2 温かな手
── 西方街道・宿場町 ──
王女は人々のざわめきの中をふらつくように歩いていた。
旅の埃と疲労で足は重く、喉は乾き、腹は空っぽだった。
そのとき、路地の奥から漂ってきた香ばしい匂いに足が止まる。
焼きたての小麦の香り──甘くもなく、濃すぎることもない、ただ温かい匂い。
胸がぎゅっと締めつけられる。
気づけば、石造りの小さな店の前に立っていた。
木の看板に刻まれた麦の穂、開いた扉からは熱気と粉の匂いが溢れている。
「どうしたい、お嬢さん」
店の奥から、少し張りのある声が飛んできた。
不意にかけられた声に、王女ははっとして、店の中へ視線を向けた。
かまどのそばに、丸みを帯びた体つきの女主人が立っていた。
腕まくりした手は粉で白く染まり、額には汗が光っている。その顔には、働き慣れた逞しさと、素朴な温かさが滲んでいた。
「旅のお方かい? えらくお疲れのようだね」
王女は喉を鳴らした。
手元の銅貨はもう底をついている。ここでパンを買えば、今夜の宿代は尽きてしまう。
(……けれど、もう歩けない)
女主人は王女の迷いを見透かしたように、棚から小さな丸パンを一つ取り出し、差し出した。
「代金はあとでいいさ。腹が減ってちゃ、道も歩けやしない」
温かさが手に触れた瞬間、王女の胸に熱いものが込み上げた。
だが誇りが、すぐにそれを飲み下す。
「……お代を払えないので、代わりに働かせてください」
女主人の目が驚きに見開かれ、やがて声を立てて笑った。
「真面目なお嬢さんだね。いいさ、掃除でも皿洗いでも手を貸してくれるなら」
王女は小さく頷いた。
差し出された丸パンを唇に運ぶ。ほろりと柔らかく崩れる生地が、空腹の身体に沁み渡った。
女主人は何も言わず、卓の端に水の入ったコップを置いた。
その後、王女は桶の水を運び、棚を拭き、皿を洗った。
だが慣れぬ手つきは危なっかしく、桶の水は半分こぼし、布巾はびしょ濡れにして棚を水浸しにし、皿は落としかけてあわてて抱きしめる。
その様子に、店先の子供がけらけらと笑った。
腕を組んで眺めていた女主人も、堪えきれずに笑いながら言った。
「皿より自分が割れそうだねぇ」
王女は顔を真っ赤にして唇を噛み、必死に口を引き結んだ。
それでも手を止めず、黙々と動き続ける。
女主人は大きくため息をつきつつも、目尻には柔らかな笑みを浮かべていた。
やがて西の空は茜に染まり、店先の喧騒もひと段落した。
片付けを終えた王女は、濡れた布巾をたたみながら小さく頭を下げる。
「……手伝うつもりで、かえってご迷惑をおかけしてしまい、すみませんでした」
頬を紅潮させ、視線を伏せたまま言葉を継いだ。
「パンのお礼も……これでは十分に返せなかったと思います」
女主人は布巾を受け取り、じっと王女の顔を見た。
「……ふん、真面目なこと言うねぇ」
王女は外套の裾を整え、店の扉に手をかける。
女主人は布巾で作業台を拭きにかかり──ふと、手を止めた。
王女の背に向かって声を上げる。
「あんた、今夜泊まるところはあるのかい?」
王女は立ち止まった。
けれど答えは返せず、ただ沈黙が落ちる。
女主人は片眉を上げ、さらに問いを重ねた。
「じゃあ、どこへ行くつもりなんだい? 道の先に、誰か待ってるのかい?」
王女の唇が震えた。
だが、返す言葉はどこにも見つからない。喉にかかった声は、ただかすれて消えていった。
女主人は大きくため息を洩らした。
「まったく……放っておけないねぇ」
そして扉に手をかけたままの王女に向かって言った。
「空き部屋があるからね。あんたがこれから部屋の掃除や店の手伝いをしてくれるなら、しばらく居てもらってかまわないよ。寝床代くらいにはなるだろうさ」
王女ははっと顔を上げた。
胸の奥に熱いものが込み上げたが、それを押し殺し、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
女主人はふっと笑い、手を拭きながら言った。
「そうそう、名乗ってなかったね。あたしはマルタ。……よろしく頼むよ」
* * *
マルタに案内され、王女は二階の小さな部屋に通された。
蝋燭の灯がほのかに揺れ、部屋には粉の甘い匂いが染みついていた。窓は小さく、壁は煤で黒ずみ、寝床は藁を詰めただけの粗末なものだった。
王女は外套を脱ぎ、藁の上に身を横たえる。
背にちくりとした痛みが走る。だが、帝城の冷たい寝台に押し伏せられていた夜よりも、はるかに心は安らかだった。
(……生きて、ここにいる)
そう思うだけで、目の奥が熱くなる。
自由とはまだ遠く、行く先も定まらない。
それでも、追われる足を止め、身の危険を案じずに目を閉じられる──
そんな夜に辿り着けたこと自体が、今の王女には、何より尊かった。
だが、その安らぎに身を委ねかけた瞬間、胸の奥で、別の感覚が静かに目を覚ます。
──逃げられるものなら、逃げてみろ。
耳に残る低い声。
幾度となく訪れた夜に、重くのしかかった影は、まだ胸の奥に生きている。
見つかれば、再び捕らわれるだろう。
その恐怖が、安堵と共に押し寄せる。
王女は藁の感触を指先で確かめ、震える吐息を押し殺した。
それでもいつしか、闇の中で、静かに眠りに落ちていった。
何も起きないと知ったまま、身構えずに眠りにつける──
それは囚われの日々には決して許されなかった、ささやかな自由だった。




