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12 風の噂、刃の策

── 帝城・応接の小間 ──


薄い陽光が白壁を撫で、静かな空気が満ちていた。

報告書の束を抱えたユリオが一礼し、王女の前に姿を見せる。


「……旧都から、ご無事でお戻りになられて何よりです、殿下」


王女は静かに頷き、椅子に勧める仕草をした。


「ありがとう、ユリオ。あなたも変わりなかった?」

「ええ」


そのあと、言葉が少し途切れる。

ユリオは視線を落とし、指先で書類の端をそっと揃えた。


「あ、その……」


まなざしがふと揺れる。

「――しばらくは、帝都にお戻りのまま……ですか?」

少し迷うような声音だった。


「えぇ。しばらくも何も……」

王女は小首を傾げる。

自分は基本、ずっと帝都にいるのに――

「なぜ、そんなことを?」


ユリオは慌てて目を伏せた。

「い、いえ……ただ、少し噂話を耳にしたもので……」

「噂?」

問い返すと、ユリオはさらに慌てて首を振った。

「いえ、殿下のお耳に入れるようなものでは――」


困惑と恐縮が入り混じり、彼は報告書を握りしめたまま視線を泳がせる。

その挙動が、逆に“言いにくい内容”であることを露わにしていた。


王女は凶星の話を思い出す。

人々の間で囁かれながら、自分だけが知らなった。


静かに首を横に振る。

「いいえ。民の間で流れていることなら、知っておくべきだわ。……どうか、話して」


ユリオは口をつぐみ、しばらく逡巡した。

眉を寄せ、何度か言葉を探し――やがて観念したように、深く頭を垂れる。

「……本当に、不敬極まりない話で……申し訳ありません。……ですが、殿下がそうお望みなら」


王女は黙って頷いた。


ユリオは少しだけ顔を上げ、慎重に言葉の置き場所を選びながら話し始める。

「市中で……殿下が、南洋王国に嫁がれるのではないか、という噂が広まっております」


王女は息をのみ、小さく目を瞬いた。

「……嫁ぐ? 私が……?」


ユリオは続けた。

「南洋王国の第二王子殿下が滞在中、市中へ何度かお出かけになったらしく……そのご容姿や立ち居振る舞いが評判になりまして」


王女は黙って耳を傾ける。

ユリオは、少し気まずげに視線を逸らした。

「そんな方でしたので、“なぜ帝都へ?”という噂が飛び交って……そこへ“どうやら王女殿下への求婚らしい”という話が混ざったんです」


王女の胸が、ごくわずかに軋む。


ユリオの胸の奥に、帝都のざわめきがよみがえる。


――『王女は既に黒獅子のものだろう?』

――『いや、まだ正式な妃ではないから、南洋に嫁ぐ方が“筋”ってものじゃないか』

――『お偉方の事情なら、まぁ……どちらにも転ぶだろうよ』


ユリオはその記憶を押し込めるように、息を整え、言葉をつないだ。

「……王子殿下が帰国されたあとも、噂は収まらず、

 “今回はただの申し入れで、これから準備が進むのではないか”といった声が、一部では……」


そこまで言って、ユリオは深く頭を下げた。

「本当に……殿下のお耳を汚す話で、申し訳ありません」


ユリオの言葉が途切れると、短い沈黙が落ちた。


王女は視線を伏せる。

胸の内に落ちた言葉は軽くはなかったが、重すぎる痛みでもなかった。

ただ――静かに、考えを巡らす。


(“どちら”なのだろう……?)


民たちが王族や貴族についてささやく噂というのは、たいていが誰かの意図によって形を変え、流されるものだ。

政の外で守られてきた王女でも、その程度のことは知っている。


だからこそ、今回の噂の出どころも、自然に湧いたものではないのでは――と、思ってしまう。


(アシェル殿下が……? それとも……陛下が……?)


南洋の王子であるならば、“まだ自分を諦めていない”ということになる。


一方で、もしダリオスが意図したのだとしたら――


(……私を“手放してもいい”と、そうお考えなのかしら)


胸の奥が、かすかに揺れた。

痛みとも不安とも違う、名のつかぬ感覚。


どちらであっても、軽い意味ではない。

けれど、そこから明確な答えを導き出せるほどには、宮廷を動かす思惑というものは、彼女の手のひらにはまだ載らない。


ただ、その二つの可能性だけが、小さな影のように胸の底へ静かに沈んでいった。


ユリオは一通りの話を終えると、ふっと小さく息を吐き、どこか安堵したように言った。

「……やはり、この話は根も葉もない噂でしたか」


王女は静かに首を振りながら言った。

「少なくとも、陛下からは……何も聞かされておりません」


その答えに、ユリオの表情がわずかに明るくなる。

「……そうでしたか。よかった……」


胸の奥で何かがほどけたように、彼は小さく笑みを滲ませた。


「施療院や炊き出しの場で、殿下と直接お会いした者たちは、皆……

 “殿下が南洋王国へ行ってしまわれたら寂しい”と、そう言っています」


王女は驚きに目を瞬いた。

ユリオは視線を下げ、続ける。


「叙勲祭の後……殿下にまつわる暗い噂も流れていましたが……

 あれから何事もなく、もう三か月が経ちました。

 民の噂って……そんなものなんです。

 良い話も悪い話も、次の風が吹けばすぐ流れていくんですよ」


言葉には、施療院の現場で日々人々と向き合う者らしい実感が宿っていた。

ユリオはそっと書類の束を抱え直し、王女をまっすぐに見つめる。


「だから……こうして、今日は自分が報告に上がっておりますけれど……

 もう少しすれば、また殿下に施療院へお越しいただけるようになるのではないかと、思っております」


言って、ユリオは小さく微笑んだ。

それは、不安の色をまだ少し残しながらも、

王女の“居場所”が、たしかに人々の中に芽吹き始めていることを信じる者の笑みだった。


王女は静かに息を吸い、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。




 * * *




施療院の近況についての報告が一通り終わり、室内に静かな間が生まれた。

ユリオは報告書を閉じ、ひと息ついたあと、ふと思い出したように顔を上げた。

「……そういえば、殿下。旧都の視察は、いかがでしたか?」


王女は、旧都の光景をそっと思い返す。

まぶたの裏に、あの街の空気が浮かぶ。

「なんだか帝都とは、雰囲気も、時間の流れも違っていました。どこか……ゆったり、おっとりしていて……」


ユリオは「あぁ」と笑みを漏らす。

「旧都に行ってきた知り合いたちも、そんなことをよく言いますよ。

 口の悪い知り合いなんかだと――『旧都の奴らは気取ってやがる』なんて言ったりもしますが」


苦笑混じりの率直な声に、王女は思わず目を瞬いた。


(……そうなのだわ)


王女は胸の奥で小さく思う。

街の空気というのは、こんなふうに人を通して伝わるのだと。


「どうしましたか? 殿下」

「いえ……」


王女は少し考え、言葉を整えた。

「旧都で、こう言われたのです。

 “帝都はまだ新しいから、人の繋がりも少なくて助け合う余裕がない。だから施療院の仕組みが相性がいいのだ”と」


ユリオは瞬いた。王女は続ける。

「けれど……私から見ると、決して帝都の人々に繋がりがないわけでもなくて。ユリオのお話に出てくるような、軽口を言い合っている方々も、よく見かけました。確かに旧都の方々とは……雰囲気が、どこか違うようには思いますけれど」


ユリオは「ああ」と目を細めて笑った。

「そうですね……。昔は、右を見ても左を見ても、自分のことで手一杯で、軽口なんて言い合う余裕もなかった町でした」

遠くを見るように言い、そしてふっと表情を和らげる。

「でも、少しずつ余裕も生まれてきますし……人同士ですから、やっぱり小さな助け合いもあるし、軽口を叩き合う仲もできていくんですよ」


最後に、ユリオは肩を竦めて微笑んだ。

「まぁ、確かに旧都の人間が帝都に来ると――帝都の民たちの軽口が“喧嘩にしか聞こえない”なんて話も聞きますけど」


王女は思わず、小さく笑った。

その笑みは、ひどく自然なものだった。


帝都と旧都。

異なる風の中で生きている人々が、それでも同じ“人”として息づいている。


土が違えば、根の伸び方も違う。

けれど、時を重ねれば、それぞれの地にも枝葉が生まれ、人と人の間に新しい結びつきが芽吹いていく。


ユリオの穏やかな声は、そのことを――静かに教えてくれている気がした。


王女の胸の奥に、かすかな温もりが灯る。

理由はわからない。けれど今、何かがほんの少し、柔らかくほどけていくのを感じた。





── 数日後 執務室 ──


深灰の絨毯の上に、冬の光が斜めに落ちていた。

机上には書簡の束が積まれ、乾いた紙と墨の匂いが淡く漂う。


机の向こうにダリオスが座し、脇にはセヴランが控えている。

部屋の隅ではミレイユが静かに待機し、王女を見守っていた。


「炊き出しの……視察ですか……?」

王女は目を瞬き、戸惑いの色を隠せず問い返した。


ダリオスは書簡から目を離し、椅子にもたれながら言葉を継いだ。

「先日の旧都視察の報告で――

 “旧都と帝都では、人の気質も文化も異なる。ならば施療院の運用も、地域に合わせて調整した方がいい”とあったな」


王女は小さく頷く。


「違いがあるなら、その目で確かめておく必要がある。

 炊き出しなら、貧民も労働者も、施療院の関係者も同じ場所に顔を揃えるから丁度いいだろう。人の気質も、土地の空気も、ああいう場所にいちばん現れるからな」


視線が鋭く細められる。

「俺は旧都の炊き出しなら見たことがあるが、帝都のそれはまだだ。……王女、お前の案内で視察する」


王女の喉元がかすかに揺れる。

「……叙勲祭の件があった私が、そのような場に出るのは……望ましくないのでは……?」


施療院で浴びた視線。街に漂った囁き。

自分が現れるだけで空気がざわつき、人々の不安を煽り立てるのでは、という懸念が声に滲む。


しばし沈黙が落ちる。

セヴランが片眉を上げたが、言葉は発さず、ただダリオスの次の言葉を待っている。


ダリオスがゆるく息を吐いた。

「……いつまでも隠れているだけでは、状況は変わらん」


静かな声音だった。

だがその静けさこそ、逃れようのない力を孕んでいる。


「お前を“災いをもたらす姫”とささやく民の噂は沈静化してきた。だが――次に同じことが起きれば、すぐに再燃する」


淡々とした口調。

だが、その一言一言が、冷えた刃のように空気を裂く。


王女は胸の内がきゅっと縮むのを感じた。“同じこと”――あの日の刃の記憶が脳裏をかすめる。


ダリオスは椅子からゆるやかに身を起こした。

その動作には、威圧ではなく確固たる意志の重さがあった。


「だから――根を断つ必要がある」


一拍の間。

部屋の空気がわずかに震えた。


「視察の場に、あの暗殺者をおびき出し、捕える。……民の前で、確実にな」


静かに、だが一点の揺らぎもなく。

その言葉は石壁に反響し、冷たい空気の奥でゆっくりと沈んでいった。

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