5 おとぎ話みたいって笑ったりしないでね?
いつもマーレがいる白い砂浜の少し離れた所にある岩場は、白くて平べったい大きな岩が何個も積み重なったように出来ていて、少し滑りやすくて歩きにくい。
慣れないうちはサンダルで歩くのも怖くて仕方がなかったけれど、毎日ここで過ごしているせいか、最近はようやく慣れてきた気がする、と私は思う。
私との約束をしていない間、マーレが何をしているかは謎だけれど、人魚族は海底に、深海都市と呼ばれる大きな都市を築いて暮らしているらしい。
人間も特殊な魔法道具があれば深海にだって行けると聞いた事もあるけれど、私のような一般人は、そんな高額なものを手に入れる事は出来ないだろうし、そもそも人魚族のテリトリーに踏み込もうとは誰も思わないだろう。
そんな事を考えながら、転ばないようにゆっくり岩場を歩いていると、いつものように大きな岩の上に腰掛けていたマーレの後ろ姿が見えた。
呼びかけようとしたけれど、マーレは何かに気がついたようで、するりと海へと飛び込んでいってしまう。
何かあったのかな、と心配になって駆け寄ろうとすると、マーレはすぐに水面から顔を出していた。頭を振って水を払うと、陽光が当たって飛沫がきらきらと光っている。
ほっとして声をかけようとした瞬間、私は思わず足を止めてしまった。
彼の側に、一匹のイルカがいたからだ。
それは、黄、桃、紫、水色といった柔らかなパステルカラーの身体が特徴的の、花イルカと呼ばれている種類のイルカで、とても警戒心が強く、なかなか人前には姿を現さないと言われている。
私も実際に見るのは初めてで、驚きのあまりに動けなくなってしまっていた。
マーレの側にいるのは淡い水色の花イルカで、つぶらな瞳をきらきらと輝かせながらマーレに擦り寄っていて、ピューイピューイ、とかわいい声で鳴いている。
「か、かわいい……!」
声を出さないよう気をつけていたけれど、あまりのかわいさに、私は思わず声を零してしまった。
慌てて口を塞ぐけれど、声に気づいたらしいマーレは嬉しそうに振り向いていて、花イルカは人間の姿に驚いてしまったのだろう、キュイ! と甲高く一鳴きして水面へ潜ると、あっという間にいなくなってしまう。
ああ、行っちゃった……。
しょんぼりと落ち込みながら、海の側まで歩いてしおしおとしゃがみ込めば、マーレが泳ぎながら近づいてきて、不思議そうな顔で覗き込んでくる。
「ルエラ、花イルカが好きなの?」
「うん。すっごくかわいいし、滅多に見られないじゃない」
「ふうん」
花イルカは野生の生き物だから、むやみやたらに触れていいものではないし、近づく事だってストレスを与えてしまうのでよくはない、とはわかっているので仕方がないけれど、やっぱり姿を見ると嬉しくなってしまうものだ。
せめて少し離れた場所でもう一度見たかった、と私が落ち込んでいると、マーレは首を傾げて顔を覗き込んでくる。
あんまりにもしょんぼりした顔をしていたのか、マーレは苦笑いを浮かべて海の方へ身体を向けると、ピューイピューイ、と先程のイルカの声を真似るように口笛を吹いた。
「おいで、怖くないよ」
マーレがそう呼びかけると、水面からゆっくりと花イルカが現れて、マーレの側にぴったりとくっついている。
きっと、私を警戒しているのだろう。
申し訳ない気持ちと残念な気持ちを混ぜ合わせた複雑な気持ちで見守っていると、マーレは花イルカを安心させるように優しく撫でている。
「大丈夫だよ。ルエラは僕の大切な人だから、仲良くしてあげて」
何だか物凄く恥ずかしい事を言われている気がするけれど、マーレの言葉に安心したらしい花イルカが近寄ってくれた事はとても嬉しいので、私はあえて聞かなかった事にしておいた。
目の前にいる花イルカは、海面のきらめきと相まって、つやつやな肌やつぶらな瞳がきらきらと輝いている。
「肌がつるつるしてて、目もキラキラしてて、すっごくかわいい……!」
かわいいね、いい子だね、と嬉しさのあまり、笑顔でいっぱい話しかけていると、花イルカはそれに応えてくれるように、ピューイピューイ、と鳴いている。もしかして、喜んでくれてるんだろうか。
それがあまりにもかわいくて、私はすっかり頰が緩みきってしまっていた。
野生のイルカにこんなに近づける事自体初めての事だし、こんな風に気を許してくれるような仕草をされたら、堪らなく嬉しい気持ちになってしまうのは仕方ないと思う。
マーレは花イルカの側でその様子を見ていたけれど、不意に何か合図をするかのように、海の向こうに向けて指を差している。
そのしなやかな指先を見つめながら、一体何をしようとしてるんだろう、と不思議に思った私が首を傾げていると、花イルカはマーレの動作に従うように背を向けて泳ぎ出し、あっという間にいなくなってしまった。
「あっ、何で帰しちゃうのよ」
折角仲良くなれそうだったのに、と私が非難すれば、マーレはムッとした顔をしている。
「ルエラには僕がいるからいいでしょ」
そんなに撫でたいなら僕を撫でればいいじゃない、とマーレは見当違いな事を言っている。
そういう問題じゃないんだけどなあ、と思いつつ、マーレの頭をそっと撫でると、彼はぱあっと嬉しそうに笑って見せるので、私は何とも言えない気持ちになってしまう。
こういう事を何の計算もなくやるから、本当に質が悪い。
「さっきの子、この辺りに住んでるの?」
海風が髪を遊ばせるように吹くので、指先で髪を払いながら問いかけると、マーレは緩やかに首を振り、海から上がって岩場に腰掛けている。
毎回の事で慣れてきたけれど、海に上がると濡れている筈の肌や服はすっかり乾いていて、不思議でならない。魔法とは違うようだから、これも人魚族の特性みたいなものなのだろうけど。
「ううん、もう少し先の方みたい。他の人魚達の伝言を伝えに来てくれたんだ」
「伝言? 魔導通信機を使えばいいのに」
魔導通信機は、魔法使いや技術者達が開発した、遠くの場所でも会話が出来るという便利な機械だ。
かつての災害により陸地の半分が海に沈んでしまった事で、五つの島国は水防に力を入れていて、機械の類は全て海底でも使えるよう徹底しているし、昔は持ち運びが出来ない程に大きさだった魔導通信機も、今では手のひらに乗る程の小ささで出回っていている。
ただ、小型化しただけあってそれなりに高価なものだし、それほど必要性を感じていないので私は持っていないけれど、以前住んでいた街では同年代でも持っている人も少なくはなかった。
だから、てっきりマーレ達も使っているものだと思っていたけれど、どうやら違っていたらしい。
「人魚族は人間の魔法とその道具を忌避するものなの。ルエラだって、人魚にまつわる昔話は知ってるでしょう?」
「知ってはいるけど……、マーレに会うまでは、おとぎ話だと思ってたから」
マーレが言っているのは、人魚にまつわる有名な昔話だ。
その昔、ある人魚族の少女が、人間の男性に恋をした。
少女は何とか男性に近づきたいけれど、海に住む人魚は、地上に住むその人に会いに行く事が出来ない。
そんな悩みを抱えている少女の前に、ある日、人間の魔法使いが現れて囁いた。
〝あなたの美しい声と引き換えに、人間の足をあげましょう〟
そう、取引を持ちかけて。
結局、その魔法使いは悪い人だったとかで、最終的にはやっつけられたとかどこかに追いやられたとかそんな話だったけれど、ともかく、そのせいで人魚族は人間が使う魔法や魔法道具をあまりよく思っていないそうだ。
「その影響で、人魚族は鰭を人間の足に変化させられるようになったらしいんだけど、代償として、その間だけ声が出せなくなるんだよね」
人魚族の少女の恋と、代償を受ける事で鰭を足に変化させられるようになった事。
それらに妙な違和感を覚えて、私はことりと頭を傾けた。
「その女の子がきっかけで人魚族がそうなったのなら……、その人は海に戻ってきた、って事?」
人間の男性とは結局、上手くいかなかったのだろうか。
はっきりと言葉には出来なくて、私は曖昧に聞いてしまう。
だって、失恋してしまった、とかなら、やっぱり悲しいし。
「さあ? 大昔の事だって言われているし、よくはわからないけど……」
マーレはそう言うと、銀色の睫毛を緩やかに瞬かせて、町の高台——時計台の方を見つめていた。
ピーコックグリーンの瞳がすっと細められていて、その横顔は、何故だか少し、淋しそうに見える。
「……地上で暮らす事を決めた人魚族は、海と疎遠になるそうだから」
「そうなんだ。何だか、淋しいね。海と地上を行き来出来るなら、どっちにも関わりを持てていいな、って思うのに」
特に、このリシャルジアは海の恵みで生きていると言っても過言ではないし、町と海との関わりが大きいから、余計にそう感じてしまうのかもしれない。
勿論、マーレと知り合って、こうして話をしているからこそ、そう感じるというのも大きいのだろうけれど。
「やっぱり、ルエラは優しいね」
ふわ、と柔らかな笑みを向けられて、私は思わずぱっと顔を海の方へと向けてしまった。
いつもみたいな無邪気な感じではない笑い方は、何だか大人びて見えて、心臓に悪い。
「けど、マーレも地上を歩く事は出来るんだね」
そうは言いつつも、マーレが地上を歩いている姿が想像がつかなくて、私はうーんと考え込んだ。
マーレは人魚族で、人魚族といえば海、という先入観があるからだろうか。
そんな私を見ていたマーレは、首をことりと傾けて、淡い笑みを浮かべている。
「ルエラが望むなら、いつでもやってあげるよ?」
「いいよ、声が出なくなるなんて大変そうだし。それに、マーレが地上に来れなくても、私が海に来ればこうやって会えるんだから」
そう言うと、マーレは何故だかとても嬉しそうな顔をして私の手を取って、頰を押し付けてくる。
柔らかで滑らかな皮膚の感触と、ほんのりとあたたかい体温が手の甲から伝わってきて、私は思わず声を上げかけて、慌てて反対の手で口を押さえた。
ここで何らかの反応を示したら、更に嬉しそうな顔をするに決まってる!
マーレは私の予想通りに、にこにこと満面の笑みを浮かべていて、私はさり気なく手を外そうとするけれど、がっちり掴まれていて離してくれそうにない。
「え、っと……、さっきの花イルカって、何を伝えにきてたの?」
咄嗟に話題を変えようと、私は急いで頭をフル回転させて、そう聞いた。
その隙にどうにか手を離したいけれど、マーレはそんな気は更々ないようなので、今はもう諦めるしかなさそうだ。
「他の島国に住んでる人魚から、顔馴染みのお客さんがこっちに来るみたいだって教えて貰ったんだ」
「お客さん?」
会話の中でマーレとは似つかわしくない単語が出てきて、私は思わず聞き返してしまう。
「うん。言ってなかったっけ? 僕、お店をやってるんだよ」
「お店、って……何か売ってるの?」
魚や貝でも売ってるのだろうか。不思議に思って問いかけると、マーレは胸を張って、えへんと言わんばかりに誇らしげに言ってみせる。
「雑貨屋さんだよ」
「雑貨屋さん?」
「そう。元々は祖父のお店でね、僕が後を引き継いだんだ」
沈んだ船の残骸や、王子様の彫像でも売っている……とか?
ますます謎めいてしまって、おとぎ話みたいなイメージしか湧いてこない。
マーレも流石に私の訝しげな顔に気付いたのか、ぷくと頰を膨らませている。
「ルエラ、その顔は絶対に信じてないでしょう?」
「だってさあ……」
「こんにちは」
一体誰がどんな物を買うというのか、と言おうとした時、後ろから声がかかって、私は慌てて振り向いた。