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8 掌の罠

── 翌日 帝城・厨房へ通じる回廊 ──


石床に膝をつき、王女は粗布で床を擦っていた。

隙間風はまだ冷たいが、どこかに春の湿り気が混じっていた。


「……また、寝不足?」


不意にかけられた声に顔を上げると、リシェルが箒を支えたまま立っていた。

視線は穏やかだが、その奥にわずかに探るような色がある。


「……少し、夜が長かっただけ」


王女は淡々と答え、手を止めずに床を擦り続けた。

リシェルはしばらくその様子を見つめ――

やがて小さく首を傾げ、「ふぅん…?」とだけ呟いて、再び箒を動かした。


それきり、問いかけてくる気配はない。


(……答えは、出なかった)


昨夜、どれほど思い巡らせても。

ルデクの言葉を胸の中で反芻しても。

結局、自分がどうすべきなのかは、ひとつも見えなかった。


わかるのはただひとつ。

――自分を奪い返そうとする者たちがいて、その計画が近いうちに決行されるということ。


それが救いなのか、新たな災いなのか――自分にはわからなかった。


(……その時、私は……どうすればいいの……?)


彼らの手に自分が移ったとして、自分は何を語れるのか。

どう立ち、どう振る舞えばいいのか。


彼らは自分に、何を期待しているのか――。


そもそも、なぜ危険を冒してまで、自分を奪い返そうとしているのか。

こんな頼りない、旗を掲げるほどの確かな意志を持たない自分を取り返すことに、どれほどの価値があるというのか。


粗布を握る手が冷たく強張る。


決行とは、どんな形で訪れるのだろう。

奪い返すと告げられただけで、その先のことは何ひとつ語られなかった。


どのように、いつ、どこで――その答えは隠されたまま。

ただ「近いうちに」という言葉だけが、胸の奥で時を刻んでいた。


(……とにかく、このことをダリオスに知られてはいけない……)


胸の奥でその思いを固く握りしめた、そのときだった。


回廊の奥から靴音が響く。

威厳ある歩調に、周囲の空気が張り詰める。

ダリオスが数名の近習を従え、こちらへ歩み来るのが見えた。


王女は咄嗟に身を引き、粗布を握ったまま床に膝をついて端へとよける。

頭を深く垂れた姿は、ただの下働きにすぎない。

隣りではリシェルも同じように頭を下げていた。


足音が石床を打ち、影が彼女のすぐ脇を過ぎていく。

そのとき――ふっと、低い笑みの気配が落ちた。


思わず、そっと顔を上げてしまう。

盗み見るつもりが、そのまま目が合った。


深い瞳の奥に、愉悦の光がちらめいていた。


(……っ!)


瞬間、全身が総毛立つ。

氷のような寒気が背を走った。


――すべて、仕組まれていたのだ。


下働きの仕事で市場に出ることも。

神殿での奉仕も。

自分とルデクをわざと接触させ、奪還の企てを誘い出すための罠だった。


王女の胸に、遅すぎる理解が突き刺さる。


ダリオスは彼女を一瞥したのち、すぐに視線を外し――王女にしか感じ取れぬほどの愉しげな気配を残して、そのまま通り過ぎていった。


遠ざかっていくその背中を、王女は茫然と見送るしかなかった。





── 夜 王女の居室 ──


灯火が揺れるたび、壁の影が長く伸び縮みする。

薄布の敷かれた床が静けさを吸い込み、空気のなかに微かに蝋の香りが漂っていた。

王女は机に両手を置き、深く俯いていた。


(……すべては、最初から彼の罠だった……)


おそらく、ルデクたちが自分を奪還しようと力を集め、姿を現したその時――彼らは捕らえられる。

一網打尽にするための舞台装置。

その中心に、自分は据えられていたのだ。


(……どうしたら、ルデクたちを助けられる……?)


思考が堂々巡りする。

ルデクに罠だと告げればいいのか――しかし、どうやって?

それに、あのダリオスの余裕の笑みは――今さら自分が口にしたところで無意味だと、冷たく告げているようだった。


では、ダリオスに懇願するべきか。

彼に縋れば、気まぐれな慈悲を与えてくれるかもしれない。


だがそれは、ルデクたちの誇りを踏みにじる行為ではないか。

自分を旗印に、民の誇りを取り戻そうと命を賭ける者たちを――王女自身の手で辱めることにならないか。


『旗を持つ者を失い、声を呑み込み、ただ生き延びることが正しいのだと信じようとしている。

 それは、本当に人としての在り方なのか。大切なものを置き去りにしていないか――』


神殿で聞いた、ルデクの言葉がよみがえる。


……彼らは、大切なものを守るために、進もうとしている。


そもそも、本当にすべてが掌の上とは限らない。

自分が彼らの力を信じ切れていないだけかもしれない。


もし――故国の者たちのために生きるのが、自分の務めだというのなら。

彼らを信じることこそが、その務めなのかもしれない。


奪還は――もしかすれば、果たされるのかもしれない。


けれど、その一縷の望みを思い描いた途端、脳裏に浮かぶのはあの男の姿だった。

自分の一挙手一投足すら、すでに計算に組み込まれているかのような余裕。

あの眼差しを思い出した瞬間、すべては掌の上なのだと突きつけられる。


抗えぬ現実と、消せぬ希望。

その狭間で思考は空回りし、王女は今宵も眠れぬまま夜を明かした。

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