7 理の響き、誇りの灯
── 帝城・執務室 ──
厚い石壁に囲まれた室内は、夜の気配さえ遮るように静まり返っていた。
深灰の絨毯が足音を吸い、蝋燭の炎だけが、壁にゆらめく影を描いている。
燭台の炎が揺れる中、セヴランが低く告げた。
「……そろそろ、動き出しそうです。何かに急かされるように、計画を早めている気配です」
ダリオスは、椅子に凭れたまま、わずかに口端を歪める。
「炙り出せるだけ炙り出したかったが……。まぁいい、捕まえてから吐かせれば済む話だ」
淡々とした声。そこに焦りの色は微塵もない。
セヴランは手元の資料に視線を落とし、独り言のように続けた。
「……何が彼らをそこまで駆り立てているのでしょうね。
失った利権を取り戻すためならば、理解できるのですが……今回の計画の中心にいる者たちは、その種の人間ではありません」
資料をめくる指先が止まる。
「資金を投じているのは確かに、旧体制での利を失った連中のようですが……」
「……白樺の皮、じゃないか」
ふっと笑みを洩らしながら、ダリオスが呟いた。
セヴランは顔を上げ、静かに息を吐く。
「……忠義、ですか」
その言葉は問いというより、胸の底で繰り返した思索に近かった。
忠義を捧げられる王女が、そもそも叛乱を望んでいるわけでもない。
民たちもまた、帝国の支配の下で安穏に暮らしている。
この先、あの地の民たちは、亡国の時代よりもはるかに安定し、豊かになっていくだろう。
王女の故国は、すでに腐敗していた。
統治は形骸化し、内側から脆く崩れ落ちていた。
もしダリオスが征服に踏み出さなければ──
あの国はじわじわと内側から崩れ落ち、権力争いと飢えが民を蝕み、より多くの血と混乱を招いていたに違いない。
そこへ、電光石火の采配で軍を差し向けたのがダリオスだった。
王城と神殿──国の声を一夜で断ち切り、戦火を長引かせる前に終結させた。
その勝利を可能にしたのは、城の門を内から開いた者たちだった。
彼らは旧き腐敗を嘆き、未来を切り拓こうとした貴族や官吏。
裏切りではなく、滅びを防ぐための選択。
抵抗が広がらなかったのは──ダリオスが民に刃を向けなかったからであり、
そしてまた、そうした「未来を望んだ者たち」の力が重なったからこそだった。
それを覆そうとするのは、もはや未来ではなく過去への執着にすぎない。
失われた旗を追い求め、かつての形を取り戻そうと足掻く──それはただの懐古であり、独りよがりな夢想に過ぎなかった。
セヴランの胸に、かすかな憤りが滲む。
かつて彼自身、戦乱の炎で故郷を荒らされ、多くの仲間を失った。
焼け跡に残ったのは、何も守れなかったという痛みと、ただ「秩序こそが人を生かす」という確信だった。
だからこそ、過去に縋り、築かれつつある安定や秩序を壊そうとする者たちの姿が、堪え難く愚かに映る。
「……愚か者のすることにしか、思えません」
静かに吐き出した言葉に、ダリオスが肩を揺らす。
「まぁ、もしもそれが理解できるのなら──俺もお前も、今ここにはいないだろうさ」
言って、窓の向こうの帝都の灯を見つめる。
揺れる炎が影を長く引き、ふたりの沈黙を飲み込んでいった。
── 王女の居室 ──
蝋燭の炎が揺れ、静かな影を壁に映していた。
床に敷かれた薄い布が足音を吸い、石壁の冷たさをほんの少し和らげている。
王女は寝台の端に腰を下ろし、胸の奥にまだ残るざわめきを押さえきれずにいた。
(……奪還の計画があるなんて、想像もしなかった……)
ルデクの低い声が耳に残る。
『小さき姫』──そう呼ばれた響きが、再び故国の記憶をよみがえらせる。
それは、かつて兄である王太子が口にした呼び名だった。
幼い妹をからかうように、けれど誰よりも慈しむようにそう呼び、彼に仕えていた臣下たちもまた親しみを込めて同じ言葉を用いた。
末の姫であるがゆえに。
あるいは、自らの気質ゆえに。
社交界に出る年になっても、王家の中で王女はずっと「小さく守られる存在」として扱われてきた。
だから、国の腐敗など知りもしなかった。
裏切りが宮廷の内に巣食っていたなど、想像すらしていなかった。
(……あの夜会にも……いたのかもしれない)
帝国建立記念式典の夜会──
あの華やかな夜のざわめきが、今になってよみがえる。
自分の故国を帝国に売り渡した者たちは、いまどうしているのだろう。
その報いとして、帝国の中で地位や恩賞を与えられているのかもしれない。
だとすれば、あの場にいた貴族たちの中に、王家を裏切った者たちも混じっていたのではないか。
彼らは自分をどう見ていたのだろう。
もしも言葉をかけられていたなら、自分は──いったい何と答えていただろう。
思考がそこに及んだとき、王女の胸に、あの夜の光景がよみがえった。
広間に満ちた嘲笑。
「帝国の象徴」として差し出された盃。
冷ややかな視線と、値踏みするような眼差し。
血筋も、名も、国も失い、ただ見世物として立たされていた夜。
あの夜の屈辱は、今も胸の奥に深く焼きついている。
──『帝国の統治のもとで、飢えることもなく、争うこともない。けれど、その安穏の中で、かつての誇りは、誰の手からも零れ落ちていきました』
昼間のルデクの言葉がよみがえる。
(……誇りとは、何なのだろう……)
帝城に囚われてからの日々。
衣も食も与えられ、不自由はない。
けれど、自分の心など無いものとして、与えられた場所にただ置かれる日々は、籠の中で羽根を一枚ずつむしり取られていくような、静かな痛みを伴っていた。
──『本来なら、選んでいただきたかった。貴女の意志を、我らの旗として仰ぎたかった』
その言葉が、胸の奥に熱を灯す。
あの時。
心を無いものとして扱われてきた己が、初めて「意志」あるものとして呼ばれたようだった。
(……私の意志を、旗に……)
だが、今の自分はまだ、旗を掲げるほどの確かな意志を持ち得ない。
その不甲斐なさ、応えられぬ弱さに息を詰まらせたとき──
──『時間は、もう残されていない。今はすべてを明かす時ではない。……だが必ず、その時は来る』
王女は両手を握りしめたまま、じっと闇を見つめる。
けれど答えは出ない。
どうすればよいのかわからぬまま、ただ刻一刻と迫る時だけが、静かに胸を圧していた。
そうして、王女の夜は、長い影を落としたまま過ぎていった──。




