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1 再会と予兆

── 帝城・謁見の間 ──


新年の喧噪が去り、帝都に静けさが戻った頃。

王女は皇帝の前に呼び出された。


磨き上げられた白い大理石の床に、冬の光が斜めに差し込んでいる。

石の柱と高窓がつくる冷たい静寂の中、深紅の絨毯だけが微かな温を帯びていた。


玉座に腰かける男は、まるで独り言でも洩らすように切り出した。


「……象徴は玉座に飾る人形ではない」


唐突に放たれたその言葉に、王女は瞬く。

ダリオスはその反応を愉快げに眺め、声を低く続けた。


「民の暮らしも知らぬ象徴など、絹布を纏った案山子だ。……笑われるのがおちだろう」


勝手に“象徴”に仕立て上げたのは他ならぬ彼であるはずなのに――王女は理不尽さに、ただ困惑する。


「新年の行事も終わり、しばらくは“帝国の象徴”を表に立たせる場もない。……だから今のうちに、民の暮らしを知ってこい」

淡々と告げられた声は、命令とも嘲笑ともつかない。


「下働きに戻れ。煤や汚水の匂いを、その身で嗅いでこい」


王女は、目を見開く。

その様子を面白がるように、男は続けた。


「それだけでは足りん。週に一度は神殿へ行け。雑巾を持って床でも磨くがいい。祈る民を間近に見ておけ」


再び突拍子もない命令。王女は、呆気に取られて、ただ立ち尽くす。

その戸惑いを、玉座の男は楽しむかのように見下ろしていた。


「買い出しで市場に行く機会もあるだろう。その時には、物を売り買いする民の声を見聞きしておけ」


思いもよらぬ言葉に、王女はつい聞き返す。

「……外へ出てよいのですか?」


「籠の鳥にも、時には外気を吸わせてやらねば死んでしまうからな」

冷ややかな声音に、皮肉な嘲笑が混じる。

「もっとも、飛び立てるとは思うなよ……監視はつける」


破格の許しであるはずの言葉が、なぜか理不尽な罰のように響く。


「……承知しました」


戸惑いつつも首肯する王女を見届け、玉座の主の瞳が細く笑む。

満足か、それともただ愉快なのか――王女には判じられなかった。




 * * *




謁見の間を辞し、長い石造りの回廊を歩きながら、王女は先ほどのダリオスの言葉の意味を図りかねていた。胸に釈然としない思いが広がる。


「民の暮らしを知れ」というのは、理屈としてはもっともらしい。

だが、彼の口から語られると、その先に何かさらなる意図があるように感じるのだが、どうにも掴めない。


そもそも、自分は“帝国の覇と慈悲を示す証”として、玉座の傍らに飾られているにすぎないのではないか。

民の暮らしを知ること自体には――確かに興味はある。

けれど、それが自分に強いられている「象徴」の務めにどう結びつくというのか。


足音が石床に響く。

ダリオスという男は、いつもそうだ。命じられること自体は理解できても、その心がどこにあるのかは見えてこない。


いくら考えを巡らせても、答えらしいものは浮かばなかった。

結局のところ、自分には測りようのないことなのだ。


王女は小さく息を吐き、歩みを速めた。

胸に残るもやは晴れぬまま、次なる役目へと向かわざるをえなかった。





── 帝城・厨房 ──


翌日、王女は久方ぶりに厨房へと足を踏み入れた。

石床に染みついた油と煙の匂い。大釜の沸き立つ音。

以前と変わらぬ熱気が満ちているが、そこに漂う空気は冷たく澄んでいた。

季節は冬。竈の火に寄り添う下働きたちの吐息は白く、窓外の風がしんしんと吹きすさぶ。


そのとき――。


「あっ! また一緒に働けるのね!」


背後から飛びつくような声。

振り向いた王女の目に、リシェルの快活な笑顔が映った。


「ある日いきなり来なくなったから……てっきり、もう二度と会えないのかと思ってたのよ!」


大釜をかき混ぜていた手を止め、リシェルは駆け寄ってくる。

その瞳には飾らない喜びが満ちていて、王女の胸を一瞬にして温めた。


「……私も、また顔を見られて嬉しいわ」


思わず零れた言葉は、疑念や不安に曇っていた心をほんのひととき晴らす。

リシェルの存在が、ここでは唯一の「普通さ」だった。




再び始まった下働きの務めは、以前と同じ。

鍋を磨き、床を擦り、冷えきった水で野菜を洗う。

ただ違うのは季節。

春先の温もりに汗を流したあの日々とは違い、今は指先まで凍える冬の労働だった。


桶に張った水に手を沈めるたび、皮膚が裂けるような痛みが走る。

吐く息は白く、石壁の隙間から忍び込む風が頬を刺した。

けれど、周囲の下働きたちと肩を並べる時間は、妙に心を落ち着ける。


(……象徴として立たされる場よりも、ここにいる方が……まだ私には息ができる)


そんな思いを胸に抱きながら、王女はまた一つの冬を、厨房の煤と冷気の中で過ごしていった。





── 帝都・神殿 ──


馬車が神殿の石段の前で止まると、白衣の僧たちが列をなし、王女の到着を待ち受けていた。

冬の陽が白く反射し、空気は張り詰めている。


王女は馬車を降り、足を石畳に下ろす。

吐く息が白く散り、背後の兵と侍女ミレイユが静かに控えた。


先頭に立つ老僧が、杖を支えながら一歩前へ進み出て、深く頭を垂れる。

「陛下の慈悲のもとにある姫君よ――神殿は、あなたの奉仕を謹んでお受けいたします」


「……務めを果たします」

小さく応じる声は、冷えた空に溶けるように淡い。


老僧は微笑を浮かべ、両手を胸の前で合わせた。

「本日の奉仕は掃除と整備。祈りの場を清めることこそ、象徴としての務めにございます」


“象徴”――その言葉が耳に触れた瞬間、王女の胸にわずかな痛みが走った。

やはりここでも、その名が自分につきまとう。

自分はただの一人の人間ではなく、“誰かの手の中で意味を与えられる存在”なのだと、思い知らされる。


けれど、ダリオスの放つそれとは違い、老僧の声には支配の響きがなかった。

冷たい宣告ではなく、祈りに似た静けさが宿っていた。

それが、少しだけ――不思議だった。




こうして、ダリオスに命じられた通り、週に一度、王女は厨房を離れ、神殿の石段を登ることになった。

白く凍りついた石畳。吐く息はすぐに白煙となり、天へと溶けていく。

大理石の柱が並ぶ神殿の内は静まり返り、冬の冷気がしんと張り詰める。


粗布を手に、凍てつく床を拭い、蝋燭台の煤を落とす。

布を絞る指先が、冷たさにかじかむ。

厨房の桶に手を沈めたときと、同じような痛み。

けれど、ここには汗ばむ熱気も、リシェルの笑顔もない。


体も声も、凍てついた空気に包まれて、どこか遠く感じられる。

同じ「務め」であっても――この場では、“象徴”としての輪郭が、否応なく浮かび上がる気がした。


広間の奥では、民たちが祈りを捧げていた。

すすけた衣の老女、幼子の手を取った母、疲れの色を浮かべた男。

皆、ひたむきに額を垂れ、言葉なき祈りを胸の内で唱えている。

光に照らされた背中が静かに揺れ、その影が床に長く伸びていた。

どの顔も切実で、けれどどこか静かな安らぎが宿っているように見えた。


この神殿の名も、神の名も、祈りの詞も――故国のものとは違っている。

けれど、人々の祈りのかたちは、どこか似ていた。

手の重ね方、うつむいた肩、息をひそめるような静けさ。


風の名を呼ぶ代わりに、ここでは光に言葉を捧げるらしい。

そういうものなのだろう――場所が違えば、神もまた違う。

けれど、祈る者の胸に宿るものは、どこか通じている。


王女は布を絞りながら、その光景を不思議な面持ちで眺めていた。




 * * *




奉仕を終え、石段を降りる。

白い息が風にさらわれていく中で、王女の胸には再び疑問が浮かぶ。


(いったい、これは何なのだろう……)


ダリオスがなぜ、この仕事を自分に課すのか――その心は、やはり掴めなかった。


ふと、隣りを歩く影に目を向ける。

無言で寄り添う侍女――ミレイユ。

その横顔は冷えた石のように変わらず、何を思っているのかは読み取れない。


王女は短く視線を交わし、すぐに逸らした。

彼女は、ダリオスの意図を知っているのだろうか。

それとも、自分と同じようにただ命じられるままに従っているだけなのか。


凍える風が吹き抜け、二人の吐息を掻き消していった。

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