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2 封じられた記憶

 ── 帝城・厨房 ──


 冬のある朝。

 大鍋の湯気がもうもうと立ちこめる中、リシェルが声を弾ませた。


「今日は“月の市”よ!

 この日だけは、厨房のみんなが買い出しに駆り出されるの。肉も野菜も山ほどよ!」


 快活な笑顔には、寒さをものともしない温かさがある。


 市場──その言葉に、王女の胸が小さく揺れた。


 外出はすでにダリオスの命として告げられていた。

 それでも、こうして現実に「行く」と聞かされると、どこか足元が浮くような心地になる。


 リシェルは、積み上げられた籠のひとつを王女の方へ押しやる。


「ほら、行きましょ!」


 粗末な外套を羽織り、荷を抱える。

 賑わいのただ中へ踏み出すのだと思うと、胸の奥に小さなざわめきが広がった。





 ── 帝都・市場 ──


 石畳を踏みしめた瞬間、ざわめきと冬の冷気が押し寄せる。


 隣でリシェルが声を弾ませ、露店の肉を吟味している。

 少し離れたところでは外回り班の若者たちが荷車を支え、積み込むのを待っていた。


 一歩後ろには、無言で控えるミレイユの姿。

 淡々とした足取りは、監視役であることを雄弁に物語っている。


 さらに、目立たぬ色合いの外套をまとった男たちが、通りの角に立っている。

 一見すると、荷の見張りか、買い出しの護衛のようにも見えるが、その視線は王女の動きを決して逸らさない。

 護衛兵──しかし、この場ではそれを悟らせぬよう、沈黙のまま風に紛れていた。


 監視付きであるとしても、石壁に閉ざされた空気とはまるで違う。

 人々の声、香辛料の匂い、鉄鍋で油が弾ける音──

 帝都の喧噪が一気に押し寄せ、王女は胸にざわめきを抱えながら、それを受け止めていた。


 そのざわめきに、遠い宿場町の市場が重なった。


 露店が軒を連ね、値を競う声と笑い声が入り混じる雑踏。

 粗末な外套を着た人々の肩がぶつかり合い、陽光に照らされた果物や布地が鮮やかに並んでいた。


 ほんのひととき紛れ込んだあの光景が蘇り、懐かしさと痛みが胸を刺す。


 気づけば、王女の足は立ち止まっていた。

 雑踏の向こうを、ただ見つめてしまう。

 人々の声が渦をなし、遠い記憶と現在が重なり合う。


 ──そのとき。


(……今のは……?)


 耳の奥に、不意にまた別の懐かしい響きが触れた。

 帝国の言葉ではない。

 かつて自分を「姫」と呼んでいた人々の、あの響き。

 もう二度と耳にすることはないと思っていた──故国の言葉だった。


 振り返ろうとした刹那──。


「見て! こっちの肉の方が安いわ。煮込みにちょうどいいと思わない?」


 リシェルが籠を抱え、楽しげに声をかけてくる。

 その明るさに押され、王女は思わず応じた。


「……ええ、そうね」


 口を開いている間に、あの響きはもうどこにもなくなっていた。

 群衆の喧噪に溶け、幻だったかのように。


 けれど胸の奥には、消えぬざわめきが残る。

 ほんの一瞬耳にしただけで、忘れかけていた記憶が疼くように目を覚ましていた。





 ── 帝城・王女の居室 ──


 その日の夜。

 下働きの務めを終え、格子窓から差し込む月光を背に、王女は寝台に身を横たえていた。


 足首には、変わらず冷たい鉄の重み。

 象徴として人々の前に姿を晒されるようになった後も、それは外されることはなかった。

 どれほど衣が整えられようと、どれほど舞台の上で見栄えを整えようと──。

 足元には、常に「囚われ人」の印が絡みついていた。


 眠りに落ちきれぬまま、意識の底に沈んでいたものが、ゆっくりと浮かび上がってくる。


(……あの声……)


 昼間、市場の喧噪の中でふと耳にした響き。

 もう二度と届かぬと思っていた、故国の言葉。


 故国は滅び、王族は断たれた。

 けれど、多くの民は帝国の支配の下で、なお暮らしている。

 ならば、その言葉が帝都の市場で交わされること自体は、決して不思議ではないのかもしれない。


 けれど、王女にとっては永遠に失ったはずの響きだった。

 それに不意に触れてしまったからこそ、深く心が揺さぶられる。


 王女は、そっと瞼を閉じる。

 闇の裏側で、記憶の奥底に封じ込めていた景色がにじみ出す。


 陽に照らされた庭園の石畳。

 髪を梳いてくれた侍女の細い指先。


 乾いた風に揺れる紋章旗の音。

 小さな祠に並んだ花の香り。


 幼いころの祭祀の光景。

 香の煙の向こうに並ぶ兄や姉の姿、母の低い祈りの声、父王の厳かな口調。


 懐かしさとともに、胸を締めつける痛みが押し寄せる。


(帰りたい……)


 ほんの一瞬だけ心が囁いた。

 もう一度、あの場所に。

 もう一度、あの声に囲まれたい。


 けれど次の瞬間、瞼の裏に赤い影がよぎる。


 燃えさかる城壁。

 血に濡れた床。

 絶叫、炎。


 王女は、はっと息を詰めた。


(……思い出しては、いけない)


 よみがえりかけた記憶を慌てて閉ざし、王女は瞳を固く閉じた。




     * * *




 王女にとって、故国の滅亡は一夜の出来事だった。


 国境の戦はどこか遠いことのように聞かされていて、あの夜、初めて血と炎の匂いを感じた。

 彼女の記憶に刻まれているのは──たった一晩で、すべてが崩れ落ちたという現実。


 本来なら、自分はやがて他国へ嫁ぐはずの身だった。

 だから、あの一夜さえ記憶の底に封じ込めてしまえば、心のどこかでごまかすことができる──「私はただ嫁いだのだ」と。

 帝国へ嫁ぎ、時折、遠い故国を懐かしむ娘に過ぎないのだと、そんな錯覚にすがれる。


 だが真実は違う。

 城は炎に包まれ、王家は滅び、国そのものが地図から消えた。


 ──帝国の東に広がっていた故国。


 帝城を逃げ出したとき、王女は西へ向かった。

 きっと追手は、まず彼女の故国の方角を探すだろう──だから、反対方向へ逃げた。


 だが胸の奥では知っていた。

 もし東へ進めば、否応なく目にしてしまう。

 帝国の旗に覆われた街並みを、変わり果てた現実を。


 だから背を向けた。

 生まれ育った大地そのものから。

 「もうないもの」を、見ないために。


 その逃避が、いまもなお心を支えている。

 あの夜を封じ込めていれば、まだどこかに「故国」は存在する──そう信じていられるから。

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