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月にかさねる想いの行方は

作者: ELL

ご覧いただき、ありがとうございます。

「月が白い‥‥」


 思わず口から零れた。

 私にとって“当たり前”だった色をした月が、まるで微笑むように細い弧を描いて夜空に浮かんでいる。


「ユーリ」


 短く、低く、鋭く。


 聞き慣れた声に、振り返る。

 光に溢れた大広間を背にしているから、逆光で表情ははっきりしない。

 いつもは黒く見える髪が、光を受けて艶やかな深い茶色に見える。


「何か……。あぁ、銀月(ぎんげつ)か。珍しい。俺が生きている間にまた見られるとは」


 バルコニーに逃げてきた私を追いかけてきてくれたのだろう。彼の手にはグラスが二つ。

 この国で最も尊い人に手ずから運ばれた果実酒を受けとる。


「ギンゲツ……」


 耳慣れない単語を復唱する。自分の体に馴染ませるように。


「ユーリ。戻りたいか?」


 どこに。とは聞かない。聞くまでもない。私が「戻りたい」と願った場所は、ただひとつ。

 それも随分昔の事で、二十年経った今では過去のことになっている。

 ゆるゆると首を振って否定をし、果実酒に口を付けた。


「初めて会った日は何一つ口をつけない強情さだったのにな」


 広間からの灯りが反射してきらめく琥珀色の瞳が、柔らかく緩む。


「ユーリはあの頃のままだな」

「そっちは老けたね」

「生意気な口調もそのままだ」


 レオン……レオンハルト四世は、楽しそうにクックックと喉の奥で笑った。


 含み笑い。久しぶりに聞いた。


 唯一の直系王位継承者として幼い頃から厳しく育てられ、また、自らを律してきたためだろうか。

 レオンは自分の感情を表に出すことが少ない。

 それは年を重ねる毎に顕著となり、ここ最近は眉間に皺を寄せているのがデフォルトだ。

 こうして私と二人だけの時に見せる、ちょっと力の抜けた表情すら貴重だ。


「戻った方がいいよ」


 広間のきらびやかな喧騒に視線を向け、促す。

 私はともかく、王が不在の宴ではよろしくなかろうに。


「我が最愛がどこかに消えてしまいそうだからな。連れ戻しに来たんだよ」

「よく言うわ」

「本当だよ」


 そう言うとレオンは私の髪を一房手に取ると、その毛先に口づけた。


「少しだけ伸びた気がする」

「気のせいだよ」


 私はレオンの手から自分の髪の毛を奪い返すと、さっと手櫛をいれる。

 肩にもつかない癖のないボブの髪は、結い上げることもなく、そのままにしている。こちらにきて一度も鋏をいれていない。


「漆黒の髪も、瞳も、あの頃のままだ」


 レオンは遠慮なく私の頬に触れる。


「まるで少女のままだな、ユーリ。お前は俺を置いていくのか?」

「私が置いていかれてるんじゃない?」

「いつも追いかけているのは俺だよ。ほら、一緒に戻ろう」


 レオンに促され、小さく溜め息をついて彼の腕に手を添える。

 何だかんだで二十年も過ごせば“異文化”も身に付く。

 目が眩むような、貴金属に飾られた色の洪水。甘美な音楽。贅を尽くした食事。腹の内を探り合う空虚な会話。貼り付けられた微笑み。

 私も皆に倣って微笑みの仮面を貼りつける。


「まぁ、聖女様。相変わらずお若くていらっしゃること」

「いつまでも少女のようですこと」

「わたくしどもとは違いますのね、イロイロと」


 ちゃんと私に聞こえるように囀ずるお喋りインコたち。


「気にするな」


 レオンは私にだけ聞こえるようにささやくと、頭頂部に軽く口づけをした。

 “ご寵愛”の演出だ。


「ユーリ」


 レオンが少し上半身を倒し、私の耳元に口を寄せる。


「あとで話がある」


 そういいながら私の手からグラスを取ると、近くに控える従僕にそれを預け、さらりと私の腰に手を添え、ダンスの輪へと誘う。


 実に淀みなくスマートだ。さすが王。

 私を見るレオンが、一瞬、少し寂しそうに顔を歪めた気がしたが、すぐにいつもの、眉間にシワを寄せた厳しい表情になった。


「そんな顔でダンスですか」


 チクリと嫌味を言うと、レオンは少し驚いたように眉を上げた。


「ユーリが足を踏んでもいいように身構えてるだけさ」


 レオンはわざと口端を持ち上げて、皮肉気な笑みを浮かべてそう言うと、また喉の奥で音を立てて笑った。


 珍しく今日はよく笑うな。




「もしも戻りたいのなら、次の満月の夜だ」


 宴の後、窮屈なドレスから楽な寝着に着替えた私の元を、これまた寝着を着たレオンが訪れたのは、夜もだいぶ深まった頃だった。

 この時間にレオンが、王城の私に与えられた部屋を訪ねても、誰も何も言わない。

 誰もが私たちがそういう関係だと知っているからだ。


蒼月(そうげつ)朱月(しゅげつ)、そのどちらも浮かばずに一つだけ夜空に浮かぶ白銀の月が銀月だ。銀月は魔力を増幅する。その頂点が満月だ」


 いつも追いかけっこをしているように二つ仲良く夜空に浮かんでいる青い月と赤い月は、ここが異世界だと強く主張する、非現実感のあるものだった。

 けれどそれも二十年もすれば、馴染む。


「ユーリを喚んだのも、銀月の満月だ。召喚とは真逆の動きをする魔法陣を描いてみよう」


「そんなこと出来るの?」


「わからない。今まで誰もやったことはないから。そもそも銀月が珍しいんだ。人生で一度あるかどうか。なのに、二度目が来た」


 これは運命なんじゃないか?

 レオンがそう言う。


 ◻ ◻ ◻

 召喚が叶った記録は、過去に三度。私は四人目だった。


 銀月が満ちるとき、召喚陣を描き、聖なる異界人を召喚するのは王太子に与えられた仕事だ。

 だが、必須ではないらしい。

 召喚には膨大な魔力が必要で、召喚時に魔力が枯渇したために生死の狭間を漂うこともあるらしい。

 命懸けだ。

 だから、召喚陣を描くかどうかの決断は本人に委ねられる。


 これは王家と魔導師会の秘中の秘だ。

 私は召喚された者として、こちらへ来て直ぐにその事実を伝えられた。


 いきなり知らない場所に来てしまった恐怖から、その場に座り込んだまま動かず、何も言わず、ただ泣き続けるだけの私の前に、蹲り額を床に押し付け許しを乞うたのが、時の王太子レオンだった。


 自分がやったことだ。全ての責任は自分にある。恨んで構わない。申し訳ない。


 ただ泣くだけの私に、言葉を尽くして詫び、理由を説明した。


 国を救うために、君を勝手にこちらに呼び寄せた。

 その傲慢さ自分勝手さも理解した上で、それでも試さずにいられなかった、何でもするから許してほしい。


 そう言って長い長い間、ずっと大きな体を丸めていた。


 随分と長い間泣き続け、頭痛がし始める頃、私よりも少し年上に見える、高価そうな立派な服を着た男性が顔を床に付けて必死に詫びる様子に絆されて、ゆっくりと立ち上がると、彼は顔を上げて私を見上げた。


 私とは色味の違う黒髪の、琥珀色の瞳の、外国映画に出てくる俳優よりもずっと美しい顔をした男の人だった。

 私は無言のまま蹲る彼を見下ろした。

 彼は自分が召喚をした王太子であり、レオンだと名乗った。

 聖女の名を教えてほしい、そう言われて、自分がその『聖女』であると理解するのにこれまた長い時間がかかった。

 どうか、どうかと乞われ、あぁ、私の事か、と理解したものの、どうしても自分だと認めたくなかった。

 そして『ユーリ』とだけ名乗った。


 王太子だったレオンが召喚陣を描き、命を賭けて聖なるものを呼び寄せてまで望んだのは、彼の国の安寧。

 国全体を厚く覆う障気を祓い、魔獣を一掃すること。そのための聖なる者を召喚した。と、言っていた。

 恐らく、とてもとても、とてもとても強く願ったのだろう。あと、レオンの魔力が素晴らしかったのか、陣が美しく描かれていたのか。


 理由はわからないけれども。


 その日、学校帰りの制服姿の私が召喚の魔法陣の上に現れた。


 と、時を同じくして国土を覆い尽くしていた障気は霧散し、魔獣が消えたらしい。


 レオンの願いは、ほんの瞬きする間もなく、叶ってしまった。


 かくして、私は「職業・聖女」としての宿命の旅に出ることもなく、今に至る。


 まぁ、何か求められても困るけど。できないし。


 過去に召喚された方たちが何をされたのかはわからない。が、ただの女子高生に何ができるというのか。


 何の実績もない、ただの異分子である私は、必ずしも皆に歓迎されたわけではなかった。

 特に、レオンが気遣って相手をしてくれるから、尚更に。


 この国唯一の王子で、見目も良い。

 性格は、まぁ、多少強引なところはあるけど、立場を考えれば仕方ないかな、むしろ、リーダーシップやカリスマ性だと読み替えれるか。


 そんな、多分、妙齢女性の憧れの的が、よくわからないポッと出の女の世話を焼く。


 嫌がらせもされたけれど、結局のところ「聖なるもの(かもしれない)」という肩書きが私を守ってくれた。

 あと、お世話焼きのレオンの存在も。


 レオンは、初めから私に親切だった。

 きっと、本質的に善人で、施すことが身に付いているんだろう。

 私はレオンに庇護され、城で過ごすことになった。


 異世界に連れてきてしまった罪悪感なのか、レオンは私に求婚をしたりもした。

 立場や存在が微妙すぎる私が王妃となることは、さすがに周りが許さなかったが、レオンは「妃不在」の王太子として、そして后妃不在のまま王として即位し、過ごしてきた。

 私が正式な王妃となることはなかったが、あらゆる場面で「王唯一の最愛」としてレオンの隣に立ってきた。

 私の立場は、いつだって不安定で不確かで。

 それを庇うように、レオンは隣に立ってくれていた。

 ◻ ◻ ◻



「いつも月をみていたな」


 レオンが私の髪を弄びながら、何か懐かしむように言う。


「ここに来てから、気づけば月を眺めていた」


 そうだろうか。自分では意識してなかったな。


「月の向こう側にユーリの世界があって、そちらに帰りたそうな」

「なにそれ。かぐや姫みたいだね」


 私が小さく笑うと、レオンは私の頭を自身の胸元に抱き込んだ。


「あぁ、それだ。いつか話してくれた、あちらの世界の物語の。月の世界の姫の話だったな」

「無理難題を押し付ける、ワガママな姫の話だよ」

「誰の手も届かぬ、美しすぎる姫の話さ」


 レオンは私の頭を抱えたまま、離さない。


「ユーリが帰りたいなら、陣を描く。10日後に返事をくれ」


 私はなにも言わずにレオンの胸元から、彼を見上げた。


「ユーリの容姿がここまで何も変わっていないんだ。きっと自然に元の世界へ戻れるよ」

「わたしは、ここで十分好きに過ごしてるよ?」


 レオンはそう言う私の頬を撫でた。


「なら、何で泣いているんだ?」


 レオンに言われるまで、私は自分が泣いていることに気づいていなかった。


「わたしは……満足しているよ……よくしてもらってる」

「知っている。知っているけれど、それでも、月を眺めるお前はいつも淋しそうだ。今日も……」


 そう言って、レオンは私を見つめた。

 琥珀色の瞳に、いつまでたっても変わらぬ姿の自分が映る。


「いや、今日は何か違ったな。もっと、本当に月に吸い込まれそうな気がした。あの月はお前にとって、特別なのか?」

「そうだね……昔、見ていた月に似ていたから」


 こちらの世界で二十年。

 良くしてくれる人も多い。

 それでも、見た目が年をとらない私はどんどん異物として、この世界から浮いていた。

 どこまでいっても、いつまでたっても異邦人だ。


 私の前の三人はどう生きたのだろう。


 私はレオンの胸に抱き抱えられたまま、そんなことを考えていた。



 * * *


 何の返事もできないまま、日々が過ぎていった。

 約束の十日目の夜、レオンは私の元を訪れ「三日後、陣を描く」と告げた。

 その日から丸二日間、私たちは何も言わずにただ、互いの存在を感じられる距離で過ごした。


 私は最後まで選ぶことができず、レオンに選ばせてしまった。

 その事実は、私に泣くことを許さなかった。



 * * *


 銀月が満ちた夜、私は王宮の地下へと連れてこられた。

 初めて訪れる場所だと思ったが、何のことはない、この世界に来たときに召喚されたのがこの地下だったらしい。


 何をどう描いたのかわからない、不思議な模様がたくさん描かれた円形の図が石造りの床に描かれている。

 これが魔法陣。

 私が初めてこの世界に来たときも、こんな不思議な図形の上にいたな、そういえば。と、思い出したが、何一つ文字が読めない。

 不思議だ。この世界に来てから、どの国、どの時代の文字であっても読むのに苦労をしたことはなかったのに。


「古代魔術の術式だからな、誰もどう読むのか知らないよ」


 レオンは私の疑問を見透かすかのように答えをくれた。

 魔術か。私に魔力はないし、必要としなかったから気づかなかったのかな。


「ユーリ、陣の真ん中に。立つのが不安なら座ってもいい。陣の中にいてくれ」


 レオンが私を陣の中央に(いざな)う。

 私は陣の中央に立ち、レオンは陣の外に出る。

 複雑な模様で描かれた円形の図が、私とレオンを間を阻む。

 二十年前の、初めて会ったときのように、レオンが石造りの床に額をつけて蹲る。


「ユーリ、ありがとう。今までそばにいてくれて」


 それは私が言う台詞だ。

 今まで、隣にいることで私を守り続けてくれた人。

 何も、何一つ返せていないのに。


「わたし、やっぱり……」


 迷いが消えない。

 どちらを選んでも後悔するのはわかってる。

 でも、どうしたらいいのかわからない。


 レオンが両ひざを床につけたまま、その両手を円陣の上にかざす。

 掌からじわり、じわりと白い光が漏れ、滴のように零れ、円陣の上にぽたぽたと落ちる。まるで吸い込まれるように。


「心配するな。いつか必ず────」


 レオンが顔を上げた。今にも泣きそうな笑顔。

 初めて見る表情だ。

 琥珀色の瞳が、零れ落ちそうに揺らぐ。


 刹那。


 目を開けられない程の白い光に包まれて、辺り一面を焦がすような熱のにおいに覆われて。

 私はくらりと眩暈がし、膝をつき、そのまま意識を手放した。




 * * *




 それからどれくらいの時間が過ぎたのか。

 すぐなのか、かなりの時間が経ったのか。


 目を覚ますと、知らない天井が見えた。


 ピッピッピッピッと、規則正しい電子音がする。


 電子音。

 随分と耳にしていなかったな、そういえば。


 頭を動かし、周りの様子をうかがう。

 知らない部屋だ。

 日差し避けなのか、淡く明るいベージュ色のカーテンが引かれている。


 傍らに点滴が下げられている。


 左腕をかるく持ち上げると、腕から管が延び、点滴に繋がれていた。指先には洗濯バサミのようなものがはめられている。手首には認識タグだろうか。ビニールのリストバンドが巻かれている。


「洗濯バサミだなんて、久しぶりに思い出したわ」


 声に出し、ここがかつて戻りたいと焦がれた世界であろうことを理解した。


 ここは病室だろうか。

 ベッドから身体を起こすこともせず、静かに目を閉じた。


 ──俺も必ずそちらに行くから。


 そう、レオンが言った。

 ……ような気がする。


「どうやって……」


 そう、呟いてみたものの、私をこうして元の世界へ戻せるレオンなら、あるいは何か出来たりするのかもしれないな。と、漠然と、理由もなく思った。


 涙が、閉じた目のふちから溢れて止まらない。

 溢れた涙はこめかみをつたい、耳を濡らす。

 止まらないそれを拭って、肩を抱き、胸にかかえてくれるレオンはここにいないのだと、痛感した。


 あの世界での二十年、私はレオンにとても愛されていたのだと。

 名前ひとつ呼ばない、頑なに心を開こうとしない私を、ただ、守ってくれていた。

 それが罪悪感からだとしても。

 無償の二十年。

 きっとそれは、間違いなく彼の愛だ。


 しみじみとそう理解した頃、知らない女性の声が聞こえた。

 ゆっくりと目を開いて声のする方を見る。

 部屋に入ってきた女性は、私と目が合うとベッドの側まで駆け寄り、近くのブザーを鳴らした。

 あぁ、看護師さんか。

 そう思う間もなく、あっという間に白衣やナース服の知らない皆様にとりかこまれ、あれやこれやと話しかけられる。

 ベッドの上部が斜めに持ち上げられ、カウチソファーにもたれるかのように上体を起こされ、熱を測られ。

 彼らの様子から、ここが病室で間違いないだろう。医師らしき白衣の男性から体調を問われる。


 少しぼんやりしてるけれど、どこも痛くないです。

 そう答えたいのに、なにかが喉に詰まっているみたいに声が出ない。さっき、泣く前には声が出たのに。


 それからさほど時間も過ぎないうちに、知ってる容姿のままの母親が転びそうな勢いで部屋に飛び込んでくるのが見えた。


「おかあさん……」

 声に出して呼ぶ。あぁ、やっと声が出た。


「ゆりこ!ゆりこ!ゆりこ!」


 母は、何度も何度も私の名前を呼び、ベッド周りの人を掻き分けるように(みんな動いて空けてくれてるのだけれど)私の側へ来ると、がしっと私を抱き締めた。

 それは、小柄な母のどこにこんな力があったのかと驚くほどの力強さで、思わず「くるしいよ」と、呟いてしまった。


 そうして私は、間違いなく元の、随分と昔に帰りたいと願っていた場所に帰ってきたのだった。



 * * *


 目を覚ました私に、両親は過保護だった。

 わからないでもない。理由もなくただ二十日も眠っていたなんて異常事態だ。

 必要以上に気を回すのも仕方ない。


 だが幸運なことに全てが夏休み期間の出来事だったこともあり、目覚めてから数日の入院と、二週間程の自宅療養の後、二学期の始業式から学校へ通うことも、こうしてできた。

 宿題については、学校側が随分と配慮してくれた。助かった。


 始業式を終え、帰路につく。


 戻ってから、まるで夢から醒めた後のように、だんだん、向こうの記憶が曖昧に不鮮明になってきている。


 まだ、たった二十日なのに。

 二十年の記憶がこんなにも簡単に遠くへ追いやられていくなんて。



 自分がかつて意識を失ったらしい歩道橋の上で足を留めて、空を眺める。


 まだ夏色の青い空に、ふわりと白い下弦の月が浮かんでいる。


「昼の月、なかったな、向こうには」


 こうやって、小さな違いを見つけては、確かめるように噛みしめておかないと、いつか本当に全て忘れてしまいそうだ。


 むしろ、忘れた方がいいのだろうか。


 二十年の、行き場のない思いを抱えたまま大人になっていくよりも、夢の出来事のようにぼんやりとした淡い記憶になった方が、これから先が生きやすいかもしれない。


「これが自然なことなのかも」


 不自然すぎた、夢みたいな二十年。

 実際に私は眠っていたわけだし。

 長い、長い夢だったのかもしれない。


 溜め息をひとつついて、ゆっくり歩き始めた。

 歩道橋の階段を降り、家までの近道の、田んぼが広がる畦道を進む。

 緑色の稲が風に吹かれて揺れる。

 私の髪も、風に揺れて毛先が首筋を撫でる。


 家まであと十分ほど。

 一歩進む毎に何かを忘れていく気がする。


 あぁ、私は彼にちゃんと伝えてなかったな。


 いつも貰うばかりだった幸せに感謝していると。

 彼にも幸せだと思ってもらいたいのだと。

 この世界に戻りたいと願っていたことを忘れるほどに、幸せな日々だったと。


 ただの一度も名前を呼ばなかったけれど。

 大切な、大切な人なんだと。

 心から大切に思っていたと。


 久しぶりに一人で歩いているせいだろうか。

 今日はやけにセンチメンタルな気分だ。

 もう一度、空を見上げてそこに浮かぶ月を見た。

 鼻の奥がツンと痛くなる。

 泣くと母が心配する。

 泣くな。


 空に浮かぶ月を見ながら、パシパシと何度も瞬きをして、滲む涙を散らしていると、犬の鳴き声が聞こえた。


「ぅわふん」


 短く、低く、鋭く。

 まるで、名前を呼ばれた気がした。

 犬の鳴き声なのに。


 畔道の少し先には、見たことのない犬が座ってこちらを見ている。

 黒い大きな、見事な毛並みの犬が、琥珀色の瞳で私をみつめている。太陽の光に反射しているのか、黒い毛並みが描く輪郭が、所々、茶色に光っているように見える。


 琥珀色の瞳。黒い髪。


 朧気だった記憶に、まるでフォーカスが合うように一気に鮮明になって溢れ返る。

 現実だったと伝えるように。


 忘れるな。と。

 俺を忘れるな。


 そう言っている。


 犬は座ったまま、ゆらゆらと尾を振っている。

 琥珀色の、初めて見るその瞳が、懐かしい。


 一歩、二歩、三歩。

 ゆっくりと歩いて犬との距離を縮める。

 犬の目が、喜んでいるようにみえる。

 揺れる尾がパタパタと地面を叩く音がする。

 期待している音だ。

 私を待っていた、そう伝える音だ。


「驚いた。本当に追いかけてきてくれたのね、レオン」


 私の言葉に答えるように、犬が私に飛びついてきた。

 本当に大きな犬だ。はずみで身体がぐらりとふらつく。

 手に持っていた鞄が足元で音をたて、私は両手でしっかりと、知ってる瞳を持つ、知らない犬を抱き締めた。


 その前足は私の両肩を抱き、その舌が、頬を伝った私の涙を舐めた。

ハッピーエンドです。

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