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8 声と影

夜会後の日々も、王女は「帝国の象徴」として人前に立つことを強いられた。


豊穣祭や慰霊の儀では、香煙の立ちこめる神殿に皇帝と並び、ただ静かに座す。

勝利記念日や市場祭の行列では、群衆の歓声に包まれながら皇帝の背後を歩む。


夜会の時と同じく、帝国式の衣に身を包み、胸元には王家の紋章をかたどったブローチが留められていた。かつて民が敬意をこめて見上げたその意匠は、いまや「帝国の慈悲」を飾る装飾として掲げられている。

その姿は「亡国の姫すら帝国の庇護にある」という無言の宣伝であり、誰もが目に焼きつける景色だった。


──何も語らずとも、ただそこに立っているだけで利用されていく。その感覚が王女の胸を刺し、逃げ場のない檻を思い出させた。


やがて、彼女を見た人々のさざめきが、宮廷の奥から街路へ、さらに諸国へと広がっていく。




── 宮廷の広間の片隅で。


高窓から落ちる光の下、杯を傾けながら人々の声が細く交わる。


「……亡国の姫を従えるなど、まこと帝国の覇の証ですな」

「滅んだ王家の娘が陛下の庇護のもとに立つ……これほどの“勝利の証明”はありますまい」


称賛の調子に混じる嘲りの声。

「誇り高い姫君も、いまや飾り立てられた人形に過ぎませぬな」


杯の底で氷が鳴り、眉をひそめる声が続いた。

「……伝統ある王家の血を辱めるのは、あまりに下品では?」


すぐに、別の声が応じる。

「ですが、陛下が隣りに立たせておられる。それこそ“慈悲の深さ”の証でしょう」

「……それとも、“鎖の長さ”を誇示しているのかもしれませんよ」


軽口とも皮肉ともつかぬ響きが交錯し、空気は一層ざわめきを帯びていく。


やがて、低い囁きが最後に落ちた。


「夜会での言葉、お聞きになりましたか? まるで皇帝に楯突くかのような……」

「……あの姫を立たせ続ければ、いずれ“旗”として祀り上げられましょう」


警鐘めいたさざめきは、絹の裾の音に紛れて広がり、やがて誰の言葉とも知れぬまま宙を漂った。




── 帝都の街路にて。


行列を遠巻きに見送った人々が、さざめく。


「お綺麗だったね」

「いや、でもありゃ見世物だろう……結局、黒獅子の掌ってことだ」

「……おかわいそうに」




── ある遠国の王宮にて。


帰国した使節が、主君の前に膝をつく。


「陛下。帝都で目にした亡国の姫は、皇帝の傍らに立ち、亡き王家の紋章を刻んだブローチを胸に留めておりました。

 ──あれは諸国に向けた皇帝の宣告にございましょう。

 “誰であれ、我が庇護のもとに生かす。だがその生殺与奪は、この手にある”と」


王の顔に険しさが走る。


使節は静かに言葉を結んだ。

「象徴を用いて人心を縛り、威を示す……帝国の力は軍勢のみならず。

 どうか、あの皇帝を侮られませぬよう」


報告はそれだけだったが、王宮の空気には重い影が差していた。




── 帝都の裏路地の酒場にて。


湿った木壁に煙がまとわり、粗末な卓の影で小さな声が交わされる。


「……姫を象徴だと? 見世物にして笑い者にして……」

「耐え難い屈辱だ。血も誇りも踏みにじられている」


濁った酒をすすりながら、別の声が低く囁く。

「見たか、胸元のブローチを。王家の紋章だ。あれは、あの国の……」


語尾が震え、唇を噛む音がした。


「だが聞いたぞ。夜会で、姫が口にされたとか──“故国の者が生きている限り、そのために自らも生きる”と」

「……ほんとうか? 」

「そう伝わっている。鎖につながれたまま、それでもそんな言葉を……」

「……胸を打たれるな」


卓の隅に沈黙が落ち、煙が漂う。

やがて、押し殺した声が続いた。


「一年を経て、ようやく姿を現された。行列に、祭祀に……」

「そうだ。城の奥に閉ざされていた姫が、表に立たされるのなら──」


短い間。

灯火が揺れる中、最後の囁きが低く落ちる。


「……奪還の機会は、あるやもしれぬ」


誰も顔を上げぬまま、その言葉だけが煙に残った。





── 帝城・執務室 ──


窓から差し込む光が、書き散らされた文書の上に白く広がっていた。

積まれた羊皮紙の影が机に落ち、静けさの中に重みを帯びている。


セヴランが静かに進み出て、低い声を落とす。

「陛下。亡国の残党たちが、裏で何やら動き始めている気配がございます」


報告に、ダリオスの口元がにやりと歪む。

「……ほう。お前の挑発が効いたんじゃないか?」


漆黒の瞳が愉しげに光る。

セヴランはわずかに目を伏せ、淡々と続けた。

「挑発もさることながら――夜会での姫君の言葉が、彼らに希望を与えたのかもしれません」


執務室に短い沈黙が落ちる。


「陛下。夜会以降は、姫君に目立った失言はございません。しかし……」

彼は一拍置いて、言葉を継いだ。


「もし亡国の残党が実際に立ち上がれば、帝国の貴族たちは必ずこう見なすでしょう──『姫君が旗印になったのだ』と」


窓外の光が彼の輪郭を薄く縁取る。ダリオスは椅子にもたれ、顎に指を当てたままじっとセヴランを見つめる。

セヴランはその眼差しを避けずに続ける。


「このまま王女を表に立たせておくと、誇りを捨てぬ者らの標的となります。ゆえに──王女は王宮の奥深くに隠し、外界との接触を断つのが賢明かと存じます」


短い沈黙。机の上で紙束がかすかに擦れる音だけがした。

ダリオスの口元に、ゆるやかな笑みが浮かぶ。


「ならば、むしろ利用してやればいい」


声は穏やかだが、その一言に含まれる毒気が室内を満たす。


「王女を餌にすればいい。残党どもは必ず動く。──そして動けば、俺の掌でまとめて狩れる」


セヴランの表情に微かな影が差す。

しかしやがて視線を伏せ、あきらめたように深い溜息をついた。

皇帝の言葉の残酷さを理解しつつも、論としては揺るぎないことを悟ったからだ。


ダリオスの口元には冷ややかな笑みが浮かび、支配者の鋭い光がその瞳に宿っていた。


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