17 暴かれる嘘
── 帝都外縁・第一施療院横の広場 ──
ダリオスの視線が周囲を掠める。
まだカイムの動きはない──。
(……少し王女を動かすか)
王女へ指示を伝えるため、手元でわずかに指を動かし、王女の近くに控えるミレイユへ合図を送る。
ミレイユが静かに頷き、歩み出した──その瞬間だった。
空気が裂けた。
ひゅ、と乾いた音。
何かが陽を弾いて跳ねた。
(……刃──)
ミレイユが反射で身をひねる。
だが、間に合わない。
鋭い光が、一直線に彼女のこめかみを目がけて迫る。
刃が光の中で跳ねた瞬間、
ダリオスの体は、もう前へ踏み出していた。
考えるより早く、軌道が線として視界に浮かぶ。
「──下がれ!」
セヴランの声が響くか否かの刹那、
金属音が弾けた。ダリオスの手甲が刃を受け止め、散った火花が陽光に溶ける。
(跳ね刃……)
初撃で位置を悟らせぬつもりか。
ならば、次が来る。
ダリオスはミレイユの腕を掴み、彼女の身体を自分の懐へ引き寄せた。
「伏せろ」
守るためではない。
地を取れば、次の刃の角度を“必ず”刈り取れる。
ダリオスはそのままミレイユを包みこむようにして身をかがめ、二人分の体重を地へ預けた。
(……なぜ、王女ではなくミレイユを?)
地に伏せながら、脳裏を疑念が掠める。
狙いを外したのではない。あの精度なら、“わざと”だ。
群衆の悲鳴が遅れて広がっていく。
セヴランの声が鋭く飛ぶ。
「──第一列、包囲、閉じろ!」
命令を放ちながら、視線を王女へ走らせる。
立ち位置は変わらず、姿勢も崩れていない──象徴としての形を保っている。
セヴランの眉間に一瞬の影が走った。
(……なぜミレイユだ? 象徴を狙う好機で、なぜ侍女を?)
囮を逸らすためか、それとも──別の意図。
思考を軋ませながらも、次々と指令を畳みかける。
「第二列、飛来方向を絞れ。反対側は切れ!」
「不審の動きは即制圧、逃がすな!」
兵たちは弾かれたように動き出し、混乱し始めた民衆を押しとどめながら、迅速に通路をつくり、ダリオスの周囲に厚い防壁を形成していく。
* * *
鋭い刃がミレイユを目がけて飛んだ瞬間、
王女の呼吸が凍りついた。
声を上げることもできず、ただ、その軌跡を目で追うことしかできない。
(…………!)
次の瞬間──
黒い外套が動き、閃きが弾かれた。
ダリオスが刃を叩き落とし、ミレイユを抱き寄せて地に伏せる。
息が戻る。
無事な二人の姿を目にして、胸の奥でほっと息が漏れた。
だが、その安堵の直後。
王女の眉がわずかに寄る。
──ダリオスが、ミレイユを庇ったまま動かない。
伏せた体勢のまま、片腕でミレイユを覆い込むようにしている。
その姿は、まるで自らを盾にしているように見えた。
(……あれでは、次の刃が来たら──)
胸の奥に、小さな不安が灯る。
そのとき──
乾いた音が、空気を割った。
メリ、と何かが軋む音。
振り返ると、屋台の屋根の一端がひび割れ、次の瞬間、崩れかけた板が軋みながら傾く。
息を飲む。
落下の先──
そこには、さきほど言葉を交わした故国の女と、手をつなぐ子ども。
(危ない……!)
咄嗟に足が前へ出かける。
その刹那──すぐ横を、黒い影が掠めた。
風を切る音。
影は王女の横をすり抜け、一直線に──ダリオスの元へ。
──体勢の崩れたダリオスの元へ。
その瞬間、王女の脳裏を不吉な光景が閃光のように貫いた。
刃が閃き、鮮血が飛び散る。
石畳に流れる紅。
胸を貫かれ、ゆっくりと崩れ落ちていく──黒衣の影。
胸の奥で、何かがはじけた。
恐怖というより、もっと原始的な衝動。
冷たい血が一気に逆流し、指先まで熱くなる。
視界が狭まる。
距離も、声も、何もかもが遠のく。
言葉にならない。
思考でもない。
理解ですらない。
“ダリオスが死ぬ”という未来だけが、あまりにも鮮やかに脳裏に映っていた。
次の瞬間──
王女の身体は、自分の意思よりも先に動いていた。
石畳を蹴り、外套を翻し、身体が勝手にダリオスへ走る。
屋根板の落ちる音が聞こえた気がした。
故国の女の叫びが聞こえた気がした。
けれど──
ただ、彼の姿だけを見ていた。
足がもつれそうになるほどの速度で。
冷たい空気を切り裂きながら。
心臓の音以外、何も聞こえない。
そして、王女が飛び込んだその瞬間。
疾走していた影が、ぴたりと動きを止めた。
衣の裾が風に揺れ、
刃の先が、王女の頬のわずか手前で静止する。
空気が凍りつく。
そして、笑い声。
「……へぇ」
低く、愉快そうに。
「走るんだ、こっちへ」
目の前で、金色の瞳が光る。
「いやぁ姫さん、面白いねぇ。故国の民じゃなくて、帝国の黒獅子か」
王女の肺が小刻みに震える。
自分が何をしたのかも、どうしてそう動いたのかも、まだ理解が追いつかない。
「あははっ……姫さん、覚えてる? “故国の民のために生きるのが務め”って、言ってたよねぇ?」
刃の先が光を拾い、彼の笑みが歪む。
「で、今日の姫さんの務めは──なんだったんだろう?」
王女の中で、何かがずるりと剥がれる音がした。
声を発しようとしても、喉の奥で何かが絡まって動かない。
カイムの金の瞳が、獲物を見下ろすように細められる。
唇がゆるく歪み、そこから零れた声は、囁きに近かった。
「──姫さんさ、ずっと怖かったろ?」
刃がほんのわずかに傾き、頬の肌を掠める。
血は出ない。ただ、冷たい金属の感触が、心の奥まで突き刺さった。
「自分が、故国の民を選べるのか──」
王女の喉が鳴る。息を吸おうとしても、空気が入らない。
「でも、ほら。
本当はとっくに答えが出てたんだ。迷わなかったもんね。ぜんっぜん」
金の瞳が細められ、笑みの端が吊り上がる。
「──答えがわかって、よかったね」
カイムはゆっくりと顔を上げ、周囲を見回した。
「観客のみんな、見た? 姫さんは“この男”を選んだよ」
その瞬間、
王女の視界の端に、かすかな動きが見えた。
──ガラリ、と崩れ落ちた屋根板の影。
ルデクがいた。
崩れ落ちた板から母子を庇いながら、荒い息のままこちらを見ていた。
目が合う。
その瞳の奥には、驚きでも非難でもない。
ただ──計りかねる何か。
理解と痛みのあいだに揺らぐ、複雑な色があった。
王女の喉がかすかに鳴る。
「……違うの……」
言葉が零れた。けれど、音にならない。
カイムが、刃の角度をわずかに変え、頬をなぞる光が揺れた。
その気配が、さらに近づいた気がした。
「裏切り者ってさ──こうやって出来上がるんだねぇ」
肩をすくめ、朗らかに続ける。
「ほら、みんなに教えてあげなよ。“助けられたのはどっちもだった”って」
王女は、ただ唇を震えさせるしかなかった。
カイムの笑いが低く沈み、絡みつくように落ちてくる。
「姫さんさ、“故国の民に申し訳ない”って顔するの、ほんと上手いよねぇ?
でもさ。本当に申し訳ないって思ってたら──迷うよね? ほんの一瞬でも」
その笑みのまま、瞳だけが細くなる。
「罪悪感っていう“衣装”を着てると、自分のこと許せちゃうんだよね。本気で罪を背負ってなんか、いないくせに」
その言葉が、王女の胸の奥で鋭く弾けた。
砕けた破片が内側に降り積もるようで、息ができない。人々の声が遠のき、鼓動だけが耳の奥で響く。
その瞬間、耳元に低い息が触れた。
「……ねぇ、姫さん」
囁きは、先ほどの嘲笑よりもずっと静かで、残酷だった。
「“民のための姫”でいたいだけで──本当のところは、民の顔なんて誰も浮かばなかったろ?」
吐息がかすかに肌を撫でる。
「大丈夫。──“中身のないきれいごと”だったってことは、俺がちゃんと知っててあげる」
血の気が引く。足元がわずかに揺れる。
「嘘を守るの、もう疲れたでしょ?」
王女の指先から力が抜けていく。声にならない息が漏れる。
(……やめて……)
けれど声は外に出ない。
カイムは王女の表情を覗き込んで、満足げに微笑む。
「……あぁ、たまらないなぁ。“壊れる寸前の音”って、こういう顔から響くんだ」
王女の視界が白く滲む。
遠くで誰かの叫ぶ声、兵の駆ける音。だが、すべてが溶け、消えていった。
ただひとつ──
胸の奥で、自分の心が崩れる音だけが、確かに響いていた。




