表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第一章 掌中の鳥 ~ 第一幕 帝国の象徴 ~
3/95

2 温かな手

── 西方街道・宿場町 ──


王女は人々のざわめきの中をふらつくように歩いていた。

旅の埃と疲労で足は重く、喉は乾き、腹は空っぽだった。


そのとき、路地の奥から漂ってきた香ばしい匂いに足が止まる。

焼きたての小麦の香り――甘くもなく、濃すぎることもない、ただ温かい匂い。

胸がぎゅっと締めつけられる。


気づけば、石造りの小さな店の前に立っていた。

木の看板に刻まれた麦の穂、開いた扉からは熱気と粉の匂いが溢れている。


「おや、お嬢さん」


声に振り向くと、丸みを帯びた体つきの女主人が立っていた。

腕まくりした手は粉で白く染まり、額には汗が光っている。

その顔には、働き慣れた逞しさと、素朴な温かさが滲んでいた。


「旅のお方かい? えらくお疲れのようだね」


王女は喉を鳴らした。

手元の銅貨はもう底をついている。

ここでパンを買えば、今夜の宿代は尽きてしまう。


(……けれど、もう歩けない)


女主人は王女の迷いを見透かしたように、棚から小さな丸パンを一つ取り出し、差し出した。

「代金はあとでいいさ。腹が減ってちゃ、道も歩けやしない」


温かさが手に触れた瞬間、王女の胸に熱いものが込み上げた。

だが誇りが、すぐにそれを飲み下す。


「……お代を払えないので、代わりに働かせてください」


女主人の目が驚きに見開かれ、やがて声を立てて笑った。

「真面目なお嬢さんだね。いいさ、掃除でも皿洗いでも手を貸してくれるなら」


王女は小さく頷いた。

差し出された丸パンを唇に運ぶ。

ほろりと柔らかく崩れる生地が、空腹の身体に沁み渡った。


その後、王女は桶の水を運び、棚を拭き、皿を洗った。

だが慣れぬ手つきは危なっかしく、桶の水は半分こぼし、布巾はびしょ濡れにして棚を水浸しにし、皿は落としかけてあわてて抱きしめる。


「ひゃっ……!」


思わず声を洩らす王女の姿に、店先の子供がけらけらと笑った。

腕を組んで眺めていた女主人も、堪えきれずに笑いながら言った。


「皿より自分が割れそうだねぇ」


王女は顔を真っ赤にして唇を噛み、必死に口を引き結んだ。

それでも手を止めず、黙々と動き続ける。


女主人は大きくため息をつきつつも、目尻には柔らかな笑みを浮かべていた。


やがて西の空は茜に染まり、店先の喧騒もひと段落した。

片付けを終えた王女は、濡れた布巾をたたみながら小さく頭を下げる。


「……手伝うつもりで、かえってご迷惑をおかけしてしまい、すみませんでした」


頬を紅潮させ、視線を伏せたまま言葉を継いだ。

「パンのお礼も……これでは十分に返せなかったと思います」


女主人は腰に手を当てて、じっと王女を見下ろした。

「……ふん、真面目なこと言うねぇ」


王女は外套の裾を整え、店の扉に手をかける。

その背に、女主人の声が鋭く飛んだ。


「待ちな。あんた、今夜泊まるところはあるのかい?」


王女は立ち止まった。

けれど答えは返せず、ただ沈黙が落ちる。


女主人は片眉を上げ、さらに問いを重ねた。

「じゃあ、どこへ行くつもりなんだい? 道の先に、誰か待ってるのかい?」


王女の唇が震えた。

だが、返す言葉はどこにも見つからない。

喉にかかった声は、ただかすれて消えていった。


女主人は大きくため息を洩らした。

「まったく……放っておけないねぇ」


そして扉に手をかけたままの王女に向かって言った。


「空き部屋があるからね。あんたがこれから部屋の掃除や店の手伝いをしてくれるなら、しばらく居てもらってかまわないよ。寝床代くらいにはなるだろうさ」


王女ははっと顔を上げた。


胸の奥に熱いものが込み上げたが、王女はそれを押し殺し、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」


女主人はふっと笑い、手を拭きながら言った。

「そうそう、名乗ってなかったね。あたしはマルタ。……よろしく頼むよ」



 * * *



マルタに案内され、王女は二階の小さな部屋に通された。

窓は狭く、壁は煤で黒ずみ、寝床は藁を詰めただけの粗末なもの。

けれど蝋燭の灯がほのかに揺れ、部屋には粉の甘い匂いが染みついていた。


王女は外套を脱ぎ、藁の上に身を横たえる。

背にちくりとした痛みが走る。だが、帝城の冷たい寝台に押し伏せられていた夜よりも、はるかに心は安らかだった。


(……生きて、ここにいる)


そう思うだけで、目の奥が熱くなる。

自由とはまだ遠く、行く先も定まらない。

だが、誰の掌にも囚われずに眠れるこの一夜が、どれほど尊いものか。


――掌。

その言葉とともに、黒い瞳が脳裏をよぎった。


「逃げられるものなら、逃げてみろ」


耳に残る低い声。

あの夜ごとに重くのしかかった影は、まだ胸の奥に生きている。

見つかれば、再び捕らわれるだろう。

その恐怖が、安堵と共に押し寄せる。


王女は藁の感触を指先で確かめ、震える吐息を押し殺した。

それでも、静かに目を閉じる。


闇の中で眠りにつく――

それは囚われの日々には決して許されなかった、ささやかな自由だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ