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3 甘き記憶の影

── 翌朝 帝城・厨房 ──


大鍋の湯気が立ちこめる中、王女は包丁を手に野菜を刻んでいた。

普段は掃除や水汲みが務めのはずだが、この日は人手が足りず、包丁を握らされていた。

けれど刃先は時折わずかに震え、切り口は不揃いだった。


「……あれ? 寝不足?」


隣で根菜を抱えたリシェルが、首をかしげて覗き込む。

陽気な声音に、王女は思わず手を止めた。


「……少し、眠れなかっただけ」


努めて淡々と答えると、リシェルはにっと笑った。


「そりゃあ無理もないわよね。帝都の市場に行ったのは初めてでしょ?

 とにかく広いし、人も多いし……目に焼きついて眠れなくなるのも当然だわ」


言いながら彼女は手際よく野菜を投げ込み、鍋の湯気に顔をほころばせる。


「ねえ昨日、果物売りの少年がいたでしょ? あの子、いつもおまけをしてくれるのよ。

 それに、通りの角の露店……冬の間だけ、蜂蜜入りのパンを売るの。

 あの甘い匂いがあるだけで、寒さも忘れちゃうのよね」


楽しげな声に、周囲の空気まで明るくなる。

けれど王女の胸には、別の記憶が沈んでいた。

耳に残る、故国の声。


「……パンの匂い、私も気づいたわ」

そう返すのが精一杯だった。


リシェルは王女の言葉に嬉しそうに笑うと、再び鍋をかき混ぜる。

「あと、露店も見た? 春になったら色とりどりの染布が並ぶのよ!」

リシェルは湯気に頬を赤らめながら、楽しげに話を続けている。


王女はその横顔を見つめながら、心の奥に小さな波が立つのを感じた。


――『故国の民がいる限り、そのために生きるのが、私の務めだと考えています』


夜会で放ったあの言葉。

あの言葉は、宿場町で過ごした日々や、リシェルから聞いた他愛ない話を通じて、民の暮らしの息づかいを知ったからこそ導き出せたものだった。


だが。


(……本当に、私は“そのために”生きているだろうか)


昨夜のざわめきが胸に甦る。

市場で耳にした、故国の言葉。

東に広がるはずの故国の地から目を背け、西へ逃げた自分。

滅亡の現実を直視できず、記憶の底に押し込めている自分。


「民のために生きる」と口にしながら、結局は背を向けたままではないのか――。


湯気の向こうで笑うリシェルの姿は、王女に問いを突きつけた。




── 数日後 帝都・市場 ──


冬晴れの空の下、王女はリシェルと共に再び石畳の市場を歩いていた。

今朝、厨房で香草と卵が足りないことが分かり、急きょ買い出しを命じられたのだ。


手籠を抱えて先を行くリシェルの背は、どこか弾んでいる。

「ねえ、今日はあそこの露店に寄ろうよ!」

そう言って、人だかりのできている屋台を指さす。

甘い香りが漂い、蜂蜜を練り込んだ小さなパンが山と積まれている。


「……でも、今は仕事の途中だし、急いで買って帰らなければいけないのでは?」

王女は戸惑いながら足を止め、群衆の向こうを見やった。


「いいの、いいの。ちょっとくらい平気だってば」

リシェルは悪戯っぽく笑い、王女の手を軽く引いた。


「でも、私にはお金が……」

さらに躊躇う王女の背後から、静かな声が差し込んだ。


「皇帝陛下より、いくらかの小遣いを預かっています」

振り向けば、そこには変わらず無表情のミレイユが立っていた。


ミレイユが手提げ袋から銅貨の小袋を王女に差し出す。

王女は逡巡するが、横から袋をのぞき込んだリシェルが、

「じゃあ今日は陛下のおごりってわけね!」

と笑って王女の背を軽く押した。


結局、王女はリシェルに手を引かれるまま、露店の列へと並んだ。


「はい、お嬢さん方。焼きたてですよ」

露天商の男が、香ばしい湯気を立てるパンを手渡す。

王女の顔を見やると、ふっと目を細めて言った。


「……お嬢さん、初めてですね」


低く穏やかな声。

その響きが、王女の胸の奥で何かを微かに震わせた。


(……この声……)


男は、あくまで自然に微笑んでいる。


「蜂蜜飴は、お好きですか?」


その瞬間――王女の視界に、唐突にある光景が差し込んだ。


陽差しの差し込む中庭。

揺れる馬上から見上げた、細い木洩れ日の光。

差し出された、甘く柔らかな飴の香り――。


「……はい」


絞り出すように、王女は答えた。

声はかすかに震えていた。


男は静かに頷くと、小さな包みを手に取った。

白樺の皮に丁寧にくるまれた、小さな円い飴。


「では、これをお見知りおきの印として」


そう言って、王女の手に包みをそっと乗せた。


掌の温もりに、遠い日々の影が静かに蘇ろうとしていた――。


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