4 誘惑
── 帝城・応接間 ──
春の午後。
陽光を透かした薄布のカーテンが揺れ、柔らかな影が絨毯に落ちていた。
王女は静かに長椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で重ねている。
その傍らには、控えるようにミレイユの姿。
対面には、金糸の刺繍をあしらった衣を纏うアシェルと、控えめに佇む南洋の侍女の姿。
アシェルは、微笑とともに軽く頭を下げた。
「お久しぶりです、王女殿下」
王女は、わずかに顎を引いた。
「……お久しぶりです、殿下」
声音は整っていた。だが、その言葉に温度はない。
視線が一瞬だけ揺れ、すぐに定まる。焦点の合わぬ瞳は、相手を見ているようでいて、何も映してはいなかった。
アシェルはゆるやかな笑みを浮かべながら、丁寧に言葉を紡いだ。
「──帝都の人々は、殿下のお噂で持ちきりですよ。
王女殿下が、陛下をお守りするために暗殺者の前へ身を投げ出された、と」
その言葉に、ミレイユの指がわずかに動く。
しかし、王女は反応しない。ほんのわずかに瞼が動いたが、まるで風が瞳の縁をかすめただけのようだった。
「とても、美しい物語です」
アシェルは、語るというより、まるで吟遊詩人が物語を紡ぐかのように言葉を紡いでいった。
「亡国の姫が、己の国を滅ぼした仇に葛藤を抱きながらも──やがてその人となりに触れ、静かに心を寄せていく」
彼の声は穏やかだった。
装飾のない語り口がかえって、場の空気を静かに染めてゆく。
「そしてついには、その皇帝のために、命を懸けて飛び出す──」
王女はまっすぐ前を見つめている。
だが、その視線の奥は霧がかかったように空白だった。
「民は語ります。あれは勇気の証だと。誰よりも勇敢な姫であり、愛に殉じる姫なのだと」
一瞬、王女の指先が、ごくかすかに動いた。
けれど本人の意思でそうしたのか、風のせいかさえ判別できぬほどの、小さな揺らぎだった。
「誰もがその物語に酔いしれています。……本当に、美しい物語ですね」
感嘆に浸るように柔らかい、アシェルの声音が続いた。
だが、その奥に──ほんのわずか、異なる香りが混じっていた。
揺れるカーテン越しに、淡い光が王女の頬を撫でていた。その表情には、何の揺らぎもない。
けれど、重ねた指先だけが、ごくわずかに力を帯びている。
ミレイユは、王女の傍らに立ったまま、その沈黙が何を孕んでいるのかを測るように、静かに気配を研ぎ澄ませている。
「でも、私は──」
アシェルはひとつ、吐息を混じえたような微笑を浮かべた。
「美しくない物語でも、いいと思いますよ」
柔らかく、囁くような声だった。
それは、誰かを否定するでもなく、ただ傍に寄り添うような響き。
王女の瞳が、ごくわずかに揺れる。
ほんの一瞬だけ、濁った湖面に落ちた雫のように。
アシェルは、あくまで緩やかな語りを続ける。
「たとえば──本当は、自分の醜い欲望に突き動かされただけだったとしても」
その言葉の端に、王女のまつげがかすかに震えた。
呼吸がひとつ、浅くなる。
胸の奥で何かが触れたように──それでも、表情は動かない。
アシェルは、その微かな揺らぎに、気づいた素振りを見せず、ただ、春の陽に溶けるような微笑を浮かべながら、言葉を継いだ。
「むしろ、私はそういう物語の方が、ずっと人間らしくて……好きかもしれません」
ミレイユの瞳が、わずかに細まる。
だがアシェルの語り口には、挑発も圧力もなかった。ただ、静かな熱を秘めたまま、彼は王女の目をまっすぐに見据えていた。
「欲というものは……そんなに恥じるべきものでしょうか、殿下」
問いかけるような声音だった。
「誰かを救うのも、愛するのも、支配するのも──突き詰めれば、すべて欲から始まる。それが、人というものだと思いませんか」
王女の指先が、ほんのわずかに重なりをずらす。本人すら気づいていないような、小さな動き。
「……ええ」
アシェルは、その微細な変化を受け取ったかのように、穏やかに頷いた。まるで、返答を聞いたかのように。
「欲というのはね」
彼は声を落とし、やさしく続ける。
「理想よりも、ずっと誠実なものですよ」
陽光がゆっくりとカーテン越しに揺れ、王女の横顔に淡い影を落とした。
その表情はほとんど動かなかった。だが、沈黙の底にわずかに波紋が広がっている──そんな気配があった。
アシェルはひと呼吸おき、視線を王女へと向けた。その眼差しは、どこまでも穏やかだった。
「……理想というのは、時に人に嘘をつかせますからね」
責めるでも、断じるでもない。
ただ、静かに“そうでしょう?”と問い直すような声音だった。
言葉がいったん途切れる。
柔らかな沈黙のあと、空気の流れがわずかに変わった。まるで、別の糸を手に取るように──アシェルの口調がほんの少しだけ現実味を帯びる。
「この帝国の中で、あなたが置かれている立場は、非常に繊細で……厄介なものだと、私は理解しています」
アシェルは少しだけ上体を傾けて、王女に身を近づける。
「たとえば……帝国に害を為す者を捕らえるためなら、殿下を“死んでも構わぬ囮”として用いることだって、きっとあるでしょう」
その瞬間、ミレイユの指がわずかに動いた。重ねた手が、ほんの一瞬、強く握られる。
アシェルの眼差しが、そちらへ微かに流れる。
唇の端に、ほとんど形を成さぬ微笑が浮かび──消えた。
「もちろん、それは陛下が、あなたを軽んじての判断ではない」
声の調子を崩さぬまま、アシェルはさらりと言葉を継いだ。
「彼は、あなたの背負うものを、共に背負おうとしている。だからきっと……苦渋の決断の上で、帝国の皇帝として、選ぶのだと私は思います」
その語り口には同情も否定もなかった。
まるで、悲劇の舞台を鑑賞する観客のように、淡々と。
「でもね、私は……そうやって、どちらも傷ついて、どちらも苦しみ続けるような物語を聞くたびに、どうにも馬鹿らしく思ってしまうのです」
王女の指が、ごくわずかに強く組み直された。
「物語の読者は胸を打たれるでしょう。涙を流し、崇高な愛に感動することでしょう。けれど──そのために、あなたが、彼が、壊れてゆく必要が、どこにあるんでしょうね?」
アシェルは微笑みを絶やさぬまま、ほんの少しだけ声の調子を落とす。
「人はよく、理想を掲げます。そして“人々の心に届く物語”を生きようとする。自分を押し殺してでも、読者を喜ばせる美しい物語を、血で紡ごうとする」
そして、ふっと笑った。
「……こんなふうに思ってしまう私だからこそ、きっと王の器ではないのでしょうけどね」
それは軽い自嘲のようでいて、芯に確かな熱を孕んだ言葉だった。
王女の横顔に、わずかな陰りが差す。
何も語らず、何も応えない。
だがその瞳の奥で、何かが軋むように揺れ始めていた。
アシェルは、ふと目を細めた。
「おや……」
淡い声が、王女の沈黙をすくう。
「言葉を選んでおられる顔だ」
王女の睫毛が、一瞬だけ震えた。
微細な揺れはすぐに収まり、表情も再び静謐を保つ。
アシェルはやわらかく笑みを深める。その笑みは、ぬるま湯のような甘さを帯びていた。
「正直になれば、楽になれますのに」
王女の唇が、微かに開きかけて──しかし、声は生まれなかった。
ミレイユの視線が、静かに王女の横顔を見つめている。
春の陽が、再び窓辺の布を透かし、部屋に淡い陰影を落とした。
アシェルは、王女の正面で微笑んだまま──
声だけを、そっと柔らかく沈める。彼女にしか聴こえない声音で。
「……殿下。“赦される場所”は、ここにはないでしょう?」
王女は動かない。
だが、その沈黙には、薄く張り詰めた硝子のような気配が宿った。
アシェルは続ける。
穏やかに、しかし逃げ場のない言葉で。
「この帝国はあなたを象徴として求める。陛下はあなたを守ろうとする。けれど──どちらも“あなたそのもの”ではない」
王女の呼吸が、ひとつ、深く乱れた。
微かに胸元が震え、指先が布の上でわずかにずれる。
アシェルはその変化を見逃さない。
しかし、そんな素振りを見せることなく──あたかも慈悲のような表情を浮かべた。
「もしも、ほんの少しでも──あなた自身が、あなたであることを赦されたいのなら。私の国なら……きっと、その痛みごと受け止められますよ」
ささやくように言葉が落ちると、しばしの沈黙が訪れた。
カーテンの向こうで風がかすかに鳴り、薄布の影が床を撫でていく。
王女は動かない。視線はどこにも焦点を結ばず、ただ、その音を聴いているようだった。
アシェルは、その静寂を壊さずに見つめていた。
まるで、彼女の沈黙そのものを、確かめるように。
やがて、わずかに息を吐く。
それは、幕を下ろすための静かな合図のようだった。
アシェルはゆっくりと立ち上がる。
その所作には一切の慌ただしさがなく、まるで余韻を楽しむような静けさがあった。
「明日、私は帝都を発ちます。……おそらく、再びお目にかかることはないでしょう」
一礼し、歩みを扉の方へと向ける。
その背は春の光を縫いながら、滑らかに影を引いた。
扉へ向かう途中──
彼はふっと立ち止まり、ゆるやかに振り返る。
金の睫毛が陽光をかすかに照り返し、その微笑には、慰めとも誘惑ともつかぬ柔らかさが宿った。
「……殿下。あなたが今抱えておられるその“痛み”は、誰かに与えられた罰などではありませんよ」
王女の指が、ごくわずかに掠れるように動いた。
アシェルは静かに続ける。
「それは、あなたが誰よりも誠実に生きようとした証です。
人はね……自分の“真実”に触れたときにしか、本当には自由になれないのです」
王女の瞳が、かすかに揺れる。
それは痛みか、拒絶か、あるいは救いを求める震えか──本人にも判別できないほど小さな揺らぎ。
アシェルは一歩だけ近づく。
踏み込みすぎない距離で、しかし逃がさない位置へ。
「私は……あなたが“真実を生きる”姿を、見てみたかった」
それは告白にも似ていた。
「ですが──それは私の“欲”ですね」
一瞬だけ浮かんだ笑みは、触れれば溶けてしまいそうなほど美しかった。
アシェルは再び軽く頭を下げ、そのまま扉の向こうへ姿を消した。
応接間には、王女の震える呼吸音が、薄く、長く、残されていた。
* * *
白い石の廊下に、靴音がふたつ。
陽の光が高窓から差し込み、床に細長い影を落としていた。
「……壊れてましたね」
沈黙のまま数歩を進んだ後、女がふっと口端を上げた。
アシェルは、唇の端に微笑を浮かべた。
「そうだね。……壊れる瞬間を、僕も見てみたかったな」
軽やかに笑う。
「いい音がしたみたいだよ」
女はくすりと笑う。
「今回は、持って帰れますかね?」
アシェルは答えず、ただ歩を進める。
高窓の外で、風が枝を揺らす音が、静かに響いた。




