表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
108/120

2 翳りを測る者

 ── 帝城・王女の居室 ──


 薄く開かれた窓から、春のやわらかな風がわずかに入り込んでいた。

 薄布の帳が揺れ、光がゆるやかに室内を撫でていく。


 ミレイユは扉を閉め、王女の前で恭しく一礼した。

「──陛下より伝言です。しばらくは象徴としての務めも、施療院での仕事もお控えになるように。静養に専念せよ、とのことです」


 言葉が落ちてから、部屋の空気が静止した。

 王女はまっすぐ前を見つめたまま、動かない。

 焦点の合わぬその瞳は、何かを見ているようで……何も見ていなかった。


 返答を考えている気配はない。

 言葉が、まだ王女のところまで届いていない──そんな沈黙だった。


 やがて、その唇がわずかに動く。

「……わかりました」


 声の調子も、表情も変わらない。

 ただ、確かに“返答”という形式だけがそこにあった。


 ミレイユは、静かにその様子を見つめた。


 今の王女は、叙勲祭の後のように取り乱しているわけではない。むしろ、穏やかで、静かに見える。

 だが──言葉の前後に生まれる間は、逡巡によるものではなく、思考そのものが生まれないことによって生じた空白に見えた。


 かつて王女が弱っていたときは、いつも何かに思い悩んでいた。

 けれど今は違う。悩みも痛みも、まるで存在しないかのように。


 もしも感情というものが抜け落ちるということがあるなら──

 今の王女は、きっとそれなのだろう。


 そう、ミレイユに静かに思った。


 陽光が王女の頬を照らし、白い横顔に淡い影を落とす。

 その姿は、思考も感情も置き去りにしたまま、ただそこに在るだけのようだった。


 ミレイユは、ふと、あの日の光景を思い出していた。

 暗殺者捕縛の作戦が張られた、あの昼下がり。


 男の刃が自分に向かって迫り、ダリオスに庇われ、その腕の中に押し込まれた後。

 その腕の中で、ミレイユの視線はずっと王女を追っていた。


 あの日、王女は「死んでも構わない囮」として、あの場に立たされていた。


 王女が怖じ気づき、位置取りを乱すことで作戦そのものが崩れることのないように。

 ──王女を“予定された位置”に立たせ続けること。

 それが、あの日、ミレイユに課されていた役目だった。


 それは作戦の一部。命令は絶対。

 だからミレイユも、ただ任務として理解し、その場にいた。


 ただ、もし王女が死ぬのだとしても、その瞬間までの姿はきちんと見届けよう──と、理由はわからないが、不思議と思っていた。


 だから、ミレイユはずっと王女を見ていた。


 ダリオスと自分の無事を確かめて安堵の表情を浮かべる王女。

 振り返って、屋根の一端が崩れ落ちるのに気づく王女。

 そして次の瞬間──身を翻し、ダリオスへと駆け出した王女。


 王女のその行動の理由は、ミレイユにもわからなかった。

 彼女が暗殺者に敵うはずもなく、むしろ、ダリオスの戦いの邪魔になるだけだ。


 それでも、あの刹那、王女の身体から放たれた“何か”。


 それは、一年前、市場で故国の者たちを救うために、自らの喉に刃を当てて声を張り上げていたあの時と、同じものに見えた。


 命を放つような、熱。


 けれど、それは長くは続かなかった。

 王女がダリオスと暗殺者の間に立った瞬間──

 まるで風に吹き消される炎のように、跡形もなく消え去った。


 残ったのは、ただ王女自身が崩れ落ちていく気配だけだった。


 ──『姫さんは“この男”を選んだよ』


 暗殺者の言葉。


 崩れ落ちた屋根の下には、民と、それを庇うルデクの姿があった。

 だから、おそらく──あの言葉の意味は、王女が“民ではなく、ダリオスを選んだ”ということなのだろう。

 もしかすると、あの屋根の下にいた民は、王女の故国の者だったのかもしれない。


 ならば、あの男の言葉は、

 “王女が故国の民ではなく、帝国の皇帝を選んだ”という意味だったのだろう。


 ミレイユは、そこまでを冷静に推測した。

 だが、思考の途中でふと立ち止まる。


 それでも、あの時の王女は──

 そんなふうに、故国と帝国を秤にかけて“帝国を選び取った”ようには見えなかった。


 むしろ、彼女があの瞬間に選んだのは、帝国でも、ダリオスという存在でもなく、

 もっと別の、何か──もっと根源的で、もっと切実な何か。


 そこまでを言葉にしかけて──やめた。


 それは、あくまで推測に過ぎない。

 ミレイユはそう判断し、その考えを言葉にすることなく、静かに胸の奥へと沈めた。


 彼女が“選び取ったもの”がいったい何だったのか。

 そして、それを選び取った結果、なぜ今のような姿になったのか──。


 その答えを見つけられないまま、ミレイユは、虚ろな王女の顔をただ静かに見つめていた。





 ── 執務室 ──


 午前の光が南窓から差し込み、白い石壁の一面を淡く照らしていた。


 セヴランが一歩進み出る。

「──南洋王国第二王子、アシェル殿下からです」


 そう言って、一通の書簡をすっと机上へと差し出す。封蝋はすでに割られていたが、南洋王国の紋章がはっきりと刻まれている。

 ダリオスが眉をわずかに動かす。


「叙勲祭の事件について、南洋王国内で調査を行った結果を報告するため、改めて帝都を訪問したいとのことです」


 ダリオスの指が、机上を軽く叩いた。

「……このタイミングでか」


 低く落ちる声。

 空気が、わずかに揺れた。


 セヴランは頷き、続けた。

「南洋王国の“誠意”という名目でしょう。しかし──真意は別にあると見るべきかと」


「当然だ」

 ダリオスは短く言い捨てる。

「叙勲祭の件に関して、あの国が何を“洗う”必要がある。潔白を装った報告なら、代理を寄越せば済む話だ」


「そうですね。おそらく本当の目的は──カイムか、それとも王女殿下」

 セヴランの眼が細く光る。


「あるいは両方か……。どちらにせよ、厄介だな」

 ダリオスは背もたれに身を預けた。


 セヴランが静かに続けた。

「いずれにせよ、訪問を拒めば“調査報告を受け入れぬ帝国”という構図を作られかねません。外交上は、受け入れるしかない」


「……ふん」

 ダリオスは鼻を鳴らした。

「来るなら来るがいい。盤の上で何を動かすつもりか──見せてもらおう」


 封蝋の南の紋章が、陽光を受けてかすかに赤く光った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ