2 翳りを測る者
── 帝城・王女の居室 ──
薄く開かれた窓から、春のやわらかな風がわずかに入り込んでいた。
薄布の帳が揺れ、光がゆるやかに室内を撫でていく。
ミレイユは扉を閉め、王女の前で恭しく一礼した。
「──陛下より伝言です。しばらくは象徴としての務めも、施療院での仕事もお控えになるように。静養に専念せよ、とのことです」
言葉が落ちてから、部屋の空気が静止した。
王女はまっすぐ前を見つめたまま、動かない。
焦点の合わぬその瞳は、何かを見ているようで……何も見ていなかった。
返答を考えている気配はない。
言葉が、まだ王女のところまで届いていない──そんな沈黙だった。
やがて、その唇がわずかに動く。
「……わかりました」
声の調子も、表情も変わらない。
ただ、確かに“返答”という形式だけがそこにあった。
ミレイユは、静かにその様子を見つめた。
今の王女は、叙勲祭の後のように取り乱しているわけではない。むしろ、穏やかで、静かに見える。
だが──言葉の前後に生まれる間は、逡巡によるものではなく、思考そのものが生まれないことによって生じた空白に見えた。
かつて王女が弱っていたときは、いつも何かに思い悩んでいた。
けれど今は違う。悩みも痛みも、まるで存在しないかのように。
もしも感情というものが抜け落ちるということがあるなら──
今の王女は、きっとそれなのだろう。
そう、ミレイユに静かに思った。
陽光が王女の頬を照らし、白い横顔に淡い影を落とす。
その姿は、思考も感情も置き去りにしたまま、ただそこに在るだけのようだった。
ミレイユは、ふと、あの日の光景を思い出していた。
暗殺者捕縛の作戦が張られた、あの昼下がり。
男の刃が自分に向かって迫り、ダリオスに庇われ、その腕の中に押し込まれた後。
その腕の中で、ミレイユの視線はずっと王女を追っていた。
あの日、王女は「死んでも構わない囮」として、あの場に立たされていた。
王女が怖じ気づき、位置取りを乱すことで作戦そのものが崩れることのないように。
──王女を“予定された位置”に立たせ続けること。
それが、あの日、ミレイユに課されていた役目だった。
それは作戦の一部。命令は絶対。
だからミレイユも、ただ任務として理解し、その場にいた。
ただ、もし王女が死ぬのだとしても、その瞬間までの姿はきちんと見届けよう──と、理由はわからないが、不思議と思っていた。
だから、ミレイユはずっと王女を見ていた。
ダリオスと自分の無事を確かめて安堵の表情を浮かべる王女。
振り返って、屋根の一端が崩れ落ちるのに気づく王女。
そして次の瞬間──身を翻し、ダリオスへと駆け出した王女。
王女のその行動の理由は、ミレイユにもわからなかった。
彼女が暗殺者に敵うはずもなく、むしろ、ダリオスの戦いの邪魔になるだけだ。
それでも、あの刹那、王女の身体から放たれた“何か”。
それは、一年前、市場で故国の者たちを救うために、自らの喉に刃を当てて声を張り上げていたあの時と、同じものに見えた。
命を放つような、熱。
けれど、それは長くは続かなかった。
王女がダリオスと暗殺者の間に立った瞬間──
まるで風に吹き消される炎のように、跡形もなく消え去った。
残ったのは、ただ王女自身が崩れ落ちていく気配だけだった。
──『姫さんは“この男”を選んだよ』
暗殺者の言葉。
崩れ落ちた屋根の下には、民と、それを庇うルデクの姿があった。
だから、おそらく──あの言葉の意味は、王女が“民ではなく、ダリオスを選んだ”ということなのだろう。
もしかすると、あの屋根の下にいた民は、王女の故国の者だったのかもしれない。
ならば、あの男の言葉は、
“王女が故国の民ではなく、帝国の皇帝を選んだ”という意味だったのだろう。
ミレイユは、そこまでを冷静に推測した。
だが、思考の途中でふと立ち止まる。
それでも、あの時の王女は──
そんなふうに、故国と帝国を秤にかけて“帝国を選び取った”ようには見えなかった。
むしろ、彼女があの瞬間に選んだのは、帝国でも、ダリオスという存在でもなく、
もっと別の、何か──もっと根源的で、もっと切実な何か。
そこまでを言葉にしかけて──やめた。
それは、あくまで推測に過ぎない。
ミレイユはそう判断し、その考えを言葉にすることなく、静かに胸の奥へと沈めた。
彼女が“選び取ったもの”がいったい何だったのか。
そして、それを選び取った結果、なぜ今のような姿になったのか──。
その答えを見つけられないまま、ミレイユは、虚ろな王女の顔をただ静かに見つめていた。
── 執務室 ──
午前の光が南窓から差し込み、白い石壁の一面を淡く照らしていた。
セヴランが一歩進み出る。
「──南洋王国第二王子、アシェル殿下からです」
そう言って、一通の書簡をすっと机上へと差し出す。封蝋はすでに割られていたが、南洋王国の紋章がはっきりと刻まれている。
ダリオスが眉をわずかに動かす。
「叙勲祭の事件について、南洋王国内で調査を行った結果を報告するため、改めて帝都を訪問したいとのことです」
ダリオスの指が、机上を軽く叩いた。
「……このタイミングでか」
低く落ちる声。
空気が、わずかに揺れた。
セヴランは頷き、続けた。
「南洋王国の“誠意”という名目でしょう。しかし──真意は別にあると見るべきかと」
「当然だ」
ダリオスは短く言い捨てる。
「叙勲祭の件に関して、あの国が何を“洗う”必要がある。潔白を装った報告なら、代理を寄越せば済む話だ」
「そうですね。おそらく本当の目的は──カイムか、それとも王女殿下」
セヴランの眼が細く光る。
「あるいは両方か……。どちらにせよ、厄介だな」
ダリオスは背もたれに身を預けた。
セヴランが静かに続けた。
「いずれにせよ、訪問を拒めば“調査報告を受け入れぬ帝国”という構図を作られかねません。外交上は、受け入れるしかない」
「……ふん」
ダリオスは鼻を鳴らした。
「来るなら来るがいい。盤の上で何を動かすつもりか──見せてもらおう」
封蝋の南の紋章が、陽光を受けてかすかに赤く光った。




