3 貴公子の再訪
── 半月後 帝城・謁見の間 ──
高天井から射す春の光が、磨かれた大理石の床を淡く照らしていた。
列柱の間を渡る風はまだ冷たいが、その中にかすかな柔らかさが混じりはじめている。
玉座の壇上には、黒衣の皇帝ダリオス。
その前で礼を取る異国の姿──南洋王国第二王子、アシェル=セ・イェル。
黄金の髪が光を受けて淡く揺れ、その声は透き通るように響いた。
「──陛下。叙勲祭の折に起きた事件につき、南洋王国内で調査を進めた結果をご報告いたします。
調査の結果──貴国で捕らえられた我が国の密使は、外部からの誘導を受けていた形跡がございます」
ざわ、と廷臣たちの間に微かな息が漏れる。
アシェルはそれを意に介さず、穏やかに言葉を継いだ。
「我が国の内部にも、帝国に不満を抱く者がいたことは否定できません。しかし──それを焚きつけた者が、別にいたようなのです」
ダリオスは沈黙したまま、玉座の上からじっとその顔を見下ろしていた。
光と影の狭間で、その視線は刃のように細く冷たい。
アシェルは、持参した書簡を恭しく掲げる。
「証として、これらを持参いたしました。密使を惑わせた“偽の誘導文書”、そして、我が国の中で不穏な動きを見せた者たちの名簿でございます」
セヴランが一歩進み出て、それを受け取る。
受け取りながら、名簿の中身を見ずとも察していた。そこに並ぶのは、南洋王国の“敵”ではなく、第二王子にとって邪魔な名だろう。
セヴランの動作を見届けてから、アシェルは穏やかな微笑を浮かべた。
「どうか、陛下。帝国と南洋──我々が、互いを敵と見なすことで喜ぶ者たちの思惑に、踊らされませぬように」
言葉の余韻が、静まり返った広間に落ちた。
高窓から降り注ぐ春の陽光が、壇上の黒衣と、アシェルの金の髪を対照的に照らしていた。
その沈黙の中で、皇帝と異国の王子の視線が、静かに交わった。
セヴランが淡々と口を開く。
「──貴殿のご尽力、拝聴いたしました。南洋王国が事を重く見ておられること、理解いたしました」
声の裏に、薄氷のような冷気が漂う。
「ただし──帝国で起きた事実の責任は、消えはしません。
南洋王国が“誘導された”と弁じる以上、今後はそのような者が二度と現れぬよう、より一層の監督を願います」
アシェルの微笑は崩れなかった。
「もちろんです。陛下のご懸念、胸に刻みます」
ダリオスは短く息を吐き、ようやく声を落とす。
「……よかろう。帝国としては、今回の報告を受け取ったと記録する。ただし、次は“踊らされる側”では済まぬと思え」
その言葉の温度が、誰の耳にも明確に伝わる。
アシェルは静かに頭を垂れた。
「心得ております。──陛下のご信頼を損なわぬよう、努めましょう」
礼を終えると、金の髪が揺れ、降り注ぐ光の中で柔らかく反射した。
顔を上げたアシェルの視線が、玉座から広間へと静かに流れる。
やがて、微笑のまま、ふと口を開いた。
「ところで──先日、件の暗殺者が再び現れ、王女殿下が凶刃に晒されたと耳にしております。殿下は……ご無事なのでしょうか。本日、お姿が見えないようですが」
柔らかな問いかけ。
セヴランの表情が一瞬だけ動く。ダリオスはわずかに眉を寄せた。
(……来たな)
その言葉が、二人の中で共通して響いていた。
ダリオスが静かに応じる。
「王女は無事だ」
言い切る声は冷えた石のように揺るぎない。
「政務の場に顔を出さぬのは、もとより常のことだ。今回の件とは関係ない」
アシェルは安堵したように、胸に手を当てる仕草を見せた。
「それは何より。……であれば、後ほど、王女殿下にご挨拶申し上げてもよろしいでしょうか」
場に、わずかな緊張が走る。
その意図が、“彼女の状態を知っている上での確認”なのか、あるいは、“知らぬゆえの探り”なのか──
玉座の上と、その前とで、無言の視線が交わる。
しかし次の瞬間、アシェルがふっと微笑んだ。まるで、春風のように場の空気をすり抜ける、軽やかな笑みだった。
「……そんなに警戒なさらないでください、陛下。願わくば、王女殿下を南洋へ、と──そう思っていた時期もございましたが」
さりげなく言葉を落とし、再び軽く息を吐く。
「王女殿下が、陛下を庇うように凶刃の前に飛び出したという噂……。耳にした瞬間、私の中に芽生えかけていた願いは、儚く砕けました」
その目が、少しだけ笑う。
「ですからせめて──最後にひと目だけ。王女殿下のお顔を拝し、この淡く未熟な想いに、静かに終止符を打たせていただければ」
その声音は、控えめな優しさと、絹のような余韻をまとっていた。まるで、失恋を美徳に変える術を心得た貴公子のように。
アシェルの言葉が落ちたあと、広間を再び重たい沈黙が包んだ。
昼の光が列柱をすべり、床に長い影を描いていく。
誰も動かない。空気の温度がわずかに下がったように感じられた。
やがて、玉座の上から低い声が落ちた。
「……よかろう」
その瞬間、セヴランの肩がわずかに揺れた。信じがたいという色を隠さずにダリオスを見る。
だが、ダリオスはその視線を受けても、表情ひとつ変えない。
「後ほど、場を用意しよう」
ダリオスは玉座に身を預けたまま、静かに続けた。
「ただし──私は嫉妬深い性質でな。王女と“二人きり”というのは避けさせてもらう」
その声音は穏やかだが、深部に冷たい刃が潜む。
アシェルは、ほんの一瞬だけ目を細め、そして、心から嬉しそうに微笑んだ。
「陛下のご配慮、痛み入ります。 お心に触れぬよう、節度をもってお目にかかりましょう」
アシェルは、胸に手を置き、深く一礼した。その仕草は、失恋を美しく演じきる貴公子そのものだった。
金の髪が光を散らし、微笑の輪郭が柔らかく浮かんだ。
── 執務室 ──
重厚な扉が閉じられるやいなや、セヴランの声が鋭く響いた。
「……陛下、正気ですか」
ダリオスはゆっくりと椅子に腰を下ろし、机上の書簡を整える。
セヴランは一歩踏み出した。
「今の姫君は、人と会わせられる状態ではありません。ましてや、あのアシェル殿下になど──」
「わかっている」
低く抑えた声。ダリオスは視線を文書から離さない。
「だが、原因のわからないまま静養させていても埒が明かん。“毒”を使う者は、必ず“薬”も持っている」
ダリオスは指先で机を二度、静かに叩いた。
「あの王子が王女に何を吹き込むつもりかは知らんが、奴の言葉の中に、王女の“崩れた理由”を解く手がかりがあるかもしれん」
「まさか、そのために──」
「そうだ」
短く言い切る。
「ミレイユを同席させる。奴の口調、間の取り方、仕掛ける言葉の綾──すべてを観察させる。“毒”が何であったかがわかれば、“薬”も見つかる」
セヴランは、すぐには言葉を返さなかった。
理解はできる。だが、納得はできない──その沈黙だった。
「……理屈としては、わかります」
静かな声だった。
「こちらが何も打てずにいる以上、動く価値がある手なのも否定できません」
一拍、間を置く。
「それでも──賭けです。失えば取り返しのつかない、危険な賭けです」
「賭けでない選択肢があるなら、最初からそうしている」
ダリオスは淡々と言った。
「このまま何もしなければ、失う。……ならば、踏み込む」
その言葉が落ちて、執務室に沈黙が戻る。
セヴランは何も言わず、ただ一度、深く息を吐く。主の選択が、もはや覆らぬものであることを悟って。
部屋に残ったのは、紙の擦れる音と、冷えた春の風の気配だけだった。




