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11 絶望の先に

 ── 帝城・回廊 ──


 重い扉が背後で閉ざされる。

 その音は、謁見の間に残した声が二度と届かぬことを告げる鐘のようだった。


 厚い扉の向こうからは、何の気配も返ってこない。

 石造りの回廊に、衛兵の靴音だけが乾いた響きを残す。

 王女はその音を聞きながら、胸の奥で何かが静かに崩れていくのを感じていた。


(……届かなかった……)





 ── 王女の居室 ──


 衛兵に導かれ、王女は重い足取りで回廊を進んだ。

 やがて自室の扉の前に立たされると、無言のまま中へ押し入れられる。


 足がもつれ、思わずよろめいた。

 背後で扉が閉ざされる音だけが、冷たく響く。


 その瞬間、全身から力が抜けた。

 支えを失った身体は、糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちる。

 冷たい石の感触が手のひらを刺し、息が浅く漏れた。


 胸の奥は空洞のように虚しく、喉は乾ききって声も出ない。


 謁見の間での叫びは、石壁に吸い込まれただけだった。

 誇りも羞恥も投げ捨て、頭を垂れ、声を枯らしても──

 皇帝は冷たい笑みを浮かべて、ただ退けた。


 胸が焼けるように痛んだ。

 けれど涙は出なかった。

 涙を流せば、それは彼の与えた絶望を受け入れることになる気がした。


 床にうずくまり、王女は顔を上げることもできない。

 胸の奥に残っているのは、謁見の間で退けられた言葉の余韻だった。


 ──囮を続けるか、牢に繋がれるか。

 その一節だけが、他をかき消すように何度も脳裏で反響していた。


 そのとき、扉の金具が音を立てた。


 銀盆を抱えたミレイユが静かに入ってくる。

 無言のまま、水差しと杯を机に置き、部屋を一巡して点検する。

 すべて、いつもと変わらぬ仕草のはずだった。


 けれど、王女の胸には、堪えきれぬ熱が渦巻いていた。


 ──『城外で他の男と逢引きした咎で、牢に繋がれるか──』


 ダリオスの冷たい声が、耳奥に焼きついて離れない。


(……露店で私とルデクを見ていたのも、この人……)

(神殿で会話できたのも、彼女が“たまたま”場を離れていたから……)


 ダリオスの罠だと気づいた時点で、わかっていた。

 ミレイユがわざとあの場を離れ、会話の機会を作ったのだと。

 それがすべて、ダリオスの命令に従った行動であることも理解していた。


 ……理解はしていた。


 だが今、絶望に押し潰されそうな胸の奥で、その理解は、理屈では収まりきらない怒りへと変わっていた。


「……どうして……」


 掠れた声がこぼれた。

 ミレイユの手が一瞬、止まる。


 王女は立ち上がり、堰を切ったように叫んでいた。


「どうして、そんなことができるの……!

 露店での私たちを、陛下に報告して……

 神殿で、わざとその場を離れて……罠を仕掛けて……!

 命じられたからって──どうして、そんなふうに人を追い詰めることができるの?

 それが誰かの命を奪うかもしれないって、分かっていたでしょう!?」


 震える声が、石壁に跳ね返って部屋を満たす。


 ミレイユはただ黙って王女を見つめていた。

 その瞳には揺らぎがなく、王女の激情だけが空気を震わせ続けていた。


「それが私の仕事だからです」

 やがて、淡々とした答えが落ちる。


 ミレイユは少し首をかしげてから、さらに重ねた。

「命じられたことを果たすのは、当たり前のことです。陛下に仕えると決めているのだから、それが当然ではありませんか」


 素朴な声音。

 それは怒りを受け止めるでも、反論するでもない。

 ただ、王女には理解できない冷たさで胸を突いてきた。


「……っ」


 王女の喉の奥までせり上がっていた言葉が、そこで途切れる。

 怒りはなお燃えているのに、目の前の相手は熱を受け止めない。

 その虚しさが、かえって力を削いでいった。


 王女は唇を噛み、視線を逸らすしかなかった。


 やがて、静かな足音が扉の方へ向かう。

 出ていく直前、ミレイユは振り返らずに言い置いた。


「姫様は──姫様の“やる”と決められたことを、なさればいいのではありませんか?」


 それは慰めでも、叱責でもなかった。

 ただ静かに放たれた問いかけだった。


 王女は思わず息を呑む。


 次の瞬間、扉が閉まる音が響き、石壁に淡く余韻を残す。


 そのまま王女は、しばらく動けなかった。

 静寂が、石の部屋を包みこむ。


 胸の奥で、ミレイユの言葉が、何度も繰り返し響いていた。


 ──姫様は、姫様の“やる”と決められたことを。


(……私の“やると決めたこと”……)


 それは、ルデクたちを救うこと。

 彼らの命を──何としてでも、守り抜くと誓ったのだ。


 必死の懇願は退けられ、

 声も涙も、ただ石壁に吸い込まれていった。

 けれど、それでも。


(私は、彼らを決して死なせはしないと決めた)


 胸の奥に、ひそやかな灯がともる。

 それは怒りでも、嘆きでもない。

 ひとすじの意志だけが、暗闇の底で確かに息づいている。


 ならば。

 この手で──別の道を探せばいい。


 ダリオスに縋るだけが、すべてではない。

 この籠の中に囚われていても、まだ為せることがあるはずだ。




     * * *




 格子窓の外では、光が少しずつ傾いていっていた。

 白く照らされていた石壁には、いつのまにか長い影が伸び、やがて橙の色が部屋に沈むような陰を落とした。


 王女は、うずくまったまま両腕で自分を抱きしめていた。

 胸の奥にともった小さな灯を守るように──。


 けれど、どれほど考えても答えは見つからなかった。

 思考は輪を描くだけで、時の砂が静かに落ちていく。


(……やっぱり、別の方法なんてないの……?)


 空の色が暮れへと移ろうように、胸の中の灯も、かすかに揺らめいていた。

 掴もうとした希望が、指の隙間から零れ落ちていく感覚──。


 闇が胸の内側から静かに満ちてくる。

 何も見えず、何も届かない。

 その黒に引きずられるように、心の底が音もなく沈んでいきそうになる。


 その時だった。

 不意にあの男の声が脳裏に浮かんだ。


 ──『お前の価値は、帝国の覇を示す証にすぎない』


 冷たく突き刺さる声。

 だが、なぜかその言葉が胸の奥にひっかかった。


「……私の、価値……」


 思わず、唇から小さくこぼれた。


「……私は……『帝国の覇と慈悲を示す証』……」


 幾度となく男に突きつけられてきた屈辱の言葉。

 それを、そっと唇に乗せてみる。

 声は沈みゆく部屋の空気に溶け、静かな波紋のように消えていった。


 ふいに、夜会の光景が脳裏によみがえる。

 並ぶ客人たちの前で、男が朗々と告げた言葉。


『覇を示す証。滅びの血統すら我が掌にあるという事実。

 そして慈悲を示す証。処刑ではなく庇護の下に生かされ、こうして帝国に立つという姿。

 ここにあるのは、帝国の覇と慈悲──その両方だ』


 思考の奥で、何かが閃光のように弾けた。

 胸の奥に、ひと筋の光が射し込む。


(……私の価値。それは──生きているからこそ……!)


 息を呑み、王女は膝を抱いた姿勢のまま顔を上げた。

 窓格子を透かして差し込む夕暮れの橙が、その頬に淡い光を刻んだ──。

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