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冥王の庭に咲くもの ― 亡国姫と黒獅子の帝国譚 ―  作者: 唯 さらら
第一章 掌中の鳥 ~ 第一幕 帝国の象徴 ~
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序 王女の逃亡

――古き伝えに曰く。


どこか遠く、光の届かぬところに、冥王の庭があるという。

そこでは、破壊と再生が絶え間なくめぐり、

滅びの跡から、つねに新たな命が芽吹いてはまた試される。


その庭は、終焉に見える場所。

けれど冥王の手がもたらすのは、滅びではなく――

何者にも奪えぬ“何か”を、人に掴み取らせるための問い。

彼は破壊の形を借りて、命の底を試す者。


失うことでしか見えぬもの。

壊れたあとに、なお残るもの。

それらが、葉を繁らせ、花を咲かせ、実を結ぶ。


冥王はその光景を、静かに眺めている。

破壊と再生のあわいに咲く、無数の命の形を――

まるで、それこそが世界の最も美しい調べであるかのように。




《帝国北方の民が語り継ぐ伝承より》




 * * *




……その夜、ひとりの娘が闇を駆けていた。



「はぁ……はぁ……っ」

荒い息が夜気にほどけ、湿った土を蹴る音だけが続いていた。

裾は泥に重く絡み、枝葉が頬を裂く。それでも娘は振り返らずに駆けた。


風が止む。

娘は足を止めて、耳を澄ます。

静寂の底で、かすかに梢が鳴った。遠くで夜鳥がひと声、短く鳴く。


追手の足音が迫っているのか、それとも――何もないのか。

自分の鼓動だけが、やけに大きく耳を打つ。


娘が息を整えようとした、その時、木々の裂け目から月光が落ち、身体を白く縁取った。

逃げ場を照らす光のはずなのに、その冷たい輝きは、まるで見えぬ手のように感じられた。どこへ行こうと、結局はその掌の内に収められてしまいそうな――あの男の気配を思わせて。


胸の奥が、きゅっと縮む。

娘は再び闇の中へと駆け出した。


(戻れば、私は“私”でなくなる。あの場所には二度と戻らない────)




 * * *




燭台の灯が揺れる夜。

静かな回廊を渡るたび、石壁の向こうに待つ男の気配に、胸の奥が冷たく縮む。


最初の夜、王女は剣で刺されることを覚悟していた。けれど彼女を押し伏せたのは、刃ではなく、男の手だった。

「亡国の王女としての、務めを果たせ」


窓の外では、春の夜風が芽吹きの匂いを運んでいた。

大地が新たな季節を迎えるその時に、王女の誇りは踏みにじられていく。


彼は王女を言葉で追い詰めたが、

その手は粗暴ではなく、驚くほどに丁寧で――なおさら耐えがたかった。


王女の胸に広がったのは、憎しみではなかった。


夜ごとに重ねられるその温もりに、形のない何かが芽を出していく。

自分の身体が、その熱に応えはじめる、その予兆。


(これは責務……。生き延びるための辱め……)

そう言い聞かせる声が、夜ごと短くなる。


そのことが、何よりも恐ろしかった。


昼はもっと残酷だった。


用意されるものはすべて整っていた。飢えも寒さもない。

――籠の中の鳥のように。


だが、その籠が黄金であればあるほど、

自分が飛べない存在であることを思い知らされた。


王女の心は、ゆっくりと、だが確実に削られていった。


夜に彼の腕の中で目を閉じるたび、

昼に整えられた居室で息をつくたび、

王女は考える。


このまま、何年も、何十年も。

ただ、抱かれるための“籠の鳥”として、彼の掌の中で生きていくのか。


心の奥底で別の声がささやく。

――このまま、すべてを忘れて委ねてしまえば、楽になれるのだ、と。


王女はその甘い誘惑に震えた。

屈服ではなく、溺れること。それだけは絶対に許してはならない。


そして彼女の胸に、初めて明確な衝動が芽生える。


「逃げなければ」


それはまだ声にもならぬ囁き。だが、芽吹いた瞬間から確かな形を帯びはじめた。


「この手で扉を開けて、外へ出てしまえたら……」


侍女が無言で髪を梳く音の中、自分の頭の中で聞こえたその囁きが離れない。

やがて侍女が退出し、部屋に静けさが戻ると、王女の視線は自然と扉の方へ向かった。取手の向こうに続く闇――そこへ踏み出す自分を、幾度となく想像してしまう。




 * * *




恐れは、形を変えてなお大きかった。


捕らえられれば、今度こそ命はないかもしれない。

それでもなお、籠に飼われ続けるよりは――外を選びたいと思ってしまう。


それは敗国の王女としての「責務」を裏切る行いかもしれない。

だが、責務を守ることと、心を殺して生きることは同じではないと、彼女は気づき始めていた。


夜ごと彼の腕に閉じ込められるたび、決意は濃くなった。

嗜虐の言葉と優しい仕草に心が軋むたび、胸の奥では声なき叫びが芽を伸ばす。


寝台の上に射す月明かりは、夏の熱気に霞みながらもなお白く冴えていた。

息苦しい夜の空気の下で、王女の胸の奥には別の熱が育っていく。


「――いずれ必ず、ここから逃げる」


まだ方法はない。だがそれはもはや願望ではなく、確かな計画の芽となりつつあった。



ある夜明け前。

窓辺に立ち、格子の影を指でなぞる。冷たい鉄が籠を思い知らせる。

だが、その隙間に小さな蝶番を見つけ、爪を立てた。

すぐに痛みが走り、鉄の硬さに打ち砕かれる。


背後の衣擦れに振り返ると、侍女が無言で立っていた。

淡々とした声が響く。

「……お休みにはなられなかったのですか」

叱責ではない。だが見透かされた気がして、王女は慌てて手を引いた。



数日後。

夜を共にしたあと、不意に低い声が耳をかすめた。

「……お前の瞳は、檻の外を見ているな。逃げるつもりか?」


答えられずに沈黙する王女の耳元で、髪を梳く手が囁く。

「逃げられるものなら、逃げてみろ」




 * * *




その日、帝城には遠方からの巡礼団が訪れていた。

収穫祭の季節、秋の実りを神へ捧げる供物と共に、僧と従者が列をなし城門をくぐる。

白布の衣、軋む荷車、祈りの声――秋の澄んだ空気の中に、外の世界の匂いが広がっていた。

その様子を遠目に見せられた王女の胸はざわめいた。


(――この人々に紛れられたなら)


侍女に促され、奥へと引き下がろうとした刹那、一瞬の混乱の中に「出口」の影を見た。

目が合ったのは、荷車を押す小柄な従者。粗末な外套を肩にかけていた。

閃光のようなひらめきが走る。


(あれを奪えば)


その夜、月明かりの下で思いは決意へ変わった。

翌朝、巡礼団が城門を出ると聞いたのだ。


夜明け前、城門前は慌ただしい。

供物を積む音、祈りの声、軋む荷車。

王女は影に潜み、胸の鼓動を押さえ込んでいた。


列の後ろ、小柄な従者が外套を手に背をかがめる。

王女は髪に挿していた細身の簪を抜き取り、静かに近づいた。


「……声を上げれば、突き立てる」


低い囁きと共に、簪の先を従者の喉元へ押し当てる。

従者は凍りつき、声を失った。


その外套を奪って身にまとい、フードを深く被る。

従者は荷車の影に押し倒され、布で口を縛られる。もがく音は祈りと雑踏にかき消された。


王女は列に混じり、一歩、また一歩と足を運ぶ。

兵の視線がかすめるたび、心臓が裂けるように脈打った。


だが祈りとざわめきがすべてを覆い隠す。

鉄の扉が軋みを上げ、ゆっくりと開いた。


籠を閉ざす音ではなく、初めて外界へ通じる裂け目。

王女は列の中で息を殺したまま、門をくぐる。

石畳の内と外、その境目を越えた瞬間、足が震えた。

囚われ続けた籠から、ついに踏み出す一歩だった。


振り返れば、帝城がそびえていた。

そこには、必ず自分の不在に気づく男がいる。


「……ダリオス」


胸中でその名を呟き、王女は顔を隠したまま巡礼団の影に紛れ、歩みを速めた。





── 帝城・執務室 ──


分厚い石壁に囲まれた執務室は、朝の静けさを保っていた。

窓から射し込む光が、灰色の絨毯の上に斜めの線を引いている。


「……陛下。王女が城外へ姿を消しました」

入室したセヴランが、無駄のない動作で一礼し、淡々と告げる。

声に焦りはない。


窓辺に立つ男――皇帝ダリオスが、わずかに口角を吊り上げた。

「ようやく、か」


その言葉に、側近の眉がかすかに動く。

「……あえて見逃されたのですね」


ダリオスは低く笑った。

「籠の中で羽ばたきを忘れた鳥など、何の面白みもないからな。

 ……なに。少し外の風を浴びせるだけだ。翼を試す頃合いになれば、また掌に戻す」


セヴランはわずかに眉をひそめた。

「……それは逆に残酷では?」


「かもしれん」

短く言い、ダリオスは再び窓の外へ目を向ける。

城下の街道が、朝靄の中に細く伸びていた。


「だが――その方があの女は生きる。そんな気がするのだ」

朝光を浴びる横顔が、ふっと笑う。

「俺が生かすと決めた以上、徹底的に生きてもらわねばならん」

その声音には、冷酷さと不可解な慈悲が奇妙に同居していた。


やがて彼は机上の地図に手を置き、静かに命じる。

「王女の行方を密かに追え。捕らえるのは俺が望む時だ。……目を離すな」


「御意」

セヴランは一礼し、静かに辞した。


扉が閉じ、再び静寂が満ちる。

窓辺に立つ皇帝の姿が、光と影のあわいに沈む。

帝都を見下ろすその瞳は、獲物を逃さぬ獣のごとき闇を湛え――黒獅子を思わせる威を放っていた。


ダリオスは薄く笑みを浮かべる。

まるで遠く逃げ去る王女の影を、その瞳の奥で確かに捉えているかのように。

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