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15 証が揺らすもの

 ── 帝都市場・高所 ──


 セヴランは高所から市場全体を見下ろしていた。

 人波が割れ、馬車の暴走が生んだ混乱が渦を巻いている。


 伝令が駆け寄り、息を弾ませて告げた。

「……王女殿下が、連れ去られました!」


 セヴランは短く頷いた。

「予定どおりだ」


 騒ぎの中心と思しき広場の一角に目を向けながら、

 残党の逃走方向が定まり次第、移動しよう──そう考えていた、そのとき。


 新たな伝令が駆け込む。

 顔に戸惑いを浮かべ、慎重に言葉を選ぶ。


「王女……殿下が……民衆を前に、自ら首に刃を当てて叫んでおります。

 ……いかがいたしましょう?」


 沈黙が落ちた。

 高所に吹きつける風が外套を揺らす音だけが、やけに鮮明に耳を打つ。


 セヴランの瞳が大きく見開かれる。

 計算し尽くした舞台に、想定外の駒が踊り出た──直感がそう告げた。


 短く息を吐き、思考を整える。


(民衆の前で王女が自死すれば、帝国の威は確かに揺らぐ。そこを突いて、残党を見逃すよう迫るつもりか)


 だが──そんな脅しに屈し、王女の要求をのめば、それこそ帝国の威信が傷つく。


(……よし、錯乱だ)


 この場は「姫の錯乱」としてやり過ごせばいい。

 ──実際、こんな真似は錯乱以外の何ものでもないだろう。


 まず王女を確保し、同時に逃げる残党の追跡を命じれば済む。

 そう断じて、判断を定める。


「……王女の確保、残党の──」


 命令を下そうと口を開きかけたその時、新たな伝令が駆け込んできた。


「王女は……! 帝国兵に向けて残党の命乞いをし、さらに──残党たちに降伏を迫っております!」

「……!」


 さらなる想定外の報せに、冷徹な思考が再び立ち止まる。


 自分たちが決死の思いで助け出そうとした姫に、首に刃を当てられて降伏を迫られる残党たち──その姿に、一抹の同情を覚える。


 セヴランは思考を再開した。


 つまり、王女は交渉を試みているのか。

 世間知らずのお飾りと見ていたが──ほんの少し、考えを改めざるを得なかった。

 確かに、彼女の立場で打てる手としては、それが最善なのかもしれない。


 しかし、計算は冷ややかに走る。


(……王女が降伏を迫ったところで、残党が応じるか?)


 王女の前に姿を現している者ならともかく、市場に潜んでいる連中は逃げるだろう。

 ひと握りの降伏と、帝国の威の揺らぎ──交渉の天秤は釣り合わない。姫には気の毒だが。


 いずれにせよ、王女の確保と逃走する残党の追跡が最優先事項だ。

 そう結論づけ、命令を下そうと口を開いた、その時。


「報告! 残党ども、隠れていた者も含めて……全員が武器を捨て、降伏しました!」


 セヴランは完全に固まった。

 高所の風が翻る中、冷徹な思考は途切れ──残ったのは沈黙だけだった。





 ── 市場の一角 ──


 首に刃を当てたままの王女の前に、一人の男が進み出ていた。


「王女殿下、我らの権限は、残党を捕縛するまでにあります。その後の命の裁きについての権限は、我らにはございません」


 革の外套に長剣を差したその男は、この場の指揮官らしかった。

 取り囲む兵らは息を呑み、群衆は遠巻きにざわめいている。


 男の言葉に、王女は刃をさらに首筋へ押し込み、喉を震わせながらも明瞭な声を放った。

「では、裁量を持つ者を呼んでください。さもなくば、私はこの場で命を絶ちます!」


 刃先が白い肌を裂き、血が一筋、石畳に滴った。

 誰かが息をのむ。


 その時、遠くで馬蹄の音と足音が交じる。

 人垣をかき分けるように、ひとりの男が現れた。

 帝国の官服をまとい、鋭い目をした男──セヴランだった。


「姫君……」


 息を切らせたセヴランが駆け込んでくる。

 そして、周囲に視線を巡らせ、彼は言葉を失った。


 剣を置き、両手を上げて投降する残党たち。

 息を呑み、成り行きを見守る兵たち。

 ざわめきながらも一歩も動けない民衆。


 そして──

 そのすべての視線の先に立つ、首に刃を当てた王女の姿。


 セヴランの胸を、得体の知れぬ感覚が突き刺した。

 侵しがたい──神聖で、抗えぬ空気がその場を覆っていた。


 それでも何とか息を整えて、王女の前に一歩進み出る。

「姫君、その刃を下ろしてください。危険ですゆえ……」


 だが王女は、首の刃をゆるめることなくセヴランを見据えた。

 その瞳には、揺るがぬ意志が宿っている。


「この者たちは、誰を傷つけることもなく武器を置いて投降しました。

 彼らの命は、守られるべきものです。

 彼らの命を助けると、今ここで、お約束ください」


 刃はなお白い肌に食い込み、血が赤い筋を描いて滴る。

 広場を覆う沈黙の中で、その声だけが凛として響いた。


「もしも、あなたにも裁量権がないのであれば──裁量を持つ者を呼んでください。

 さもなくば、私はここで命を絶ちます」


 まっすぐにセヴランを見据え、決然と迫るその姿。

 そこには、一年前、国境で泣き崩れていた娘の面影はどこにもなかった。


 セヴランは圧され、言葉を飲み込んだ。

 胸の奥で、鋭い葛藤が走った。


 裁量権を持つのは、皇帝ただ一人。

 この場で王女の願いを呑み、皇帝を呼び寄せるなど──その権威に傷をつけるも同然。承認できるはずがない。


 だが目の前の王女には、それを口にさせぬ何かがあった。

 理を超えて迫ってくる、抗いがたい力。


 セヴランは剣を置いた残党たちへと視線を移す。

(なぜ、逃げなかった……?)


 王女の策が通じるなど、誰も本気で信じてはいまい。

 それでも彼らは従った。武器を捨て、この場に留まった。


 セヴランの胸奥で、硬い均衡がきしむ。

 感情を廃し、秩序を優先する──それが平和へのただひとつの道だと、疑ったことはなかった。


 だが今、その確信が静かに傾いていく。


 首に刃を当て、毅然と立つ王女。

 刃を捨て、逃げもせず、ただ彼女の声に従った残党たち。

 息を呑み、沈黙のまま見守る兵と民衆。


 そのすべてが、セヴランの内に築いた秩序を揺るがしていた。


 これは危うい──直感が告げる。


 この王女は危険だ。

 理の外に在りながら、人の心を動かす。

 それは秩序か、はたまた混乱か……。




 ──その時。


 ざわ……と、民衆の間に波が走った。

 誰かが息を呑み、誰かが膝を折る。


 群衆が左右へと割れていき、石畳の上に自然と一本の道ができあがった。

 その道を、ひとりの男が悠然と歩んでくる。


「……黒獅子だ」

 誰かのかすれたつぶやきが、広場の空気を震わせた。


 その気配とともに、広場を覆っていた緊張は形を変えた。

 張りつめた糸のような静けさはほどけ、代わりにずしりと重たい圧が空気を満たす。

 畏れと敬いを混ぜ合わせた、圧倒的な気配。


 春光を背に受け、迷いなく王女の前まで進み出た男の姿を、人々は息をのんで見守った。


 男は足を止め、静かに王女を見据えた。


「ずいぶんと大立ち回りしたものだな」


 口端をわずかに上げ、ダリオスは愉しげに言った。


 その声音には、嘲りとも賞賛ともつかぬ響きが混じっている。まるで、この異様な場の空気そのものを味わうかのように。

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