表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/138

5 祈りと決断

 ── 帝都・市場 ──


 石畳のざわめきに包まれ、王女は籠を抱えて歩いていた。

 今日は月に一度の市──帝都中から商人と客が集まり、露店が路地の奥まで続いている。


 胸の内で、ためらいが渦を巻く。

 言えば妙に思われるかもしれない──そう思いながらも、どうしても唇が動いた。


「リシェル。……前に食べた、蜂蜜入りのパン。あれを、もう一度買いたいの」


 言った途端、胸の奥で鼓動が跳ねる。

 傍らのミレイユが、無表情のまま一瞬こちらに目を向けた。

 その視線に背筋が冷える。


「本当? 気に入ったのね! 嬉しいな、行きましょう!」


 リシェルは王女の不安など気づきもせず、ただ無邪気に言った。

 そして二人は、そのまま、あの露店の軒先へと向かった。


 けれど──。


 店先に立っていたのは、見知らぬ若者だった。

 赤くかじかんだ手でパンを袋に詰め、客に愛想よく声をかけている。

 ──ルデクの姿はなかった。


 リシェルは気づかぬ様子で、楽しげにパンを受け取る。

 王女はその横顔を見つめながら、そっと目を伏せた。


(……もう、蜂蜜飴は……もらえないのね)


 焼きたての香りが胸を満たすのに、心の奥には小さな寂しさが沈んでいった。





 ── 神殿・屋上 ──


 定例の奉仕活動で、王女は神殿の屋上に立っていた。

 石柵の上をなぞるように布を滑らせ、積もった塵を静かに拭い取っていく。


 ここは神官たちが星を観測し、祈祷の煙を天へと捧げるための場所。

 冷たい風の底に、わずかに柔らかな匂いが混じっていた。

 澄んだ昼の空気の中、街並みを越えて東の地平まで見渡せる。


 その地平の先に──かつて故国があった。


 磨く手は止まり、視線が東へと吸い寄せられる。

 白い陽光の下、あの一夜の記憶が唐突に胸を突き破った。


 赤く燃え上がる夜空。

 崩れ落ちる城壁。

 逃げ惑う声と、焦げた風の匂い。


(……あの夜……)


 吐息が乱れ、胸が締めつけられる。

 膝が折れそうになるのを堪え、王女は胸元に手を伸ばした。

 白樺の皮に包まれた、最後の蜂蜜飴。


 恐る恐る口に含む。

 陽光に照らされる屋上に、甘やかな香りがわずかに漂った。

 幼き日の声が甦る──『甘いものは勇気をくれる』


(……もう、蓋をしない……)


 王女はまぶたを閉じ、震える心を抱きしめる。

 滅亡の現実を押し込めるのではなく、痛みと共に受け止めながら。


 掌には白樺の皮が残されていた。

 かつて祭の広場で、民が王家に差し出し、最後に王の手で火へとくべられたもの。

 “忠義を受け取った”印として、天へ返す白い皮。


 王女は香炉の残り火へと近づき、皮をそっと投じた。

 ぱちりと小さく弾け、細い煙がまっすぐに空へ昇っていく。


 その煙を見上げながら、王女は目を閉じて祈った。

 滅亡と共に逝った人々の安息を。

 そして、今も故国の地に生きる人々の安寧を。


 ──そんな彼女の姿を、ふたつの影が見守っていた。


 ひとつは、屋上の片隅に控える侍女──ミレイユ。

 もうひとつは、神殿近くの通りの陰に身を潜め、王女と同じように煙を見上げる影──ルデク。


 細く立ち昇った煙は、やがて青い昼空に溶け、静かに消えていった。





 ── 帝都の外れ・廃屋 ──


 軋む梁の下、粗末な卓を囲んで複数の影が集っていた。

 薄暗い油灯が揺れる中、地図や木片が広げられ、帝都の路地の名が囁かれる。


「買い出しは不定期だが、月の市だけは必ず外に出ると聞いている」

「神殿の労役も週一で続いているようだ」


「動くならそのどちらか……だが、神殿は警備が厚い」

「市の方が紛れ込みやすいかもしれん。群衆がいれば盾にもなる」


「だが、市で騒ぎを起こせば、帝都中に追っ手が出る。逃げ場がない」


 言葉が交差し、灯火の下で影が揺れる。

 その中心に座るルデクは、卓に肘をつき、組んだ指を額に当てていた。

 灯火に照らされたその横顔には、沈黙の重さだけが宿っていた。


(時間がない──)


 迫る刻限が、喉の奥に重く張りついていた。


 進むべき道は見えている。


(……導くことはできる。無理にでも、立たせて、走らせることは)


 だが。


(……それでは意味がない)


 手を取って引きずり出すだけでは、またどこかで崩れる。


(“進む”と、姫さまに決めていただいた一歩でなければ。──それだけが、折れない)


 わずかに、卓上の木片が揺れた。

 油灯の芯が跳ね、影が壁を這う。


 そのとき。


 扉が軋み、軽やかな足音が入り込んだ。


「おやおや、真面目すぎる顔ぶれだな。ここで説教でも始めるつもり?」


 飄々とした声に、空気がざわめく。

 現れたのは、肩ほどの茶の髪を、軽くひとつに束ねた若者。

 人懐っこい笑みを浮かべながらも、その瞳だけは氷のように冷たい。


 ルデクは眉をひそめ、短く言った。

「……遅かったな」


「風の噂でさ、面白そうな舞台があるってんで寄り道しちまった」


 軽口を叩きつつ、若者は懐から小さな包みを取り出す。

「はい、小道具のお届け。中身は見てのお楽しみ」


 受け取ったルデクは、油灯の下で封を裂いた。

 羊皮紙に走る文字を目で追い、眉間に刻まれた皺が深くなる。


 ──姫は帝国の象徴とされた。民の目に真実を見せるなら、今しかない。

 ──周辺諸国は帝国を見誤り始めている。

 ──好機を逸すれば、我らの計画も霧散する。

 ──ひと月のうちに事を起こせ。


 指先に力がこもり、紙が鳴った。


 ルデクは心を鎮めるために目を閉じた。

 昼間見た景色が瞼裏によみがえる。


 遠く屋上に立ち昇る、細い煙。

 白く細く、空へと伸びてゆくその軌跡が、いまも脳裏に焼きついている。


 火にくべられる白樺の皮──

 忠義を受け取り、空へ返す、故国の儀式。


 ……あの方の手が、祈りと共に煙を上げたのなら。


(……そこに賭けるしかない)


 仲間たちが視線を交わし見守る中、ルデクは静かに目を開き、低く息を整えた。


「……決行に備える。猶予はない」


 声が落ちた瞬間、緊張が部屋を包んだ。


 若者がくすりと笑った。

「へえ、誠実な騎士様がやっと剣を抜く気になったのか。拍手でもする?」


 軽口のように言いながらも、目だけは笑っていない。


「ただね──そういう真っ直ぐな奴ってさ、舞台の幕が下りるのが早いんだよな。

 ……ま、嫌いじゃないぜ」


 それは、嘲るでも見下すでもない──ただ、皮肉と距離感の混ざった、奇妙な親近感の気配だった。

 ルデクは答えず、ただ拳を固く握りしめていた。


 若者は肩をすくめ、ひらりと手を振る。

「じゃあ、俺は幕の裏に消えるとしよう」


 軽やかな足取りで扉へ向かい、薄闇へと消える。


 残されたのは、ざわめきと油灯の炎。

 ルデクは羊皮紙を見下ろし、深く息を吐いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ