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1 解けぬ翳り

 ── 数日後 帝城・執務室 ──


 分厚い石壁の中に、春先の陽光が斜めに差し込んでいた。

 灰色の絨毯の上には、乾いた紙の匂いが満ちている。


 ダリオスが筆を置く。

「──結局、逃がしたか」


 正面に控えるセヴランが、静かに頷く。

「はい。しかし、無為ではありません。収穫はありました」


 ダリオスの視線がわずかに上がる。促すような沈黙。


「奴の技量の“核”が、ほぼ掴めました」

 セヴランは淡々と続けた。

「跳ね刃の癖、重心の落とし方、撤退の判断。それと……王女殿下を狙う動機の質も」


 ダリオスは短く息を吐く。

「揺さぶりが本命、というわけだ」


「はい。暗殺ではなく、揺らしに来た。つまり……連中は“次”を用意している」

 セヴランは数枚の書類を静かに差し出した。

「それに──あれほどの道具を仕込めるということは、帝都内に協力者がいる。包囲網を狭められます」


 ダリオスの瞳が細くなる。

「……カイム自身の足の運びも鈍ったはずだ。脇腹の傷は浅くない」


 セヴランの口元にかすかな笑みが浮かぶ。

「ええ。それに死傷者も出なかったことで、陛下の威信は、むしろ強まりました。

 民の目には、“黒獅子”が暗殺者を退けた構図として映り、信頼が高まっているようです」


「皮肉な話だな」


 セヴランは淡々と続ける。

「さらに、奴は出血しています。傷の位置は脇腹。支援者がいなければ、長くは動けません。……帝都に潜伏している可能性が高い」


 ダリオスは静かに頷き、椅子の背にもたれた。

「ならば、巣を洗えばいい。……捕らえるのは次でいい」

「はい」


 そこで言葉は途切れ、午後の光だけが二人の間を満たす。

 互いに次の言葉を測るように、わずかな沈黙が流れた。冷えた空気の底に、言葉にならぬ思考が沈む。


 セヴランは視線を伏せたまま、一度だけ迷うように息を吸い──思考を断ち切るように声を落とした。

「姫君のご様子ですが……」


 ダリオスは、苦味を噛みしめるようにわずかに顔を歪めた。

「……あの日の直後は、多少混乱しているだけかと思った。至近距離に奴がいたのだからな」


 視線を机上に落として、筆先を弄ぶ。


「二、三日して、少し落ち着いたとミレイユが言うので、俺の部屋に呼んだ。だが……」

 そこで一度、言葉が途切れた。

「……会話にならん。まるで、こちらを見るだけで、呼吸すら忘れるようだった」


 セヴランは静かに目を伏せる。

「政務補室でも……同じです。施療院の仕事をしていただいているのですが──心ここにあらず、といったご様子で。提出書類も誤字が多い。内容が噛み合わない。……はっきり言えば、仕事になっていません。

 以前も調子の悪い時はありましたが……比べものになりません」


 石壁の内側に落ちる沈黙は、淡い陰を深めていく。


 ダリオスは短く息を吐いた。

「……原因がわからん。あの男が何かしたのだろうが」


 セヴランも、小さく頷いた。

「ええ。……何が“刺さった”のかが、まるでわかりません。死傷者は出ていない。姫君にも直接の危害はなかった」


 ダリオスは目を細めた。

 あの日の、断片的な声が脳裏をかすめる。


 ──『姫さんは、この男を選んだよ』


 “この男”というのは、あの状況的に、おそらくダリオスのことだろうが……。


「……そもそも、あの日の王女の行動が理解できん」

 ダリオスの声音が、わずかに硬さを増した。

「なぜ、いきなり俺と奴の間に飛び込んできた」


 石の冷たさが、かすかに空気を震わせる。


 セヴランも、しばし黙考するように視線を落とし──次に別の名を口にした。

「……ルデクも、不可解です」


「……ああ」

 短い返答の裏に、刺すような苛立ちが滲む。


「なぜ姫君に、あんな行動を許したのかと問えば──“民を守るのを優先していた”と」

 セヴランは淡々と告げるが、その奥には冷えた観察の色があった。


「確かに、屋根の一部が落ちてきて民を庇っていたようですが……」

 セヴランの声が少しだけ低くなる。


「人命の優先順位は民衆が上と、確かに我々は伝えていましたが──ルデクがそれを愚直に守るはずがない」


 ダリオスは僅かに顎を引いた。思考の底が、静かに揺れている。

「……あれは、何かを知っている顔だ」

「はい。明らかに、心当たりがある表情でした。ですが……頑として口を割らない」


 二人の間に、短く鋭い沈黙が落ちた。


 拷問でも何でもして口を割ってやりたい──

 そう思うが、その沈黙の理由が、王女を守るためだとわかっているから、手を下すこともできない。そもそも、王女に関して、あの男が容易く口を割るはずもない。


 二人の苛立ちが、静かに、しかし確実に募っていった。


 王女の変調。

 原因はカイムにある。

 だが、核心に触れる“何か”だけが、二人の手をすり抜けていく。


「……いずれにせよ、今のご様子では仕事になりません。ひとまず、姫君にはしばらく静養いただくのがよろしいかと」


 ダリオスは短く「ああ」とだけ返す。


 セヴランは眉根を寄せて続ける。

「ただ……休めば元に戻るのかどうか……」


 しばしの沈黙。

 そして、セヴランはぽつりと漏らすように続けた。

「……せっかく、今回の件で姫君の評判が回復してきたというのに」


 ダリオスが目を上げる。

 静かな問いを含んだ視線に、セヴランは淡々と報告を重ねた。


「王女殿下が、陛下を庇うかのように暗殺者の前に立ちはだかった──あの姿が、民衆の間で語り草になっています」


 窓外をかすめる光が、話の熱とは対照的に冷たく差し込んでいた。


「“無謀にも黒獅子を守ろうと前に出た”と、微笑ましく受け取られているようです」


 人々の間に生まれた小さな誇張が、やがて物語に変わる。その熱を帯びた声が、帝都のあちこちで交わされていた。


 ──帝都の酒場で。


「聞いたかよ、“あの姫様”が暗殺者の前に飛び出したって話!」

「あんなひよっこい姫様がなぁ」

「陛下が危ないと思って、無我夢中だったんだろうよ」


「賭けは俺の勝ちだな。あの様子じゃ、どう見たって──」

「……お熱いんだなぁ、陛下に」


 どっと笑いが起きる。

 酒の泡が弾けるたび、噂がさらに広がっていく。


 ───・・・


「さらには、貴族たちにも波及しています」

 セヴランの声が淡々と続く。

「これまで王女殿下を“陛下を揺らがす火種”と警戒していた帝権派の一部も、印象を改めつつあります」


 ──ある貴族の夜会で。


「市場の件では、どうにも危うい姫かと思っていたが……」

「まさか陛下にまで命を張るとはな。ふっ、筋が通っている」


「情を抱いた相手に一途……ということか。若いのはよいな」

「まぁ、情も行き過ぎれば問題だが……」


 くっくっと笑う声たちが落ちる。


「少なくとも、“陛下を揺るがす存在”ではなさそうだ。むしろ、尽くす側だろう」


 杯の触れ合う音が、気の緩んだ空気に溶けていく。

 柔らかい好意と、都合のいい安堵が入り混じった囁き。


 ───・・・


 セヴランは肩をすくめる。

「……王女殿下は“陛下に尽くすだろう”と。そう受け止められているようです。今回のカイムの件が由々しき事態にならなかったこともあり、姫君に対する警戒が、帝権派を中心に大きく後退しています」


 しかし、その評価の中心にいる本人が──

 今、壊れかけている。


 その矛盾だけが、執務室の冷気をさらに冷やしていくようだった。

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