12 運命の朝
春の陽がやわらかに満ち始めたその日、帝都の空は青く澄み渡っていた――。
冬の冷気は遠ざかり、風に混じるのは芽吹きの匂い。
月に一度の「月の市」を告げる鐘の音が、城壁の内外に軽やかに響いていた。
── 帝都・下町の一角 夜明け過ぎ ──
薄明の光が石畳を染め始める頃、ルデクは小さな宿の裏手で革の手袋を締め直した。
明け方のまだ冷える空気を吸い込みながら、胸の奥に静かな熱を押しとどめる。
(……今日だ)
仲間たちと積み重ねてきた月日が、この一日に凝縮されている。
無謀ではない。だが、成功を約束された策でもない。
それでも――。
「姫さまを迎えに行く」
そう誓った時から、この日を疑ったことはなかった。
栗色の髪を後ろで結い直す。
顔を上げれば、帝都の空はあまりにも清らかで、まるでこの日のために整えられたかのように澄んでいた。
故国の名は地図から消えた。
人々は帝国の秩序に縛られながら、それでも日々を生きている。
その誇りを結び直す旗――それが王女であると、ルデクは信じていた。
──ふと、神殿でのやり取りが脳裏をよぎる。
神殿の奥、冷えた石の床に差し込んだ淡い光。
あのときの声と、二人きりで交わした目線の交錯。
「……貴女の心がどこにあるのか、それだけは教えてほしい。 我らの忠義が、独りよがりで終わらぬように」
言葉を受けた王女は、かすかに目を震わせ、唇を噛んだ。
瞳には迷いと恐れが混じり、しかしどこかに薄い光も宿していた。
だがその先を見定める前に、時間は過ぎ去ってしまった。
答えを待つには、あまりに刻が短すぎたのだ。
(……選んでほしかった。だが、もう待てぬ)
決行の日は来てしまった。
王女の意思を確かめぬまま、旗を掲げようとしている自分たち。
それが独りよがりでないと信じたい――その願いと同時に、答えを得られぬまま進むことの痛みが胸を刺す。
それでも――。
ふいに、穏やかな午後の情景が脳裏をかすめる。
陽光の下、幼き姫が馬上で笑い、風に揺れる柔らかな髪。
震える手で涙を拭い、笑顔を見せたあの日。
それは、まだ国が国でありえた頃の姿。
仕えることが誇りであり、守ることが幸福だった時代の象徴。
ルデクは静かに息を吐いた。
仲間を生かすために、無用な血は流さない。
剣を掲げるのではなく――姫を、あの旗を、再び掲げるために。
決戦の場は「月の市」。
春の陽光に包まれ、人波に紛れるその喧噪の中で、彼らは一手を放つ。
ルデクは背筋を伸ばし、歩みを前へと進めた。
今日という日が、姫の運命を――いや、彼らすべての未来を決するのだ。
── 帝城・執務室 早朝 ──
高窓から差し込む光はすでに柔らかく、窓外の柳がそよぐたびに室内に淡い揺らぎを落とした。
遠くでは月の市を告げる鐘が低く一度鳴り、帝都の朝を呼び覚ましていた。
ダリオスは窓辺に立ち、春先の陽光に目を細めている。
その背へ向け、セヴランが一歩進み出て静かに声を発した。
「市場・街道・農村の包囲はすべて完了しました」
二人の間に置かれた机の上には地図が広げられ、赤い印が点々と並んでいる。
「予定どおり残党どもが王女を攫った場合、こちらはその動きを追い、拠点の農村へ逃げ込んだところで包囲、一網打尽にします」
セヴランはわずかに息を継いだ。
「王女の保全を最優先とし、残党は首魁を生け捕りに。それ以外は状況に応じて処断、あるいは泳がせて尾を掴みます」
報告には迷いの影など微塵もなかった。
視線を上げたセヴランは、最後に短く結んだ。
「私は市場の高所から全体を監視し、王女奪取直後の動きを確認。のちに農村へ移動して最終指揮を執ります」
窓辺に立つダリオスは、春光を受けながら、ゆるやかに頷いた。
「よかろう。予定どおりだ」
セヴランが一礼して執務室を後にすると、扉が閉ざされ、部屋は静けさを取り戻した。
ダリオスは窓辺に立ったまま、帝都の屋根並みを見下ろした。
市場へと続く街道には、すでに人の流れが芽吹くように広がり始めている。
「……大人しく囮を続けることを受け入れたようだが」
低く呟き、唇にかすかな嗤みを刻む。
「さて――何を企んでいるのやら」
謁見の間で王女の懇願を退けて以降の日々。
従順を装いながらも、時折ふとした瞬間に覗く琥珀の瞳には、まだ火が残っていた。
死んだように俯くのではなく、消えきらぬ光をひそやかに抱え続ける眼差し――。
その像を胸に浮かべ、ダリオスはふっと笑った。
春光が、彼の黒い瞳に冷ややかな煌めきを宿していた。
── 帝城・厨房 朝 ──
竈の火がぱちぱちと音を立て、湯気と香ばしい匂いが立ちのぼる。
木皿や銅鍋のぶつかる音が響き、朝餉の支度に追われる声が飛び交っていた。
「今日は月の市だから、買い出しに出るわよ」
リシェルが手を止め、何気なく告げる。
その一言に、王女の胸がどきりと鳴った。
(……今日、なのかもしれない)
決行の刻は読めない。けれど、それが今日である可能性は否応なく胸を刺す。
王女は調理台の端に置かれた果物ナイフへ視線を落とした。
小さな刃を手に取ると、誰の目にも触れぬよう布の陰に滑り込ませ、そっと懐に忍ばせる。
「果物はどの店に寄るのがいいと思う? 前に甘い林檎を買ったところにする?」
少し離れた場所から、リシェルが明るい声をかけてきた。
はっとして振り向き、慌てて彼女の元へ駆け寄る。
胸の奥の鼓動は、まだ落ち着かぬままだった。
こうして、それぞれの胸に秘めた決意を抱えながら――
運命の一日は、静かに幕を開けた。




