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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第一章 掌中の鳥 ~ 第一幕 帝国の象徴 ~
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2 温かな手

 ── 西方街道・宿場町 ──


 王女は人々のざわめきの中をふらつくように歩いていた。

 旅の埃と疲労で足は重く、喉は乾き、腹は空っぽだった。


 そのとき、路地の奥から漂ってきた香ばしい匂いに足が止まる。

 焼きたての小麦の香り──甘くもなく、濃すぎることもない、ただ温かい匂い。

 胸がぎゅっと締めつけられる。


 気づけば、石造りの小さな店の前に立っていた。

 木の看板に刻まれた麦の穂、開いた扉からは熱気と粉の匂いが溢れている。


「どうしたい、お嬢さん」


 店の奥から、少し張りのある声が飛んできた。


 不意にかけられた声に、王女ははっとして、店の中へ視線を向けた。


 かまどのそばに、丸みを帯びた体つきの女主人が立っていた。

 腕まくりした手は粉で白く染まり、額には汗が光っている。その顔には、働き慣れた逞しさと、素朴な温かさが滲んでいた。


「旅のお方かい? えらくお疲れのようだね」


 王女は喉を鳴らした。

 手元の銅貨はもう底をついている。ここでパンを買えば、今夜の宿代は尽きてしまう。


(……けれど、もう歩けない)


 女主人は王女の迷いを見透かしたように、棚から小さな丸パンを一つ取り出し、差し出した。

「代金はあとでいいさ。腹が減ってちゃ、道も歩けやしない」


 温かさが手に触れた瞬間、王女の胸に熱いものが込み上げた。

 だが誇りが、すぐにそれを飲み下す。


「……お代を払えないので、代わりに働かせてください」


 女主人の目が驚きに見開かれ、やがて声を立てて笑った。

「真面目なお嬢さんだね。いいさ、掃除でも皿洗いでも手を貸してくれるなら」


 王女は小さく頷いた。

 差し出された丸パンを唇に運ぶ。ほろりと柔らかく崩れる生地が、空腹の身体に沁み渡った。

 女主人は何も言わず、卓の端に水の入ったコップを置いた。


 その後、王女は桶の水を運び、棚を拭き、皿を洗った。

 だが慣れぬ手つきは危なっかしく、桶の水は半分こぼし、布巾はびしょ濡れにして棚を水浸しにし、皿は落としかけてあわてて抱きしめる。


 その様子に、店先の子供がけらけらと笑った。

 腕を組んで眺めていた女主人も、堪えきれずに笑いながら言った。


「皿より自分が割れそうだねぇ」


 王女は顔を真っ赤にして唇を噛み、必死に口を引き結んだ。

 それでも手を止めず、黙々と動き続ける。


 女主人は大きくため息をつきつつも、目尻には柔らかな笑みを浮かべていた。


 やがて西の空は茜に染まり、店先の喧騒もひと段落した。

 片付けを終えた王女は、濡れた布巾をたたみながら小さく頭を下げる。


「……手伝うつもりで、かえってご迷惑をおかけしてしまい、すみませんでした」


 頬を紅潮させ、視線を伏せたまま言葉を継いだ。

「パンのお礼も……これでは十分に返せなかったと思います」


 女主人は布巾を受け取り、じっと王女の顔を見た。

「……ふん、真面目なこと言うねぇ」


 王女は外套の裾を整え、店の扉に手をかける。


 女主人は布巾で作業台を拭きにかかり──ふと、手を止めた。

 王女の背に向かって声を上げる。


「あんた、今夜泊まるところはあるのかい?」


 王女は立ち止まった。

 けれど答えは返せず、ただ沈黙が落ちる。


 女主人は片眉を上げ、さらに問いを重ねた。

「じゃあ、どこへ行くつもりなんだい? 道の先に、誰か待ってるのかい?」


 王女の唇が震えた。

 だが、返す言葉はどこにも見つからない。喉にかかった声は、ただかすれて消えていった。


 女主人は大きくため息を洩らした。

「まったく……放っておけないねぇ」


 そして扉に手をかけたままの王女に向かって言った。


「空き部屋があるからね。あんたがこれから部屋の掃除や店の手伝いをしてくれるなら、しばらく居てもらってかまわないよ。寝床代くらいにはなるだろうさ」


 王女ははっと顔を上げた。

 胸の奥に熱いものが込み上げたが、それを押し殺し、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 女主人はふっと笑い、手を拭きながら言った。

「そうそう、名乗ってなかったね。あたしはマルタ。……よろしく頼むよ」




     * * *




 マルタに案内され、王女は二階の小さな部屋に通された。

 蝋燭の灯がほのかに揺れ、部屋には粉の甘い匂いが染みついていた。窓は小さく、壁は煤で黒ずみ、寝床は藁を詰めただけの粗末なものだった。


 王女は外套を脱ぎ、藁の上に身を横たえる。

 背にちくりとした痛みが走る。だが、帝城の冷たい寝台に押し伏せられていた夜よりも、はるかに心は安らかだった。


(……生きて、ここにいる)


 そう思うだけで、目の奥が熱くなる。

 自由とはまだ遠く、行く先も定まらない。

 それでも、追われる足を止め、身の危険を案じずに目を閉じられる──

 そんな夜に辿り着けたこと自体が、今の王女には、何より尊かった。


 だが、その安らぎに身を委ねかけた瞬間、胸の奥で、別の感覚が静かに目を覚ます。


 ──逃げられるものなら、逃げてみろ。


 耳に残る低い声。

 幾度となく訪れた夜に、重くのしかかった影は、まだ胸の奥に生きている。

 見つかれば、再び捕らわれるだろう。

 その恐怖が、安堵と共に押し寄せる。

 王女は藁の感触を指先で確かめ、震える吐息を押し殺した。


 それでもいつしか、闇の中で、静かに眠りに落ちていった。


 何も起きないと知ったまま、身構えずに眠りにつける──

 それは囚われの日々には決して許されなかった、ささやかな自由だった。

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