3 願えない事さえ許してくれたみたいで、
マーレと初めて会ったのは、半年ほど前。
仕事帰りに海沿いの道でのんびり散歩していた私は、疲れ切った様子の女性がふらふらと海に入りそうな所を見かけて、助けに行った事があった。
私より年上に見えるその女性は、背格好は変わらないけれど、錯乱状態で泣き喚いていて、何とか聞き取れる範囲でどうにか話を繋ぎ合わせてみると、結婚の約束をしていた男性に二股をかけられていたようで、ショックのあまりに海に身を投げてしまおうと考えたらしい。
そんな碌でもない男のせいで命を無駄にするなんて、と思いはするけれど、彼女にとってはそれだけ辛い事だったのだろう。
とにかく何とかしなきゃと説得してみるものの、まともに話せる状態じゃなかったし、私一人の力じゃ到底助ける事なんて出来なくて、せめてロープか枝でもいい、何か助けになるものはないかと周囲を見回していた時、偶然マーレが海から顔を出して助けてくれたのだ。
***
「お姉さん、しっかりして! そんなしょうもない男のせいでお姉さんがこんな事する必要なんてないよ!」
私はそう叫びながら、目の前で海へと入水しようとする女の人の腕を、出来る限りの力で引っ張った。
目一杯力を込めている筈なのに、逆にずるずると引き摺られている形になってしまって、私は必死に説得の言葉を叫ぶしかない。
だけど、お姉さんは髪を振り乱しながら、「もう放っておいて!」と泣きながら海の方へとずんずんと行ってしまう。
お姉さんを騙した二股男は絶対に許さないし、バチが当たってしまえ! と私まで泣きたい気持ちでいっぱいになる。
こんな状態で海に入ったらどうなるかなんて、地元民でもない私にだってどれだけ危ない事か分かっているし、放っておく事なんて出来ない。
此処は人気のなくて滑りやすい岩場だし、浜辺の方なら人がいる筈だから、何とかそこまで連れて行きたいけれど、目の前の女性は混乱状態で周りが見えていないからか、私なんかが力いっぱい引っ張った所でびくともしない。
どうしよう、どうしよう。
せめてロープか何か道具があれば良いのに、何も見当たらなくて、私は振り払おうとする女性の腕を離さないようにする以外、何も出来ない。
海はもう目前で、私は絶望的な気持ちになってしまう。
どうしよう、どうしたら。どうしたら。
「ねえ、何か困ってる?」
「え……?」
女性の足が海面に入るまであと僅か、という時、不意に場にそぐわないのんびりとした声が聞こえて、私はきょろきょろと辺りを見回した。
近くに人気はないし、浜辺の方から誰かが来てくれたわけではないようだった。
おかしいな……確かに声が聞こえたんだけど。
そう思って、ふと海の方へ顔を向けると、そこに居たのは私と同い年くらいの男性だった。
流れる銀色の髪に、瞬く銀の睫毛に縁取られた、鮮やかなピーコックグリーンの瞳。
あまりにも綺麗で、いっそ人間味すら感じられない美しい容姿をしているその人は、すいすいと私の側まで泳いでくると、ことりと首を傾けた。
透き通るピンク色の海から見えるその半身は、魚の尾によく似ている。
(もしかして……、人魚族?)
初めて目の当たりにする長命種——それも人魚族に、私はどうしていいかわからずに、思わず固まってしまう。
普通に話をしていても、大丈夫なんだろうか?
長命種は基本的に自らの種族だけで群れを成し、人間と関わるのはごく一部だけだと言われている。
だけど、結局の所、彼らも人には変わりない筈だ。
身構える方が失礼かもしれない、と思いつつ、とても精巧に作られた美術品のような整った姿形をしている彼を、ただただ見つめてしまう。
「助けてあげようか?」
問いかけられて、私はどうしていいか分からなくて、唇を噛み締めて黙り込んでしまっていた。
自分が首を突っ込んでしまった事に、この人を巻き込んでも良いのだろうか。
それに、助けてって言ったところで、本当に助けてくれる保証なんてない。
躊躇わずに誰かに助けを求めて手を伸ばすなんて、そんな事を、見ず知らずのこの人に許して貰えるのか。考えるだけで、怖くて仕方がない。
心臓がばくばくと強く拍動する。
何も返せなくて固まってしまう私に、彼は嫌な顔をする事もなく、それどころか、にこっと人懐っこい笑顔を浮かべるので、こんな状況下にも関わらず、私は力が抜けてしまった。
笑うと少し幼く見えるからか、先程までの人間味の感じられない無機質な印象とは全く違って見える。
人魚なのに、何だか、子供っぽいというか、犬っぽい。
そんな事を密かに考えていると、彼はにこりと笑いかけて私の手を取って、小さく、本当に小さな声で、歌を歌い出した。
囁くように優しいのに透明感のある歌声。懐かしいようで聞いた事もない不思議な音階。聞き取れはするのに人間の言語とは全く違う、独特な言語で紡がれる歌。
目の前で聞く彼の綺麗な歌声に、私はすっかり引き込まれてしまう。
先程まで錯乱状態だった女性も同じように驚いた顔をして、人魚族の男性を見ていた。その足元には、まるで意志を持つかのように、小さな波が幾重にも押し寄せている。
私は思わず女性の手を離してしまって慌てるけれど、私の手を引く人魚族の彼は、大丈夫、とでも言うように、緩やかに首を振っていた。
ざぶんざぶんと押し寄せた波によって、女性はよろめきながら海辺から離れた場所へと後退していき、やがて勢いに負けてへたりと腰を下ろしてしまっている。
それを見た人魚族の男性が歌を止めると、波は何事もなかったかのように引いていた。
これが、人魚族の力、なのだろうか。
人魚族をはじめとした長命種と呼ばれる種族は、人間では敵わない程の巨大な力や魔法のような能力を持っていると言われている。
だけど、先程見せた人懐っこい表情のせいか、私は不思議と怖いとは思わなかった。
「えっ、に、人魚様……?!」
女性は水の中で腰をついてしまったせいか、すっかり正気を取り戻したようで、慌てた様子で人魚族の男性に頭を下げている。
「何かあったか知らないけれど、海に身を投げるような真似はしないで欲しいな。この子もこんなに心配しているのだから」
「は、はい……」
人魚族の男性はそう言うと、私に笑顔を向けていた。
太陽の日差しよりも眩しいその笑顔に、私は何だか恥ずかしくなってしまって、俯き加減でふるふると首を振る。
「あの、ごめんなさい、私、どうかしてました……」
「お姉さんは何も悪くないですよ!」
悪いのは二股なんかしてた男の方なんだから!
私はそう言いながら、勢い余って前のめりになってしまう。
「お姉さんはそれだけ一途なんだもの! 絶対に、もっと素敵な人に巡り会えます!」
私が両手を握り締めてそう断言すると、女性はぱちぱちと眼を瞬かせていたけれど、その内に、ふ、と笑みを零している。
良かった、笑ってくれた! と私はそれだけで嬉しくて笑顔になる。
「もしまた辛くなった時は、海風亭に来て下さい。美味しいご飯奢りますから!」
美味しいご飯を食べたら、元気がなくても身体の中から生きる気力が湧いてくるものだから。
そう言ったら、女性は困ったように笑って、「ありがとう、今度必ずお店に行くからね」と私にお礼を言ってくれた。
「身体が濡れているから、早く家であったまって下さいね」
「ありがとう。あなたも風邪を引かないようにね」
「はい!」
頭を下げる女性に手を振って見送ると、私はそっと横目で海の方を見た。
人魚族の男性は町の方を見つめていたけれど、私の視線に気がつくと、ピーコックグリーンの瞳を柔らかに細めて笑ってくれる。
「あの、手を貸してくれてありがとうございました」
何かお礼が出来たら良いんですけど、と申し訳ない気持ちで私は頭を下げた。
生憎お金はないし、得意な事もなければ秀でたものもない。
働いている飲食店での料理くらいなら奢れるけれど、人魚族の食事も習慣も礼儀も知らないので、そんな事でも大丈夫だろうか、と私は困り果ててしまう。
だけど、彼はそんな事は少しも気にもしていない様子で、首を振っていて。
「お礼? じゃあ、明日また此処に来て、一緒に話をして欲しいな」
「えっ?」
突然の提案に私は戸惑うけれど、断る理由もないので、すんなりと頷いた。
彼はそれにぱっと嬉しそうな顔をしているので、私は小さく笑ってしまう。
さっきまではあんなに絶望的な気持ちでいたのに、彼のお陰で、今はこんなにも明るい気持ちになっている、と思ったからだ。
「僕はマーレ。君は?」
「ええと……私は、ルエラです」
戸惑いながら名前を言うと、彼は音の響きを確かめるように何度か口の中で呟いてから、にっこりと笑っている。
「ルエラ、また明日ね!」
そう言って、マーレは嬉しそうに手を振ってくれるので、私は胸の中がふわりとあたたかくなるような、そんなくすぐったくてとても心地いい気持ちになって、つられるように彼に手を振っていた。