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6 誇りの所在

 ── 神殿 ──


 祭壇に続く白い石段を磨く王女の手元に、ふと影が差した。

 振り向けば、ミレイユが控えていた。


「姫様。所用で一刻ほど、この場を離れます」


 淡々とした声に、王女は思わず目を瞬く。


「……私ひとりで?」

「神殿の入口には衛兵がいます。危険はありません」


 短く告げて踵を返す。

 その背が石の回廊に消えると、その場に残されたのは王女ひとり。

 胸にかすかなざわめきが広がった。


(……監視が……離れた……?)


 水桶に布を浸しながらも、王女は落ち着かない息を整える。

 磨きかけの石段に光が差す。

 王女は無言のまま、再び布を滑らせた。


 祈りの声が遠くの部屋から届き、鳥の羽音が高窓の外をかすめた。

 時間がゆっくりと流れていく。

 けれど、その静けさが、かえって気を張らせた。


 そのとき、背後で衣擦れの音がした。


「……姫さま」


 低く穏やかな声。

 顔を上げて振り返った瞬間、王女は息をのむ。

 そこに立っていたのは、祈りを装い、長衣の裾をまとった影──ルデクだった。

 人々の目には神官の一人にしか映らぬ仕立て。


「……あなた……」

 声は震え、指先が布を握りしめる。


 彼はすぐ隣に膝をつき、祭壇の方へと顔を向ける。

 両手を胸に組み、祈りを捧げるふりをしながら、低く囁いた。


「あの夜、何があったのか──小さき姫にも知る権利がある」


 王女は、一瞬だけ息を止めた。

 だがすぐに視線を逸らし、何事もなかったように布を動かす。

 周囲に気取られぬよう、磨く手つきだけを保ったまま、ルデクの声に耳を傾ける。


「我らは帝国の剣にのみ斬られたのではありません。旧き幹はすでに脆く、内より腐っていた。

 帝国軍が一夜で王城と神殿を制圧できたのは──

 門を開き、伝令を偽った内通者たちの裏切りがあったからです」


 石畳に落ちる声が、冷たく響く。


 王女は息を呑み、手を止めた。

 濡れた布から水滴がこぼれ、石に淡い跡を残す。


「民は巻き込まれなかった。翌朝には秩序が整えられていた。だから抵抗は広がらなかったのです」


 王女の喉が震える。

 あの夜に見た炎と叫びが、改めて現実の輪郭を帯びて迫ってくる。


(そう……帝都へ護送されるあの朝……)


 馬車の窓から見えた景色は、ただ穏やかだった。

 畑には人が出て、子供が追いかけっこをし、煙突からは炊事の煙がのぼっていた。

 どこにも戦の爪痕はなく、血の気配もなかった。


 まるで、戦など初めからなかったかのように。


(……だからこそ、あの一夜が……夢のように思えた)


 だが今、ルデクの言葉が、その記憶と噛み合っていく。

 炎に包まれた王城と、朝の穏やかな景色。

 相反するふたつが繋がり、国が「一夜にして声を失った」現実が胸に突き刺さった。


 ルデクの視線を感じて、王女は顔を上げた。

 祈りの姿勢を崩さぬまま、彼の瞳だけが静かにこちらを捉えている。

 その眼差しには、痛みと、それを超える決意があった。


「……民は、静かに日々を生きています。帝国の統治のもとで、飢えることもなく、争うこともない。

 けれど……その安穏の中で、かつての誇りは、誰の手からも零れ落ちていきました」


 ルデクは目を伏せる。

 その声は低く、それでも確かな熱を帯びていた。


「旗を持つ者を失い、声を呑み込み……ただ、日々をこなすことが正しいのだと、信じようとしている。それが“生き延びること”だと──」


 そして、ふたたび王女を見つめる。


「……ですが、私は思ってしまうのです。

 それは本当に、人としての在り方なのか。安穏な日々と引き換えに、大切なものを置き去りにしていないか──と」


 短く息を吸い、彼は告げた。


「……本来なら、選んでいただきたかった。貴女の意志を、我らの旗として仰ぎたかった」


 わずかに目を伏せたルデクの声音には、抑えきれない無念が滲んでいた。


「だが──時間は、もう残されていない。このままでは、貴女を奪い返すことすら叶わなくなる」


 その言葉に、王女の胸が強く跳ねた。


(……奪い返す? 私を……?)


 思わず息が詰まり、喉が凍りつく。


 ルデクは、ふたたび視線を上げて、王女を見つめる。

 その瞳には、迷いも打算もなく、ただ切実な願いだけが宿っていた。


「それでも、姫さま。今この瞬間だけは……どうか、貴女の心がどこにあるのか、それだけは教えてほしい。我らの忠義が、独りよがりで終わらぬように」


 王女は言葉を失ったまま、その視線を受け止めるしかなかった。


「我らには備えがある。……姫さまが望むなら、我らは命を賭ける」


 その言葉は誓いの刃のように、静かに胸に突き刺さる。


「今はすべてを明かす時ではない。──だが必ず、その時は来る」


 ルデクの瞳が、王女をまっすぐに捉えた。

 祈りを装う静寂の中で、二人だけの時が止まる。


 王女は唇を開きかけ、しかし声を結べなかった。

 胸の奥では、何かが応えようと必死に手を伸ばしていた。


(……けれど、今の私には……)


 あまりにも大きな言葉。

 あまりにも重い忠義。

 それを受け止める力を、今の自分は持っていない。


 ただ、心を揺さぶる熱だけが残り、喉を震わせた。


(……応えなければ……でも……)


 石畳の静けさの中で、王女はただ拳を握りしめることしかできなかった。


 ルデクの瞳が、ふっと、かすかに笑んだ。

 それは、どこか寂しげで、静かな痛みを湛えた微笑だった。


 何も言わず、彼は身を翻す。

 祈る者のふりをして神殿の奥を離れ、静かに扉のほうへと向かっていく。

 石畳を渡る足音はすぐに静けさに吸い込まれ、やがて扉が音もなく閉じた。


 残されたのは、胸に残る苦さと、言葉にならなかった想いだけだった。




「……姫様? どうかされましたか?」


 はっとして振り返ると、そこには、いつもと変わらぬ無表情を湛えたミレイユの姿があった。

 手には帳簿のようなものを抱えている。


 一刻ほど所用で外すと告げた彼女が、ちょうど戻ってきたのだろう。


 王女は何気ないふりで首を横に振った。

「……いいえ、なんでもないわ」


 だが胸の奥では、ついさきほどまで交わされた言葉が、火のように燻っていた。

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