として、彼女の輪郭を確かめていた。


 不意にこみ上げるものがあった。

 熱く、浅く、胸の奥をかき乱すような波。


 それは、涙だった。

 最初はひとすじ。

 次に、もうひとすじ。


 気づけば、肩が震えていた。押し殺すような嗚咽が、腕の中に洩れた。


(……ああ、私は……)

(何ひとつ、できなかった……)


 助けたかった。

 守りたかった。

 でもそれは、自分のためだったかもしれない。


 彼らの力を信じきれず、

 自分の恐れから、手を伸ばした。

 そうして彼らの誇りを踏みにじった。


 嗚咽がまた一つ、喉を突いて洩れた。

 この腕の中で泣くことが、どれほどの矛盾か、よくわかっていた。


 彼女を囮に使って、故国の者たちを屈させた男──

 帝国という名の檻の番人、その象徴。


 その腕の中で、王女はいま、

 抗えずに、崩れていた。


 そして、男は──

 黙って、それを抱き留めていた。

 言葉はなかった。拒むことも、慰めることもしなかった。


 ただ、しっかりと抱き寄せたまま、震える身体をその胸に預けさせていた。


 春の夜気は、閉ざされた窓の向こうでかすかに揺れていた。

 部屋の中にあるのは、ただ小さな嗚咽と、それを引き受ける静かな腕の重みだけだった。

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