16 命の使い道
「ずいぶんと大立ち回りしたものだな」
ダリオスの声が、静まり返った市場の一角に低く響いた。
冷ややかでありながら、どこか愉しげな調子。
その響きに、空気はさらに緊張を深めていく。
王女は首に刃を押し当てたまま、震えを押し殺し、まっすぐに彼を見据えた。
「……陛下。どうか――この者たちの命を、お救いください」
ダリオスは応えず、ゆっくりと視線を巡らせる。
剣を捨て、両手を上げた残党たち。
槍を構えながらも動けずにいる兵たち。
張り詰めたまま息を呑む民衆。
王女の前で、立ち尽くす側近。
そして、血をにじませながら毅然と立つ王女。
その光景を前に、喉奥でくくっと笑った。
「……なるほど。自らの命を盾に、兵も民も縛り上げるとはな」
ゆるやかに一歩、前へ出る。
その威容と気配だけで、場一帯の空気は重く沈む。
沈黙。
誰ひとり声を上げず、風さえ止んだかのようだった。
やがて――帝王の声が落ちる。
「よかろう。この者たちの命は助けよう。慈悲を乞うその姿に免じてな」
その宣言は雷鳴のように響き、市場全体を揺るがせた。
民衆の間からどよめきが溢れ、歓声が上がり、あちこちで安堵のため息がもれた。
「……命が助かるのか!」
「姫様が助けたんだ!」
「良かったねえ、お姫様……!」
そして、ざわめきの中から誰かが叫ぶ。
「王女様が――あの黒獅子を動かしたんだ!」
その一言が火種のように広がり、歓声はさらに大きくなった。
驚き、敬意、信じられぬ思いが入り混じり、
束の間、帝都の空の下に、奇跡のような熱気が満ちていった。
その熱狂と安堵の渦の中心で、王女は刃を下ろし、深く息を吐いた。
帝国兵たちが動き出し、剣を持たぬ故国の者たちを一人ずつ拘束していった。
両手を後ろで縛られ、押しやられていく影。
静かに目を閉じて受け入れる者。
歯を食いしばり、悔しさを滲ませる者。
うつむき、涙を堪えきれず肩を震わせる者。
王女はその姿を見つめながら、胸の奥に絡み合うものを抱え込む。
救ったはずの命。奪われていく自由。
誇りを守ったのか、それとも裏切ったのか――答えはまだ、自らにも定められなかった。
彼らが連れ去られる音だけが、石畳に乾いて響く。
張り詰めていたものが、一気にほどけた。
王女の手から力が抜け、膝が崩れる。
カラン――
果物ナイフが石畳を転がり、甲高い音を立てて止まった。
歓声を上げていた群衆が、それを目にして、静まる。
リシェルが人混みを押しのけて駆け寄ろうとしたが、すぐさま兵に腕を取られ、制される。
倒れ込んだ王女の傍らに影が落ちる。
ダリオスがゆるやかに身を屈め、両腕でその身を抱き上げた。
その仕草は、まるで壊れものを扱うように静かで優しい。
見守る民衆から、思わず、ほぅと小さな吐息が漏れる。
その一挙手一投足に、畏れと憧れが入り混じった視線が集まっていた。
ルデクは両手を縛られ、仲間と共に帝国兵に連行されながら、
振り返って、倒れた王女を抱き上げる男の姿を見つめた。
(……あれが、黒獅子か)
確かに威容だ――認めざるを得ない。
だが……同時に思う。
もし彼が自分の立場だったなら――きっと剣を置かなかっただろう、と。
あの男にはきっとわかるまい。
ここで剣を置くことこそが、自分たちにとって何よりの誇りであることを。
王女に自分たちの力を信じてもらえなかったことは、胸を刺す。
だが、彼女があの男を信じているわけではない。あの男が王女の心を恐怖で縛っているにすぎない。
(俺たちは負けた。だが――負けきったわけではない)
ルデクの瞳に、静かな誇りと覚悟の光が宿る。
王女を腕に抱いたダリオスは、ふと背後からの視線を感じて目をやる。
連行の列の中――縛られた男が鋭くこちらを見据えている。
ダリオスは一瞬だけ顔を向け、唇の端をわずかに歪めた。
勝者の余裕とも、挑発ともつかぬ、ごく短い仕草。
視線がぶつかり、火花のような間が走る。
次の瞬間にはダリオスは顔を戻し、何事もなかったかのように歩みを進めていた。
抱いた王女の重みが、その腕にひたりと伝わっていた。
── 夕刻 帝城・王女の居室 ──
意識の底にあった暗がりがほどけ、王女はゆるやかに瞼を開いた。
窓の外から夕映えが射し込み、床の石に橙の影を落としている。
身じろぎした瞬間、足首に重い感触が走った。
布団越しに、鉄枷の冷たさが伝わってくる。
喉元に、ふと柔らかな違和感を覚える。
手をやると、包帯が静かに巻かれていた。
そこに自ら押し当てた刃の痛みが、まだ生々しく残っている。
「……お目覚めですか」
静かな声に振り仰ぐと、傍らにミレイユが控えていた。
いつもと変わらぬ淡々とした調子だが、その瞳には一瞬だけ影のような色が揺れた。
「陛下にお伝えしてまいります」
そう告げて、静かに立ち上がり部屋を後にする。
残された静寂の中、王女はただ自分の呼吸を確かめるように胸を上下させた。
やがて、扉の軋む音が響き、重い気配が差し込む。
ダリオスが姿を現す。
夕光を受けた影は長く床に伸び、王女のもとへゆっくりと近づいてくる。
身を起こそうとする王女を、片手の仕草で制した。
寝台の傍らに立つと、ふっと口端に笑みを浮かべて言った。
「何を企んでいるのかと思っていたが……さすがに俺も、あれは予想できなかった」
称賛とも皮肉ともつかぬ調子。
愉しげな響きが一瞬だけ場を和ませたが――続いた声は厳しかった。
「だが勘違いするな。あれはお前の力ではない。俺が許したから、命が残ったのだ」
「……わかっています」
王女が差し出したものが、彼にとってどれほどの価値を持つのか。
それは自信のない賭けに過ぎなかった。
あの場で願いを一蹴することも、この男なら容易にできただろう。
結局のところ――与えられたのは彼の慈悲。
すべては、この男の掌の中にある。
ダリオスは枕辺の椅子を引き寄せて腰を下ろすと、王女を見下ろしながら言葉を続けた。
「残党たちは、命こそ助けるが――罪人として労役に服す。血は流さずとも、贖いは必要だ」
淡々と告げられる響きが、容赦なく胸に突き刺さる。
「そして……別の場に潜む仲間たちの情報も吐かせるつもりだ。口を閉ざす者がいれば、拷問は致し方ない。生きている限り、己の持つものを差し出す責務がある」
王女の胸に鋭い痛みが走った。
拷問――その冷徹な響きが耳に残り、吐き気に似た衝動が喉を塞ぐ。
けれど反論の言葉は見つからず、唇を結んで黙してこらえた。
ダリオスは視線を逸らさぬまま、さらに重ねる。
「お前には、その裁きの場に列席してもらう。罪状が読み上げられた後、帝国の慈悲に感謝し、俺の前で頭を下げるのだ」
王女は目を伏せ、痛みを押し殺す。
無力さが胸を焼きつけるように響いていた。
それでも最後、小さく首を縦に振った。
「……承知しました」
その声は細く、胸を押し潰されるような響きを帯びていた。
沈黙が落ちる。
ダリオスは彼女を見据えたまま、微動だにしなかったが――
やがて、その厳しい表情がふっと和らぐ。
わずかな笑みを含んだ声音が落ちた。
「今日のお前の行動は――己の命の使い道を知る者の行動だった」
王女の胸が跳ねる。
驚きに目を見開き、言葉を失ったまま彼を見返した。
それが賞賛なのか、嘲りなのか、判別がつかない。
ダリオスは椅子からゆるやかに立ち上がる。
影が大きく伸び、王女を覆った。
そして――大きな手が伸び、包帯に覆われた首筋へそっと触れる。
彼女が命を賭して刃を当てた場所。
その痕を、確かめるように静かに撫でた。
「今日はゆっくり休め」
低い声が落ち、温もりが一瞬だけ残る。
やがて手が離れ、背を向けた。
扉が閉じられると、室内には夕映えの光と、王女の浅い呼吸だけが残った。




