18 逃げ場のない真実
── 帝都外縁・第一施療院横の広場 ──
早春の陽が翳る。
ミレイユの身体を抱え込んだまま、ダリオスは前方の様子を鋭く見据えていた。
腕の中の彼女は微動だにせず、息ひとつ乱れていない。
ミレイユのこめかみ近くを掠めた刃の軌跡を思い出しながら、ダリオスは思考を巡らせた。
(……なるほどな)
あの刃は、最初からミレイユを狙ったのではない。
俺に、庇わせるための誘い──それを見抜いた瞬間、口の奥で苦く笑う。
つまり、最初から「俺の初動を奪う」つもりだったわけだ。
巧妙だが、愚かでもある。
そんな程度のハンデで、黒獅子の牙が鈍ると思っているなら──まだ俺を知らぬ。
視界の端で、屋根板の落ちる気配。
だが一瞬の悲鳴だけで、騒ぎの気配はない。
ならば、問題はない。
すべて想定の範囲内。
──ただ一つを除いて。
(なぜ、あの女が……俺の前にいる)
ダリオスの視界に、王女の背が映る。薄い外套が、風にわずかに揺れている。
彼女は自分とカイムの間に立つ、まるで盾のように。
(……何をしている)
唇の裏で、小さく息を吐いた。
彼女が刃の線上にいる以上、迂闊には動けない。
彼女の背が小刻みに震えているのが見える。
震えは恐怖か、それとも別のものか──判別できない。
カイムの声が届く。
低く、断片的に。
内容までは掴めないが、意図だけは分かった。
──揺さぶっている。
血を流させる気配はない。
(……ならば、状況を見守るしかない。今は)
ダリオスの視線は王女の背中越しにカイムを測り続ける。
そのとき──
石畳に、異なる揺れが走った。
兵の足音が波のように広がり、陣形の輪郭を変える。
セヴランの低く鋭い号令が飛ぶ。
「──第三配置、前へ。戦場を“固定”しろ!」
「射線、確保。民を乱すな、輪を締めろ!」
兵たちが一斉に動き、王女・カイム・ダリオスを中心に、広場の一角が“戦うための円”へと再 構成されていく。
人波が吸い込まれるように後方へ退き、外側に厚い壁が築かれていく。
カイムが僅かに肩を揺らした。
「おっと……時間切れか」
その瞬間──カイムの指先が王女の肩に触れた。
押しつけるでも、掴むでもない。
ただ軽く揺らす。
王女の体勢がわずかに乱れた、その半拍。
兵の動線に、ごく細い揺らぎが生じた。
同時に、背後とは別方向で刃が跳ねるような甲高い音が弾ける。
第二の跳ね刃──攪乱だけを目的とした音。
その一瞬、王女の脇の“封鎖の結び目”が解けた。
カイムはそこへ身を滑り込ませる。
動いたのは、その刹那。
ダリオスは腕の中のミレイユを離し、素早く身を起こした。
倒れかけた王女の肩を支え、わずかに押し返して体勢を立て直させる。
その動きの流れのまま、視線を鋭く走らせた。
重心を切り替えるように、足が地を蹴った。
反転する一歩は低く、滑るように前へ。
踏み込みの勢いが、そのまま斬撃の線へとつながる。
斜め下から振り上げた剣が、空気を裂いた。
手応え。
血が散る。
「っ……!」
カイムの身体が、わずかに崩れた。
脇腹を押さえる指の隙間から、赤が滴る。
「ははっ……。ほんと、舞台映えしすぎだろ」
痛みの中で、それでもどこか愉しげだった。笑いながらも、瞳の奥は氷のように冷たい。
「……“黒獅子”の名は伊達じゃないってか。けどな──俺の方が、退場のタイミングは心得てるんでね」
次の瞬間、小瓶を指先で潰す音。
白煙が弾け、兵の視界が割れた。
「──また次の幕で会おうぜ、陛下」
その言葉だけを残し、カイムの影は煙の中に消えた。
同時に近くで、何かが燃え爆ぜた。火の粉が飛び、群衆の悲鳴が広がる。
セヴランの声が飛ぶ。
「避難を優先しろ! 子どもを抱えている者を先に!」
その一言で、兵たちが即座に動きを切り替えた。
人々の避難誘導へと走り出す。
ダリオスは立ち尽くす王女の元に大股で近づき、両肩に手を置いた。
女の瞳は焦点を失い、唇は言葉を結べないまま。
* * *
──石畳に、足音と叫びが交錯していた。
遠くで兵たちの声が響く。
怒号、命令、人のざわめき。
それらが風に乗って混ざり合い、どこか遠い世界の音のように王女の耳へ届く。
すぐ側で──声が落ちた。
ひどく近く、ひどく静かに。
「ほら、守ってもらいなよ。姫さんの大好きな──帝国の陛下に」
吐息が耳に触れた。
冷たい。
身体の芯が、冷たい指でなぞられたように震えた。
次の瞬間、肩に軽い衝撃。
トン、と押された感触。
続いて、ぐっと力強い腕の力に支えられる。
その力の方に視線をやれば、見慣れた黒衣の大きな背中。
安堵が、反射のように体中へ広がろうとして──
その安堵の色に、王女は愕然とした。
(違う……違う……そんなはず……)
心が叫ぶ。
けれど、その声は胸の奥で空転した。
さっき、自分は──
走った。
迷いもなく。
考えもなく。
ただ、この男の方へ。
(故国の民を……助けようとしたはずなのに)
頭の奥で軋むような痛みが走る。
言葉が崩れ、思考が形にならない。
走った自分の足音だけが、今になって遅れて響いてくる。
──私が守りたかったのは、誰?
──私は……何?
「っ──」
声にならない息が漏れた、その刹那。
目の前で、血が飛んだ。
ダリオスの刃が、故国の男を切り裂いた。
石畳に散るのは、何度もよぎったダリオスの血ではなく、
故国の男の血。
その事実に、思わず安堵する心。
男の身体が、わずかに後ろへ揺れる。
その表情は痛みよりも、むしろ愉快そうで──
笑っていた。
まるで──
王女の醜い心を見透かして嘲笑うかのように。
そして、血を引きずるようにして、煙の中へと姿が消えた。
残ったのは、
血の匂いと、早春の風と、
肩に置かれた手のひらの温もり。
その確かな温もりを感じた瞬間、胸の奥で、別の何かが震えた。
(……ああ……そうだ……)
理解してしまう。
本当は、ずっと前から知っていたのだ。
この男こそが、自分を守り、生かし、この世界の中で自分の輪郭を与えてくれる存在だということを。
厳しく斬り捨てる手のひらで、同時に、誰よりも王女の心を“在るもの”として扱ってくれる存在だということを。
この男に認められるだけで、自分が“ここにいていい”と感じられることを。
(……違う……そんなはず……)
否定は弱々しく、もはや形をなしていない。
──かつて、故国の滅亡を祝する宴に立つことを命じられた夜。
『故国の民のために生きるのが私の務めです』
確かに自分の声を放ったと感じた、あの誇り。
けれど今──
その“民”を見捨てて、
ただ一人の男のもとへ走った自分がいる。
あのとき誇りとして掲げた言葉が、今や自分の中のどこにも触れない。
その響きは、自分の何ひとつを支えていない事実に気がつく。
──『“民のための姫”でいたいだけで、本当のところは、誰の顔も浮かばなかったろ?』
王女は理解する。
自分が走ったのは──
故国のためでも、務めのためでもなく、
……この男のためですらなく。
ただ、
“自分の生を支える存在を失いたくない”──その欲望のためだけだったのだと。
──『嘘を守るの、もう疲れたでしょ?』
胸の底が裂けたように痛む。
誇りでも、優しさでも、正しさでもない。
もっと原始的で、抗えなくて、ひどく醜い……生の中心。
「……大丈夫か」
低く響く声。
その音に、世界が形を持って揺れた。
王女の肩を両手で掴み、
ダリオスがその瞳でまっすぐに確かめるように見つめてくる。
王女の身体がわずかに震えた。
この瞳を受け入れてしまえば、王女という存在の“中心”にこの男がいることを──もう二度と誤魔化せない。
ダリオスの手が、支え直すように、ほんの少しだけ肩を引き寄せた。
その瞬間。
胸の奥の何かが反射のように弾け、王女はダリオスの胸を──どん、と突き放した。
拒絶したのは、
彼ではなく、彼の存在に支えられて生きてきた自分自身。
力は弱い。
皇帝の体は一歩も動かない。
だが、王女の両手だけが震え、拒絶の形を残していた。
ダリオスの眉がわずかに動いた。
予想外の反応に、彼はほんの一瞬、息を呑んだように見えた。怪訝な光が黒い瞳に宿る。
だが、王女の手はまだ、突き放した形のまま震えていた。
その震えは、
“剥き出しの自分”を受け止めきれないまま、壊れていく心の音そのものだった──。




