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13 策の狭間に潜むもの

 ── 帝城・執務室 ──


「視察の場に、あの暗殺者をおびき出す。そして捕える。……民の目の前で、確実にな」


 放たれたダリオスの言葉に、王女は視線を伏せて、薄く唇を噛んだ。

 胸の内に、重い霞のような不安が燻る。


「……もし、また──あの時のようなことが起きたら……」

 かすれた声で、王女が口を開いた。


 セヴランが、一歩進み出る。声は静かだが、状況を見据える明晰さを帯びていた。

「姫君のご懸念は、ごもっともです。ですが今回は──叙勲祭の時と同じではありません」


 王女は小さく息を吸い、セヴランへ視線を向ける。


「暗殺者の人となりは、あの時より把握できています。

 彼が何に反応し、どんな状況を好むのか。こちらもそれを前提に、防御態勢を築くことができます」


 セヴランの瞳がわずかに細められた。


「……彼の目的は、おそらく“象徴”を汚すことにあります。

 陛下、そしてその隣に立つ殿下──その姿を、できるだけ多くの民の前で貶める。それが、彼にとっての“意味”なのでしょう」


 王女は喉奥がつまるのを感じた。

「……だから、民の前に私たちが姿を現す必要があると?」


 セヴランは小さく頷き、慎重に言葉を選ぶ。

「はい。あの男が動くとすれば、その条件に近い場を狙う可能性が高い。逆に言えば、そこをこちらが把握していれば、備えようがあります」


 抑制の効いた声。


「とはいえ、視察の場は、叙勲祭のように式次第が固まっているわけではありません。陛下と殿下の動線は、状況に応じて変わりやすい。そのぶん、護衛の布陣には“揺らぎ”が生じる可能性があります」


 王女の眉がかすかに寄る。

 セヴランは静かに頭を下げた。


「ゆえに、こうして事前に姫君にお伝えしているのです。

 陛下、殿下、そして民衆──すべての安全を確保するため、どの位置で、どう動くべきか。どこに留まり、どこを避けるべきか。……そのすり合わせを、入念にしておきたい」


 ダリオスとセヴラン──二人の視線が、王女をまっすぐに見据えていた。

 そこには、彼女を“共に戦う存在”として迎え入れる、確かな意志があった。


 胸の奥で、微かな痛みが広がる。

(──あの影とダリオスが刃を交えるかもしれない)

 その光景を思うだけで、体の奥が冷たくなる。


 もし、この争いを避けられるのなら──。

 何度も考えてきた、自分が南洋へ嫁ぐという選択肢。


 けれど、ふとユリオの笑顔と声が蘇る。

 ──『施療院や炊き出しの場で、殿下と直接お会いした者たちは皆、“殿下が南洋王国へ行ってしまわれたら寂しい”と、そう言っています』

 ──『もう少しすれば、また殿下に施療院へお越しいただけるようになるのではないかと、思っております』


 この地で、自分が築いてきた小さな絆と仕事。


 帝国を離れれば、ダリオスと影が刃を交える場面は避けられるかもしれない。

 けれど同時に、自分はもう二度と、この地で施療院の仕事に向き合うことはできない。


 もし自分がこの地を離れず、もう一度ここで人と向き合い、

 施療院の仕事に堂々と戻れる方法があるのなら──。


 王女は、無意識に視線を落とした。


 怖れは消えない。

 影も、ダリオスという存在も、どれひとつとして軽くはならない。

 それでも──逃げるのではなく、立ち向かうことで、自分の未来を掴めるのなら。


 沈黙の中で、ミレイユが微かに視線を動かした。

 何も言わず、ただ王女の決断を見届けようとしているようだった。


 王女はゆっくりと顔を上げた。

「……民の安全は、確保されるのですね」

 念を押すような問いだった。


 セヴランは一拍置いてから、静かに言った。

「完全とは申し上げられません。ですが、民を危険に晒す策は、我々の選択肢にはありません」


 王女は両手をそっと重ね、静かに言った。

「……わかりました」

 一瞬の間を置いて、続ける。

「立ちます」


 その声音は震えていなかった。

 受け入れる覚悟を、自らの言葉に落とし込むような響きだった。


 その言葉を受け、セヴランは短く頷く。

 そして、王女の横顔に視線を向けたまま──胸の奥に、別の光景がふとひらく。


 ──先日、ダリオスからこの策を聞かされた時のこと。


 “暗殺者を、視察の場に誘い出す”


 蝋火の下で落とされたその言葉を聞いた瞬間、セヴランはしばし口を閉ざした。

 計算が胸の内を駆け、可能性と危険を並べ上げ、優先すべき順序を静かに確かめる。

 短い沈黙──だが、その奥には重い判断がひとつ形を取っていた。


 そして、ようやく口を開いた。

「……理にはかなっています。ですが──条件があります」


 ダリオスの瞳が静かに上がる。

 セヴランは言葉を繋いだ。


「最悪の場合、王女殿下は見殺しにすること。優先順位は──陛下の命、その次が民の命です」


 蝋燭の炎がわずかに揺れた。

 重い言葉だったが、声には迷いがなかった。


「どれほど事前に構築しても、当日、状況のすべてを読み切ることはできません。そして、叙勲祭の時とは違い、今の殿下は“災いを呼ぶ姫”と囁かれる存在です」


 ダリオスは黙って聞いていた。


「再び民の命が奪われた場合、帝国の芯にひびが入る。対して、もし殿下が暗殺者に命を奪われたとしても──民衆はそれを“浄化”として受け入れるかもしれない。……いいえ、そう受け入れられるように仕向けるべきです」


 その言葉は冷酷に響いたが、そこには国家を守る者の確信があった。

 セヴランは続ける。


「それが、帝国の根幹を揺るがさないための最低条件です。

 もしこの条件が受け入れられないのなら──この策は撤回し、殿下を南洋王国に下賜する方策に転換を」


 静寂。

 石壁の冷気が、二人の間を切り裂くように漂った。


 セヴランが提示したのは、二つの道。


 ひとつは──王女の命を危険に晒しながらも、

 成功すれば“生きる道”を拓く策。


 もうひとつは──王女の命を守りながら、

 その心を“死なせる”策。


 ダリオスは沈黙の中でセヴランを見つめ、しばし動かなかった。

 その瞳の奥では、何かを計る思考の光がゆるやかに動いていた。


 やがて──


「……いいだろう」


 静かな炎を瞳の奥に宿した声が、低く落ちた。


 ───・・・


 セヴランは現在へと意識を戻す。

 目の前には、あの時と変わらぬ皇帝の表情。

 そして、策を受け入れた王女の姿。


 ダリオスは、淡々と王女に言葉を向ける。

「暗殺者は……無辜の民を殺し、お前の命を狙い、帝国を揺るがそうとする者だ」


 静かに、だが確実に響く声。

 どの言葉も、感情の余地を許さぬように整えられていた。


「奴はお前の故国の者だが、捕らえて情報を吐かせたとしても……命を助けることはできぬ」


 南窓からの光が、机上の書簡をかすかに照らした。その白い反射が、彼の横顔の輪郭を鋭く際立たせる。


「そのことは──今ここで、受け入れておけ」


 冷たくはあるが、それは突き放すためではなかった。戦場に立つ者が、現実の重みを先に示すような声音だった。


 王女は唇を噛み、うつむいた。沈黙が一度、部屋を満たす。

 やがて、ためらいがちに声を発した。


「……なぜ、あの者は……私を狙うのですか」


 掠れるような問いだった。


「彼は……私の王家が抱えていた暗殺者だったと聞きました。それと……何か関係があるのですか?」


 ダリオスは短く息を吸い、答えを探すように視線を伏せた。

 しばしの沈黙。

 重い思考の底で、言葉を選び取る。


「……本当の理由は、捕らえて吐かせぬ限り、俺にもわからん」


 短い言葉のあと、再び沈黙が落ちる。

 その沈黙は、ただの思考ではなく──伝えるか否かを測る間だった。


 長い呼吸のあと、彼は意を決したように口を開く。

「ただ……お前を亡き者にしたいと考える者は、この世界には少なくない」


 王女がゆっくりと顔を上げる。


 ──そういう者がいるだろうことは、理解していた。

 けれど、実際にその現実を口にされると、胸の奥にひやりとした痛みが走る。

 なぜ自分が、そこまでして消されなければならないのか。その理由が、掴めないままに。


 ダリオスはその視線を受け止めたまま、静かに続けた。

「それは、恨みや憎しみだけが理由ではない。“政治的に”──お前の存在が邪魔になる者たちもいる」


 短く間を置き、ダリオスは淡々と言葉を継ぐ。


「そういった者たちの指示のもとに、あの暗殺者が動いている可能性もある。お前の命そのものより、“象徴としてのお前”を断つことが目的でな」


 王女の胸の奥が、かすかに疼いた。

 “自分”ではなく、“象徴”──

 その言葉が、静かに心の底へ沈んでいく。


 ダリオスの声は冷たくも穏やかで、現実という名の刃を、彼自身の手でそっと彼女の前に置くようだった。


「……だからこそ、確かめねばならん。何者が影を操り、どこから風が吹いているのかを」


 冬の陽光が石壁を撫で、淡い反射が彼の影をわずかに揺らした。

 その姿は、冷徹さと静かな意志を宿す“帝国の刃”のように見えた。


 一度、言葉を切る。

 机上の書簡に視線を落とし、わずかに呼吸を整えてから、再び口を開いた。


「……とはいえ、暗殺者のことも少しばかりは知っておいた方がいいだろう」


 ダリオスは、低く落ち着いた声で語り始めた。


「“千年王家の影”──お前の王家が代々抱えてきた暗殺者だ。人並み外れた能力を持ち、王家が千年続いてきた裏には、その者たちが密かに動き、王家にとって都合の悪い者たちを闇に葬ってきたことがあるとも言われている」


 言葉の響きには、遠いものを語るような静けさがあった。


「ただ、それはあくまで噂の域を出ない、半ば伝説のようなものだった。……俺も、今回のことがあるまでは、半分は信じていなかった」


 王女の胸の奥に、冷たい波紋が広がる。

 アシェルが語ったことと同じ。本当にそんな影が存在したという現実。

 そして、当の自分だけが知らなかったという現実──

 その現実を、まだ心が受け止めきれずにいる。


 ダリオスは淡々と続けた。

「俺が“王家の影”について知っているのは、この程度だ。……直接面識のある者の話を聞くのが一番だろう」


 言葉が落ちると、短い沈黙が室内を満たした。光の差し込む音さえ聞こえそうな静けさ。

 ダリオスは視線をゆるやかに扉の方へ向ける。


「──入れ」


 低い声が石壁に響いた。

 その一言が、空気の奥底にまで沈んでいく。


 わずかな間を置いて、重い扉が音を立てて開く。

 王女は反射的に振り返った。


 そこに立っていたのは──

 腰近くまで伸びる柔らかな栗色の髪を、後ろで緩やかに束ねた男。


 王女の唇から小さく息が漏れた。

「……ルデク……」


 胸の奥に、淡い波紋が広がる。

 その揺らぎが、これから訪れる何の前触れであるのか──彼女は、まだわからなかった。

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