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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第五章 光の胎動 ~ 第二幕 裏切りの証 ~
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1 憂いの火種

── 帝城・執務室 ──


窓から射す淡い陽が、机上の書簡を斜めに照らしていた。

厚い石壁に囲まれた室内は、昼でありながらひんやりとしている。

墨と羊皮紙の匂いが混じり合い、空気は重く静まり返っていた。


扉が二度叩かれ、セヴランが姿を現す。


「……陛下。王女の件につき、進言がございます」


ダリオスは筆を止めず、わずかに指先を動かした。促す合図。

紙を繰る音だけが、一瞬、沈黙を裂く。


「市場での一件――王女が自らの命を賭して故国の民を救おうとした芝居は、多くの目に留まりました」


短く笑う音が返る。


「芝居、か。命を懸けて演じる役者ほど、観衆を惹きつける者はないからな」


セヴランの眉がわずかに動く。


「民衆の間では、“勇気ある王女”と称える声がある一方、“亡国の姫が陛下を動かした”という囁きも広がっております。陛下の御威光に影を落とすことを憂う声が、貴族の間にも少なからずございます」


「……なるほど。愚かな民はあれを“勇気”と呼び、そして臆病な臣は“俺が動かされた”と恐れるか」


ダリオスの声は低く、しかし愉悦を含んでいた。

その響きに、セヴランは一瞬言葉を選ぶように目を伏せる。


「――彼らが恐れるのも無理はありません。あの方は、“千年王家の最後の血統”ですから」


セヴランは静かに息を整え、さらに言葉を重ねた。


「王女殿下はおそらく、“帝国の象徴”という肩書きと、臣下の忠誠によってあの行為を成したと考えておられるでしょうが……」


ダリオスは筆を置き、ゆるやかに顔を上げた。

黒い瞳の奥に、どこか愉しげな光が宿る。


「残党どもも真っ青だったろうな。自分たちのせいで、あわや千年王家の血を、王女自身の手で絶やしかねなかったのだから。……奴らには、少しばかり同情すら覚える」


くく、と低く笑う。


「この一件が他国に伝わるのも時間の問題だ。――大陸中が震撼するな」


セブランは肩をすくめる。


「そうですね。この大陸の中で――何の躊躇もなく、千年王家の血を絶やすことができる方を、私は一人しか知りませんよ」


セヴランの脳裏に、あの夜の命令が反芻される。


――王族たちは全員、粛清せよ。

――ただし、末の姫については、捕縛が容易なら捕縛。困難であれば他と同様に処すこと。


血統や伝統に敏感な諸侯への配慮も計算に入れたうえで、あの末姫――目立たず従順そうな姫君を、生かして利用することを一つの手と見なした。だがその価値は、捕縛に要する手間と戦火の長期化を秤にかけた時、容易く切り捨てられる程度のものだった。


“千年”という重みを持つ王家の血統。

それを「可能なら残せ、難しければ断て」と判断できる者が、どれほどいるだろうか。


しかも、そうして手に入れた最後の血統を――

ダリオスは宮中の奥深くに大切にしまうことをしなかった。


守るでも、閉じ込めるでもなく。


むしろ彼は、一度だけ、籠の鳥を外へ放ち、触れさせたのだ。

自由の幻影と、外の空気とを。


そして、それらに触れて戻ってきた王女を、今度は“象徴”として人々の前に立たせた。


もしあのまま、宮中の奥にひっそりと置かれていたならば――

王女は目立たず、従順な姫として、ただ血統の記号に徹するだけだったかもしれない。


だが、外に出されたことで、火種は空気に触れた。


王女は燃え始めた。

炭のように静かに、けれど確かに内側から。


それを灯したのは、他ならぬ――ダリオスその人だった。


「……もう一人いるじゃないか」


不意に差し込まれた声に、セヴランは思考の深みから引き戻される。

書簡の山の向こう、ダリオスがわずかに唇を歪めていた。


「この大陸で――何の躊躇もなく、千年王家の血を絶やそうとした者。もう一人いるだろう」


その声に、セヴランは一拍置いてまばたきする。

そして、わずかに視線を伏せながら、ふうっと息を吐いた。


「……それは、本人がその価値を理解していないからですよ」

淡々とした口調に、うっすらと疲労がにじむ。


ダリオスは鼻先で笑い、指先で机上の小道具を転がすように弄ぶ。

「己の血の重みも知らず、命を投げ出すとは――まったく、愚かな姫だ」


嘲るように言いながら、どこか愉快げな光が黒い瞳に灯る。


「だが、いい。そういう愚かさは――時に、神すら欺く」


椅子に背を預け、肩で笑いを漏らす。


「民は知らぬままに涙し、異国の王たちは震え上がる。

 誰が舞台を整えたかも知らずにな」


低く、満ち足りたような笑み。

それはまるで、手のひらに乗せた駒が、思わぬ動きを見せたことに対する、支配者の愉悦だった。


笑みの余韻が執務室に漂う中、セヴランは黙して応じなかった。

机上に視線を落としたまま、わずかに眉を寄せている。


その気配を捉えたダリオスが、ふと問いかける。


「……どうした。お前にしては、歯切れが悪いな」


セヴランはしばし逡巡し、やがて静かに口を開く。


「――愚かさが、陛下の手のひらの内に収まっているうちは、よいのです」


言葉は低く、慎重に選ばれていた。


「だが……あの王女が、いつか自身の“血の価値”に気づいたなら――その時こそが、恐ろしい」


沈んだ声に、ダリオスの手が止まり、紙を繰る音がふと途切れた。

だが、顔を上げぬまま、無言のうちに続きを促す。


「市場の件で見えました。己の目的のためならば、あの姫は――手段を選ばない」


言い終えて、セヴランはわずかに口を結んだ。

冷静な語り口の奥に、理屈では割り切れぬものへの警戒が滲んでいる。


「もし彼女が、自らの血が持つ力を理解したとき――それを“使う”ことを覚えたとき。それが……私には、恐ろしいのです」


火は、焚べた者の手をも焼く。

セヴランの目は、その予兆を確かに見ていた。


ダリオスは肩を揺らし、小さく笑った。

挑発のように、あるいは試すように言い放つ。


「目的のためなら手段を選ばない――それなら、俺も同じだが?」


セヴランは即座には答えなかった。

静かに視線を上げ、そのまま間合いを測るように口を開く。


「――違いますよ、陛下」


声音はあくまで穏やかで、しかし言葉の端々は鋭かった。


「陛下は“秩序”のために手段を選ばれません。世界を動かすための道具として、人も、血も、感情も使われる。そこには計算があり、終着点がある」


一拍置き、淡々と続ける。


「けれど――あの姫は違います。

 あの方が動くのは“理”ではなく、“情”です。怒り、憐れみ、あるいは誰かの涙。

 それらに突き動かされ、その行為が何を引き起こすのか――想像のつかぬまま突き進んでしまう」


セヴランはわずかに眉を寄せ、言葉を重ねた。


「本来、“情”というものは、それほどの力を持たぬはずです。

 人の心の内に生じ、やがて秩序の中へ吸収されていく。怒りも憐れみも、形を持たなければ、ただの感傷に過ぎません」


そこで一度、息を整える。


「ですが、王女の場合は違う。

 あの方には、己の目的のためならば手段を選ばぬ強さがある。

 そして、“千年王家の血”という、理では縛れぬ力を持っている。

 その二つが交われば――情は秩序の中に収まらず、形を持って広がっていくのです」


セヴランの声は低く、静かに沈んだ。

淡々とした語りの中に、言葉にならぬ憂慮が滲む。


「その広がりは、人の心に火を灯す。やがてそれが“力”となる。

 理では届かぬところで、人はあの姫に惹かれ出す。

 涙や怒りに、形のない正しさを見出してしまう。それが集まれば、秩序の外に“信”が生まれる」


視線を伏せたまま、セヴランはわずかに息を吐いた。


「……混沌の芽ですよ、陛下。

 誰の手にも制せぬ火が、あの方の胸の奥で、静かに育っている」


沈黙ののち、ダリオスがゆるやかに口を開く。

その声音は、穏やかさの裏に探るような硬質を帯びていた。


「……お前としては、あの火を――今のうちに消したい、ということか?」


窓からの陽がわずかに陰り、室内の空気が重くなる。

問いというより、測るための言葉。

皇帝の瞳は静かにセヴランを射抜いていた。


セヴランはしばし沈黙した。

やがて、視線を落としたまま、ゆっくりと口を開く。


「……消せるものなら、と思うこともあります」


淡い息とともに吐き出された言葉は、迷いよりも慎重さを帯びていた。


「ですが――あれは、陛下ご自身が灯された火です。

 むやみに吹き消せば、光もまた失われる。

 それに……火というものは、押さえつけるほどに強く燃えるものです」


セヴランはわずかに顔を上げた。

瞳は静かだが、底に冷たい光を宿している。


「私はただ、燃え広がる前に形を与えねばならないと思っております。

 制御できぬ炎ほど、厄介なものはありませんから」


言い終えた声は、忠誠と警鐘の狭間に揺れていた。


ダリオスは一度、椅子にもたれ、静かに瞳を細めた。


「……なるほど。考えておこう」


短くそう告げてから、ふと何かを思い出したように口元を緩める。

そして空気を切り替えるように、軽い調子で言葉を継いだ。


「だがしかし――」


くく、と喉の奥で笑いを漏らす。

「市場で王女の前に立ち尽くしていたお前の姿、あれはなかなか面白かったぞ。

 お前ほど冷静な男が、青ざめて言葉を失うとはな」


愉快そうに肩を揺らし、思い出し笑いを隠そうともしない。


セヴランは僅かに眉をひそめ、静かに顔を背けた。

「……陛下の御前で、軽率な反応をお見せしました」


それ以上何も弁じなかったが、その声色には明らかな不機嫌がにじんでいた。

普段の沈着を崩さぬ男が、珍しく感情を浮かべた一瞬だった。


ダリオスは愉快げに側近の横顔をしばし眺めて、

――たしかにな、と心の内で呟く。

あの女は、人の心を揺らす“何か”を持っている。


日差しが机の上に伸び、二人の間に沈黙が落ちた。

紙の擦れる音だけが、再び部屋の静けさを満たしていった。

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