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9 王女の答え

── 帝城・厨房 ──


大鍋の湯気と焼き立ての香ばしい匂いが渦巻く中、王女は木杓子を握っていた。

連日思い悩み、眠れぬ夜を過ごしてきたせいで、顔色はすぐれなかった。


「ねぇ、大丈夫?」


隣で野菜を刻んでいたリシェルが、不意に声を潜めて覗き込む。


「……大丈夫」

王女は小さく頭を振り、そう答えた。


「うそっ! 絶対大丈夫じゃない!」


リシェルが眉を吊り上げる。

「だって、あんたの顔、真っ青よ!」


有無を言わせぬ勢いで、リシェルは王女の腕をつかんだ。

熱気と人の目が渦巻く厨房から引き離し、ぐいと外の通路へと連れ出していく。


── 石造りの廊下。

厨房のざわめきが嘘のように遠のき、ひんやりとした静けさが漂っていた。


リシェルは王女の両肩にそっと手を置いた。

真っすぐにその顔をのぞき込みながら、言葉を落とす。

「具合が悪いなら、私が女中頭に掛け合って休ませてもらうから」


その瞳には真剣な光が宿っていた。

王女は唇を結び、ゆっくりと首を横に振る。


リシェルは短く息を吐き、困ったように眉を下げた。

「……まったく、頑固なんだから」


それでもすぐに表情を和らげ、少しだけ声の調子を落とす。

「じゃあ、せめて――何か相談できることがあるなら、私でよければ聞くわ」


言葉のあと、照れ隠しのように肩をすくめ、苦笑を浮かべた。

「そりゃあ、私なんかが王女様の役に立つなんて思ってないけどさ。

 でも、聞くだけならできるし……人に話すだけで、少しは楽になることもあるでしょ?」


声はやわらかく、まっすぐだった。

暖炉の火のようにあたたかく、王女の胸の奥に静かに灯をともす。


王女はしばし黙した。

リシェルの真っ直ぐな眼差しが、心を揺らす。

彼女にただ話を聞いてもらうだけで胸の重みがほどけた初夏の日々が脳裏をかすめた。


けれど――今度ばかりは、言葉にできない。

喉の奥で息が詰まり、視線が自然と遠くへ流れていく。


王女はそっと息を吐き、遠い景色を見つめたまま、ようやく声を絞り出した。


「……たとえばの話よ」


リシェルが瞬きをして首をかしげる。

王女はゆっくりと続けた。


「ある船団が、海の魔物を退治しようと漕ぎ出たとする。

 岸からそれを見ている私は、魔物が彼らの行く手に嵐を呼び寄せているのを知ってしまった。

 けれど彼らに声を届ける術はない。そのままでは、船は嵐に呑まれてしまうだろう」


言葉を切り、王女は胸元に手を置く。

声はわずかに震えていた。


「……けれど、もし祠に赴き、その海の魔物にひざまずいて哀願すれば……船団の命だけは救えるかもしれない。

 ただ、それは船団の力を信じ切れず、裏切ることになるのかもしれない。

 もしかしたら、余計なことをしなければ、彼らは嵐を乗り越えて、魔物を討ち果たすのかもしれない」


言葉が途切れ、二人の間に一瞬の沈黙が生まれた。


リシェルは腕を組んで、「うーん……」と低く唸った。

難しい顔で少しだけ視線を落とし、何かを懸命に探るように眉を寄せる。


やがて――ぽつりと、口を開く。


「……なんだか難しいたとえだけど」

苦笑するように肩をすくめる。


「それって結局……その船団の力を信じるかどうか、じゃない?」


王女の胸に、ざわめきが走った。

喉がきゅっと詰まり、息を呑む。


「もし、彼らが魔物を倒せるって信じられるなら、何も言わずに見守る。

 きっと嵐だって越えられる――そう思えるから」


リシェルの声音は軽やかだった。けれど、言葉は不思議と重く響いた。


「でも……無理だと思うなら、どんなに恨まれても止める。

 それが裏切りに見えたとしてもね」


彼女は真剣な眼差しで、王女を見据えた。

飾り気も理屈もない、ただ素直な思いが宿っていた。


「結局、選ぶのは自分だよ。あんたは真面目だから、きっと“仲間を裏切ってる”って思い詰めちゃうんだろうけど……」


一拍置いて、言葉を区切る。

その静けさが、王女の胸をさらに締めつけた。


「大事なのは、『どうしても守りたいものが何か』なんだと思う」


王女は返す言葉を失い、ただリシェルの瞳を見返していた。

その無邪気な奥に宿る真理が、重く胸に響いていた。





── 夜 王女の居室 ──


月光が寝台の上を淡く照らしている。

王女は毛布の端を握りしめ、小さく身をかがめていた。


瞼の裏で、昼間のリシェルの声がよみがえる。


――仲間の力を信じるかどうか。信じられるなら見守る。

――無理だと思うなら、どんなに恨まれても止める。

――大事なのは、どうしても守りたいものが何か。


その言葉が、王女の胸の奥で静かに鳴り続けていた。


彼らの力を信じるか。

彼らは嵐を越え、魔物を討てるのか。

……もし信じられているなら、自分がこんなにも迷うはずはない。


かすかに足首の鉄が鳴った。

冷えた枷が肌に触れ、重みが静かにそこにあることを告げている。


(……迷っている時点で、私は……彼らを信じきれていないのだ……)


その自覚が、鉄枷よりも重く、王女の足首を締めつけるようだった。


(……私が守りたいものは……何……?)


まぶたを閉じると、昼間、自ら語った喩えが静かな映像となって浮かび上がる。

魔物に挑もうと漕ぎ出す船団。

いままさに嵐に呑まれようとしている彼ら。


――その光景に、別の記憶が重なる。


燃えさかる城壁。

闇に響く怒号と断末魔。

己をかばい、次々と倒れていった騎士たちの背中。

差し伸べられた腕が、赤く染まる夜の中にかき消えていく。


(……やめて……)


王女は毛布を握りしめ、荒い息を漏らした。

脳裏に蘇る光景を振り払おうとしても、胸の奥で炎と血の匂いは消えなかった。


やがて、苦しげな吐息と共に、心の奥底から一つの答えが滲み出る。


(……私がどうしても守りたいのは――彼らの命……)


その言葉を胸に抱えたまま、王女はしばらく動けずにいた。

暗闇の中で鼓動だけがはっきりと聞こえ、答えの重さが全身にゆっくりと沈んでいく。




やがて、東の空がかすかに白み、まだ冷たい空気の底に柔らかな匂いが混じり始めた。冬の名残に、春の気配がほのかに差し込んでいる。

けれど王女は眠れなかった。


胸に刻んだ答えが、重くも確かな熱を灯し続けていたからだ。


(……私が守りたいものは、彼らの命。それを踏みにじらせはしない)


誇りでも、旗でもない。

彼らの命を守ること。


鎖を引きずるようにして立ち上がると、王女は静かに窓辺に歩み寄った。

まだ暗い城下を見下ろし、唇を固く結ぶ。


(たとえ裏切りと呼ばれても構わない。……私は、彼らを死なせはしない)


冷たい朝風が頬をなぞる。

そのひややかさが、かえって心を澄ませるようだった。


(ならば、あの男に会わねばなるまい……)


――ダリオス。

瞼の裏にその横顔を描いた瞬間、強い畏怖が全身を貫いた。

けれど同時に、逃げ場のない決意が背中を押した。


王女は寝台へ戻り、冷たい枷を見下ろす。

鎖の感触が指先に伝わり、その冷たさが現実を呼び戻す。


――この鎖の音を響かせながらでも、必ず彼の前に立つ。


そう心に決め、王女は目を閉じた。

朝を待つための、短い眠りが訪れるまでのわずかな静けさの中で、胸の奥の熱はひそかに燃え続けていた。

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