6 羽音の記憶
── 帝城・王女の居室 ──
翌朝。
城門前には、南洋王国の紋章を掲げた一行の馬車。
その中心に立つアシェルが、ゆるやかに出立の支度を整えている。金糸を織り込んだ外套が朝の光を受け、淡く光を返した。
王女は、自室の格子窓ごしにその光景を見つめていた。
ふと、アシェルが顔を上げた。
まるで風の導きに応えるように、彼の視線がまっすぐに、王女のいる上階の窓を捉える。
一瞬、二人の目が合った──
そう錯覚させるほど、その眼差しは確かに、王女のもとへ届いていた。
その瞳には、言葉では説明のつかない色が宿っていた。
惜別でも、哀れみでもない。
勝利の余韻と、わずかな未練──。
アシェルは、ほんのわずかに口元を緩めた。それは、笑みとも、憐れみともつかぬ曖昧な形。
まるで、ひとつの舞台を見事に終えた役者が、観客にだけ密やかに合図を送るかのようだった。
やがて彼は、何事もなかったように馬へと歩み寄り、軽やかに鞍へ跨がった。
一行はゆっくりと城門を抜け、春の光の中へ消えていく。
格子窓の向こうで、風が旗を揺らした。
そのはためきの音だけが、王女の耳に長く残った。
その時、扉の向こうから、軽く衣擦れの音。
ミレイユが静かに入室し、無表情のまま一礼した。
「──陛下より。本日、夜伽を仰せつけました。支度を整えてお待ちいただくように、とのことです」
王女は、ゆるやかに顔を向けた。
その瞳には驚きも怒りも浮かばない。ただ、光を失った湖面のように、静かに沈んでいた。
「……わかりました」
その声は、風にかき消されそうなほど微かだった。
── 夜 ──
蝋燭の炎が、静かに揺れていた。
外は夜霧に包まれ、遠くで鐘の音がかすかに響く。
王女は、鏡の前で静かに座していた。
ミレイユの指が、淡々と衣を重ねていく。夜伽のための薄衣──羞恥を隠すにはあまりに儚く、それでも、王女はただ、遠いどこかを見ている。
髪を梳かれるたびに、櫛の歯が髪を割る音が、静寂の中にひとつ、またひとつと刻まれる。
その音は、不思議なほど澄んでいて──
まるで、誰かの心を鎮める祈りのようでもあり、何かを静かに葬る儀式のようでもあった。
── 皇帝の私室 ──
扉の前で、ミレイユが静かにノックした。
「──姫様をお連れしました」
中から返答はない。
だがミレイユは構わず、取っ手に手をかける。
音を立てぬよう、扉をゆっくりと開き、王女をそっと中へと促した。
室内は、ほの暗い灯りに包まれている。
壁際の燭台がゆらめき、赤い絨毯の上に長い影を落としていた。
長椅子には、杯を手にしたダリオスの姿。
片肘をもたれて預け、視線だけを王女の方へ向けた。
杯には深紅の液体が注がれているが、その中身はほとんど減っていない。
王女の背後で、扉が静かに閉まる。
鈍く響いたその音が、部屋の空気をわずかに震わせる。
静寂だけが、室内に残った。
蝋燭の芯が時折、かすかに音を立てて揺れ、その影を壁に踊らせている。
やがて、ダリオスはゆっくりと杯を置いた。
長椅子から腰を上げ、無言のまま王女の前へと歩を進める。
影がひとつ、王女の足元に落ちる。
そして、低く、押し殺したような声が空気を割った。
「……亡国の王女としての、務めを果たせ」
その言葉が落ちた刹那──
窓の隙間から、春の夜風がそっと吹き込んだ。
草木の芽吹きを孕んだ湿った風。まだ若い葉の匂い。
その香りに、王女の記憶が静かに揺れた。
三年前の春。
城が落ち、愛する者たちを失い、すべてが終わったあの夜。
故国から遠く、この地へと連れて来られ、初めてダリオスの腕に抱かれた夜の、あの匂い。
────・・・
気づけば、王女の身体は寝台の上にあった。
ダリオスの手は強引で、けれど、妙に丁寧だった。
剥がされていく薄衣、肌に触れる指先の熱。
淡々と進められるその所作は、どこか儀式のようで──。
──このまま、すべてを忘れて委ねてしまえば、楽になれるのだ。
その言葉が、唐突に王女の胸に浮かんだ、その刹那。
目の前のダリオスの表情が変わった。
驚き。狼狽。
あるいは、苦い何かを見るような、そんな色。
その視線に、王女は自分の頬を伝うものに気づく。
涙。
音もなく、次から次へと溢れてくる。
嗚咽もなく、声もなく、ただ、泣いていた。
自分でも理由がわからないままに。
もう何も感じないはずだった心が、どこかで軋み──
奥底から、ふと浮かび上がってきたのは──あの夜の衝動。
このままでは、自分という形が消えてしまう。
声も、思いも、輪郭さえも──
羽根を失い、羽音すら忘れ、飾り物として生きる未来。
逃げろ、と声がする。
息をするために。確かめるために。
“自分がここにいる”という感覚を取り戻すために。
けれど、身体は動かない。
涙だけが、途切れずに頬を伝い続けていた。
それはまるで、魂の奥底がかすかに震えているのに、外側の殻だけが追いつかずに立ち尽くしているような──そんな、静かな断絶。
そのとき。
ダリオスの手が、王女の頬に触れかけて──
けれど、その指先は寸前で静止した。
わずかに震えるその手は、まるで、何かを確かめることを恐れているようでもあった。
やがて、ダリオスは視線を落とす。
静かに息を吐き、王女の肩に滑り落ちていた薄衣を、そっと掛け直した。
足音も立てずに、彼は寝台から離れた。
影がひとつ、月明かりの中を通り過ぎていく。
部屋に残されたのは、芽吹きの夜の匂いと、まだ止まぬ涙だけだった。




