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5 象徴の断罪

 ── 帝城・執務室 ──


 午後の光が斜めに差し込み、机上の文書を淡く照らしていた。


「……以上が、アシェル殿下との会話の概要です」


 報告を終えたミレイユが、最後に言葉を添えた。


「アシェル殿下が途中で声を落とされたところは正確に聞き取れませんでしたが……おそらく、南洋王国へ誘うような内容を口にされていたように思います」


 ダリオスの目が、鋭く動く。

「やはり、あの男の狙いはそこか」


 一拍の沈黙。


 ミレイユは、補足するように続けた。

「会話の大半は、アシェル殿下が一方的に話しておられました。姫様がほぼ沈黙を保たれていることを不審に思われる様子は、見受けられませんでした」


 その瞬間、執務室の空気がぴんと張り詰める。


 わずかな沈黙ののち、セヴランが低く息を吐いた。

「……つまり」


 視線を伏せたまま、言葉を継ぐ。

「姫君が“そういう状態にある”ことを、最初からわかっていた、ということか」


 ダリオスは無言のまま、指先で机の縁を一度だけ叩いた。

 乾いた音が、静かな部屋に沈んでいく。


「姫君の様子は?」


 セヴランの問いに、ミレイユが淡々と答える。


「終始、平板なご様子でした。ただ、アシェル殿下の言葉の所々で……呼吸が、ほんのわずかに乱れる場面がありました」


 セヴランは顎に手を当て、思案するように目を細めた。

「……姫君の状態を把握した上で、揺さぶる言葉を選んでいた、ということですね」


 ミレイユは、わずかに間を置いてから続けた。

「ただ……、アシェル殿下の話の内容そのものは、特段おかしなものとは感じませんでした」


 他人が期待する物語に応える必要などない、

 自分の欲に従って生きることは悪いことではない。


 アシェルが言っていたのは、つまりはそういうことで、ミレイユはそれが特段おかしなものとは思わなかった。


 再び沈黙が落ちた。

 午後の光はゆっくりと弱まり、机上の影が長く伸びていく。


 セヴランが深く息を吐いた。

「原因は依然として掴めませんね。だが、どんな言葉で姫君が揺れたのか、その傾向くらいは──」


 その言葉の途中で、扉が控えめにノックされた。

 三人の視線がそちらへ向く。


 続いて、わずかに戸惑ったような衛兵の声が響いた。

「王女殿下がお見えです。……急ぎ、陛下にお話ししたいことがある、とのことです」


 室内の三人が、顔を見合わせた。


 短い沈黙ののち──

 ダリオスが低く命じた。

「……通せ」


 扉が、ゆっくりと音を立てて開いた。

 薄い陽光の差し込む中、王女が姿を現す。


 アシェルとの会話で、何かが戻ったのか──

 ダリオスの胸を、かすかな期待がよぎった。


 だが、王女の歩みは恐る恐るで、背筋は伸びているのに、その身には壊れ物を抱えたような脆さがまとわりついていた。


 ──違う、と悟る。


「……何用だ」

 ダリオスの声が低く響く。


 王女はすぐには答えなかった。

 指先がかすかに震え、沈黙が長く続く。


 ダリオスは辛抱強く待つ。


 ようやく、か細い声が空気を震わせた。

「……お願いがあって、参りました」


「願い?」

 思わぬ言葉に、ダリオスの目が細まった。 その表情に浮かぶのは、静かな訝しさ。


 セヴランとミレイユが、視線を交わす。


 ダリオスの声音が、低く落ちる。

「……言ってみろ」


 王女の唇が、かすかに開く。

 だが声が出るまでに、長い間があった。


「……南洋王国へ……行きたいのです」


 王女の口からようやく発せられた言葉に、その場の空気が凍りついた。

 机上の紙が風もないのにわずかに揺れたように見える。


 しばしの沈黙ののち、ダリオスが低く笑った。

「……ほう。物見遊山にでも行きたいのか?」


 王女の肩が、わずかに震える。

 それでも声を搾り出す。

「そうではなく……アシェル王子のもとに。……そのような話があると耳にしました」


 ダリオスの瞳が冷たく光る。


「ただの流言だ」

 その一言で、室内の温度が数度下がったようだった。


「……奴に、何を吹き込まれた」

 問いというより、詰問。


 だが王女は、わずかに唇を震わせながら言った。

「何も……。私の意志です……」


 その言葉に、ダリオスの胸の奥で何かがひずむ。


 意志──。


 あの叙勲祭の後、己の罪と務めに向き合うと宣言し、

 「逃げるなよ」と告げた時、確かに頷いた女の口から、その語が出るとは。


 胸の奥で、何かが軋んだ。

 怒りとも、失望ともつかぬ熱が、理性の底をかすめる。


 あれから彼女は、帝都に残り、痛みを越えようとしていた。

 だから、守るべき者ではなく、共に立つ者として扱った。

 囮の作戦についても、これまでのように伏せることなく伝えた。

 ──それが、彼女への信と、対等の証のつもりだった。


 だが当日、彼女はなぜか作戦を外れ、意味のわからぬ行動を取り、そのまま心を壊した。


 そして今──。

 あの暗殺者の背後にいるであろう者の元へ行きたいと言う。

 まるで、あの日の誓いなど、最初からなかったかのように。

 信頼も、承認も、すべてを裏切るような響きで。


 ダリオスの瞳が細く光を裂いた。


「……ほぉ。意志、か」


 その声音は淡々としているのに、響きだけが異様に鮮やかだった。


「……つまり、お前の“意志”で、この国を出たいと?」


 王女は沈黙のまま。

 ダリオスが立ち上がる。

 机の上から伸びる影が、ゆっくりと王女の足元を覆っていく。


「面白い」

 声が静かに落ちる。


「──あの王子の元へ行って、何をするつもりだ。救われたいか。赦されたいか。それとも、“象徴”の座から逃げ出したいのか」


 王女の肩が、わずかに震えた。


 ダリオスが王女に向かって一歩踏み出そうとした、その瞬間──

「陛下──!」

 セヴランが割り込んだ。声に、抑えきれぬ焦りが滲んでいた。

「今の姫君は、正常な判断のできる状態ではありません。追い詰めるような言い方をなさっては──」


 ダリオスの眼差しが、ゆっくりとセヴランに向く。

「追い詰めているのではない。──問うているのだ」


 穏やかな声音だった。

 だが、表情のないその静けさが、かえって室内の空気を凍らせた。


 セヴランは、半歩退いた。


 ダリオスは再び王女の方へ視線を戻して、歩を進める。その足音が、静寂の中で一歩ごとに響く。


「……お前は、ここで生きると誓ったはずだ。この帝国の“象徴”として、己の責務と、己の罪に、正面から向き合うと」


 王女の前に立ち、その姿を見下ろす。

 光と影の境に立つ皇帝の影が、王女の姿を覆い隠した。


 一瞬の沈黙。そして、低く鋭く。


「……逃げるのか?」


 王女は沈黙のまま、微動だにしなかった。その瞳の奥には、何の感情も灯っていない。


 ダリオスはその姿を見据えたまま、冷ややかに息を吐く。

 そして、声を低く落とした。

「……ならば、鳥籠の中に戻れ」


 その瞬間、空気が鋭く張り詰めた。


「南洋の王子の元へ行くことなど、許さぬ。

 お前は象徴としての役目を果たせぬと、自ら示した。ならば──その座を解く」


 セヴランが息を呑み、思わず声を上げる。

「陛下、それは──!」


 しかし、ダリオスは振り返らなかった。

「お前のような者を象徴として立たせることはできぬ。

 これより先は、血を繋ぐためだけの器に戻れ。己の価値を、それで測るがいい」


 それは──

 皇帝としての本気の断罪。


「……ミレイユ」

 呼ばれた名に、侍女が静かに頭を垂れる。

「こいつを連れて戻れ。部屋から出すな」


 ミレイユは静かに一礼し、王女の背中にそっと手を添え、促す。

 王女は抵抗もなく、そのまま歩き出す。


 やがて、執務室の扉が重く閉じられる音が響いた。




 扉が閉まる音が消えたあとも、沈黙は長く続いた。

 空気が重く沈み、春の日差しさえその冷たさに溶かされていく。


 やがて、セヴランが静かに息を吐いた。

「……激昂に任せるとは、陛下らしくありませんね」


 その声音には、非難よりも痛みが混じっていた。

 ダリオスは何も答えず、拳をゆっくりと握る。

 沈黙が落ちる。


 セヴランは一歩前に出た。

「ここで王女殿下を象徴から降ろせば、敵の思うままです。一度降ろした象徴は、二度と戻せません」


 ダリオスの視線が、ようやくセヴランに向く。

 その双眸は怒りの熱を宿したままだが、理性の光が少しずつ戻りつつあった。


 セヴランは一歩進み出て、低く続ける。

「対外的には、王女殿下の象徴の地位は維持します。ただし、静養の継続という形に。そうすれば、誰の目にも不自然ではありません」


 ダリオスはしばらく無言のまま立ち尽くしていた。

 やがて、ゆっくりと椅子へ戻り、深く背を預ける。革の背もたれがわずかに軋み、長い息が静かに吐き出された。


 窓辺の光が、ゆっくりと傾いていく。

 積まれた書簡の影が長く伸び、室内を覆う。紙の擦れる音ひとつなく、ただ春の気配だけが遠くで微かに漂っていた。

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