表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
110/113

4 誘惑

 ── 帝城・応接間 ──


 春の午後。

 陽光を透かした薄布のカーテンが揺れ、柔らかな影が絨毯に落ちていた。


 王女は静かに長椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で重ねている。

 その傍らには、控えるようにミレイユの姿。

 対面には、金糸の刺繍をあしらった衣を纏うアシェルと、控えめに佇む南洋の侍女の姿。


 アシェルは、微笑とともに軽く頭を下げた。

「お久しぶりです、王女殿下」


 王女は、わずかに顎を引いた。

「……お久しぶりです、殿下」


 声音は整っていた。だが、その言葉に温度はない。

 視線が一瞬だけ揺れ、すぐに定まる。焦点の合わぬ瞳は、相手を見ているようでいて、何も映してはいなかった。


 アシェルはゆるやかな笑みを浮かべながら、丁寧に言葉を紡いだ。

「──帝都の人々は、殿下のお噂で持ちきりですよ。

 王女殿下が、陛下をお守りするために暗殺者の前へ身を投げ出された、と」


 その言葉に、ミレイユの指がわずかに動く。

 しかし、王女は反応しない。ほんのわずかに瞼が動いたが、まるで風が瞳の縁をかすめただけのようだった。


「とても、美しい物語です」

 アシェルは、語るというより、まるで吟遊詩人が物語を紡ぐかのように言葉を紡いでいった。


「亡国の姫が、己の国を滅ぼした仇に葛藤を抱きながらも──やがてその人となりに触れ、静かに心を寄せていく」


 彼の声は穏やかだった。

 装飾のない語り口がかえって、場の空気を静かに染めてゆく。


「そしてついには、その皇帝のために、命を懸けて飛び出す──」


 王女はまっすぐ前を見つめている。

 だが、その視線の奥は霧がかかったように空白だった。


「民は語ります。あれは勇気の証だと。誰よりも勇敢な姫であり、愛に殉じる姫なのだと」


 一瞬、王女の指先が、ごくかすかに動いた。

 けれど本人の意思でそうしたのか、風のせいかさえ判別できぬほどの、小さな揺らぎだった。


「誰もがその物語に酔いしれています。……本当に、美しい物語ですね」


 感嘆に浸るように柔らかい、アシェルの声音が続いた。

 だが、その奥に──ほんのわずか、異なる香りが混じっていた。


 揺れるカーテン越しに、淡い光が王女の頬を撫でていた。その表情には、何の揺らぎもない。

 けれど、重ねた指先だけが、ごくわずかに力を帯びている。


 ミレイユは、王女の傍らに立ったまま、その沈黙が何を孕んでいるのかを測るように、静かに気配を研ぎ澄ませている。


「でも、私は──」

 アシェルはひとつ、吐息を混じえたような微笑を浮かべた。

「美しくない物語でも、いいと思いますよ」


 柔らかく、囁くような声だった。

 それは、誰かを否定するでもなく、ただ傍に寄り添うような響き。


 王女の瞳が、ごくわずかに揺れる。

 ほんの一瞬だけ、濁った湖面に落ちた雫のように。


 アシェルは、あくまで緩やかな語りを続ける。

「たとえば──本当は、自分の醜い欲望に突き動かされただけだったとしても」


 その言葉の端に、王女のまつげがかすかに震えた。

 呼吸がひとつ、浅くなる。

 胸の奥で何かが触れたように──それでも、表情は動かない。


 アシェルは、その微かな揺らぎに、気づいた素振りを見せず、ただ、春の陽に溶けるような微笑を浮かべながら、言葉を継いだ。

「むしろ、私はそういう物語の方が、ずっと人間らしくて……好きかもしれません」


 ミレイユの瞳が、わずかに細まる。

 だがアシェルの語り口には、挑発も圧力もなかった。ただ、静かな熱を秘めたまま、彼は王女の目をまっすぐに見据えていた。


「欲というものは……そんなに恥じるべきものでしょうか、殿下」

 問いかけるような声音だった。


「誰かを救うのも、愛するのも、支配するのも──突き詰めれば、すべて欲から始まる。それが、人というものだと思いませんか」


 王女の指先が、ほんのわずかに重なりをずらす。本人すら気づいていないような、小さな動き。


「……ええ」

 アシェルは、その微細な変化を受け取ったかのように、穏やかに頷いた。まるで、返答を聞いたかのように。


「欲というのはね」

 彼は声を落とし、やさしく続ける。

「理想よりも、ずっと誠実なものですよ」


 陽光がゆっくりとカーテン越しに揺れ、王女の横顔に淡い影を落とした。

 その表情はほとんど動かなかった。だが、沈黙の底にわずかに波紋が広がっている──そんな気配があった。


 アシェルはひと呼吸おき、視線を王女へと向けた。その眼差しは、どこまでも穏やかだった。

「……理想というのは、時に人に嘘をつかせますからね」


 責めるでも、断じるでもない。

 ただ、静かに“そうでしょう?”と問い直すような声音だった。


 言葉がいったん途切れる。

 柔らかな沈黙のあと、空気の流れがわずかに変わった。まるで、別の糸を手に取るように──アシェルの口調がほんの少しだけ現実味を帯びる。


「この帝国の中で、あなたが置かれている立場は、非常に繊細で……厄介なものだと、私は理解しています」


 アシェルは少しだけ上体を傾けて、王女に身を近づける。


「たとえば……帝国に害を為す者を捕らえるためなら、殿下を“死んでも構わぬ囮”として用いることだって、きっとあるでしょう」


 その瞬間、ミレイユの指がわずかに動いた。重ねた手が、ほんの一瞬、強く握られる。


 アシェルの眼差しが、そちらへ微かに流れる。

 唇の端に、ほとんど形を成さぬ微笑が浮かび──消えた。


「もちろん、それは陛下が、あなたを軽んじての判断ではない」

 声の調子を崩さぬまま、アシェルはさらりと言葉を継いだ。


「彼は、あなたの背負うものを、共に背負おうとしている。だからきっと……苦渋の決断の上で、帝国の皇帝として、選ぶのだと私は思います」


 その語り口には同情も否定もなかった。

 まるで、悲劇の舞台を鑑賞する観客のように、淡々と。


「でもね、私は……そうやって、どちらも傷ついて、どちらも苦しみ続けるような物語を聞くたびに、どうにも馬鹿らしく思ってしまうのです」


 王女の指が、ごくわずかに強く組み直された。


「物語の読者は胸を打たれるでしょう。涙を流し、崇高な愛に感動することでしょう。けれど──そのために、あなたが、彼が、壊れてゆく必要が、どこにあるんでしょうね?」


 アシェルは微笑みを絶やさぬまま、ほんの少しだけ声の調子を落とす。


「人はよく、理想を掲げます。そして“人々の心に届く物語”を生きようとする。自分を押し殺してでも、読者を喜ばせる美しい物語を、血で紡ごうとする」


 そして、ふっと笑った。

「……こんなふうに思ってしまう私だからこそ、きっと王の器ではないのでしょうけどね」


 それは軽い自嘲のようでいて、芯に確かな熱を孕んだ言葉だった。


 王女の横顔に、わずかな陰りが差す。

 何も語らず、何も応えない。

 だがその瞳の奥で、何かが軋むように揺れ始めていた。


 アシェルは、ふと目を細めた。

「おや……」


 淡い声が、王女の沈黙をすくう。

「言葉を選んでおられる顔だ」


 王女の睫毛が、一瞬だけ震えた。

 微細な揺れはすぐに収まり、表情も再び静謐を保つ。


 アシェルはやわらかく笑みを深める。その笑みは、ぬるま湯のような甘さを帯びていた。

「正直になれば、楽になれますのに」


 王女の唇が、微かに開きかけて──しかし、声は生まれなかった。

 ミレイユの視線が、静かに王女の横顔を見つめている。


 春の陽が、再び窓辺の布を透かし、部屋に淡い陰影を落とした。


 アシェルは、王女の正面で微笑んだまま──

 声だけを、そっと柔らかく沈める。彼女にしか聴こえない声音で。


「……殿下。“赦される場所”は、ここにはないでしょう?」


 王女は動かない。

 だが、その沈黙には、薄く張り詰めた硝子のような気配が宿った。


 アシェルは続ける。

 穏やかに、しかし逃げ場のない言葉で。


「この帝国はあなたを象徴として求める。陛下はあなたを守ろうとする。けれど──どちらも“あなたそのもの”ではない」


 王女の呼吸が、ひとつ、深く乱れた。

 微かに胸元が震え、指先が布の上でわずかにずれる。


 アシェルはその変化を見逃さない。

 しかし、そんな素振りを見せることなく──あたかも慈悲のような表情を浮かべた。


「もしも、ほんの少しでも──あなた自身が、あなたであることを赦されたいのなら。私の国なら……きっと、その痛みごと受け止められますよ」


 ささやくように言葉が落ちると、しばしの沈黙が訪れた。


 カーテンの向こうで風がかすかに鳴り、薄布の影が床を撫でていく。

 王女は動かない。視線はどこにも焦点を結ばず、ただ、その音を聴いているようだった。


 アシェルは、その静寂を壊さずに見つめていた。

 まるで、彼女の沈黙そのものを、確かめるように。


 やがて、わずかに息を吐く。

 それは、幕を下ろすための静かな合図のようだった。


 アシェルはゆっくりと立ち上がる。

 その所作には一切の慌ただしさがなく、まるで余韻を楽しむような静けさがあった。


「明日、私は帝都を発ちます。……おそらく、再びお目にかかることはないでしょう」


 一礼し、歩みを扉の方へと向ける。

 その背は春の光を縫いながら、滑らかに影を引いた。


 扉へ向かう途中──

 彼はふっと立ち止まり、ゆるやかに振り返る。

 金の睫毛が陽光をかすかに照り返し、その微笑には、慰めとも誘惑ともつかぬ柔らかさが宿った。


「……殿下。あなたが今抱えておられるその“痛み”は、誰かに与えられた罰などではありませんよ」


 王女の指が、ごくわずかに掠れるように動いた。

 アシェルは静かに続ける。


「それは、あなたが誰よりも誠実に生きようとした証です。

 人はね……自分の“真実”に触れたときにしか、本当には自由になれないのです」


 王女の瞳が、かすかに揺れる。

 それは痛みか、拒絶か、あるいは救いを求める震えか──本人にも判別できないほど小さな揺らぎ。


 アシェルは一歩だけ近づく。

 踏み込みすぎない距離で、しかし逃がさない位置へ。


「私は……あなたが“真実を生きる”姿を、見てみたかった」

 それは告白にも似ていた。


「ですが──それは私の“欲”ですね」

 一瞬だけ浮かんだ笑みは、触れれば溶けてしまいそうなほど美しかった。


 アシェルは再び軽く頭を下げ、そのまま扉の向こうへ姿を消した。


 応接間には、王女の震える呼吸音が、薄く、長く、残されていた。




     * * *




 白い石の廊下に、靴音がふたつ。

 陽の光が高窓から差し込み、床に細長い影を落としていた。


「……壊れてましたね」

 沈黙のまま数歩を進んだ後、女がふっと口端を上げた。


 アシェルは、唇の端に微笑を浮かべた。

「そうだね。……壊れる瞬間を、僕も見てみたかったな」

 軽やかに笑う。

「いい音がしたみたいだよ」


 女はくすりと笑う。

「今回は、持って帰れますかね?」


 アシェルは答えず、ただ歩を進める。

 高窓の外で、風が枝を揺らす音が、静かに響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ