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1 そして、その手のひらの上へ乗ったの


「ルエラ! 早く!」


 窓の向こうを伺いながら、女将さんが焦ったようにそう叫ぶ。

 私は慌てて身につけていたエプロンを脱ぎ捨てると、店から飛び出した。

 扉に取り付けられたベルがからんと音を立て、食堂の看板が勢いに合わせてガタガタと揺れている。

 吹きつけてくる潮風が、いつもなら爽やかに抜けていくのに、今は生温く身体にまとわりつくようで、私は思わず顔を(しか)めてしまった。


「気をつけて行くんだよ。人魚様によろしくね!」

「はい、行ってきます!」


 後ろから声をかけてくれる女将さんに手を振って、私は転ばないよう、それでも出来る限り急いで、坂道を駆けていく。

 突き抜ける程に高い青空と、果てのない地平線が広がる透き通るピンク色の海、緩やかな坂道に沿って並ぶ蜂蜜色の家屋、それらを見守るように高台に建てられた時計台。

 それが、私の住むこの港町で見える、日常的な風景。

 だけど、正面から吹き付けてくる潮風はやけに生温く湿気を帯びていて、白いワンピースの裾ははためき、お母さんから貰ったネックレスに通したベビーリングは走る動作に合わせて胸元で揺れ、太陽の光が当たるときらきらと光る。緩く二つに結った長い赤髪は、背中でぱたぱたと跳ねていた。

 今日みたいな晴天の空には似つかわしくない嵐の前兆にも似た空気から、異常な状況だというのはよくわかった。眼下に広がるいつもなら穏やかな海が、変に波打っている事も、それを証明している。

 私が今向かっているのは、港とは反対方向の静かな浜辺に続く細い道で、遠くには船繋(ふなかが)りしている白い漁船の群れがゆらゆらと揺れているのが見える。このまま波の勢いが増してしまったら、転覆でもしてしまいそうだ。

 急がないと、と私は上がってきた息を誤魔化すように小さく咳をして、坂道を駆けた。

 一、二分ほど全力で走り、ようやく浜辺に近づいてくると、道には細かな砂利と砂の感触がサンダル越しに伝わって、ざりざりと音を立てていた。

 そのまま真っ直ぐに突き進み、白い砂浜に足を踏み入れれば、先ほど見た時と変わらず、透き通るピンク色の海の水面が意思を持つかのように変に揺らめいている。

 きょろきょろと辺りを見回して、海の音に微かに混ざる小さな歌声に気付いた私は、近くの岩場に向かって思いっきり叫んだ。


「マーレ、いるんでしょう? 歌を止めて!」


 全速力で坂道を駆け降りた事と大声で叫んだ事で、息が上がって苦しくて堪らない。

 それでも、微かな歌声が潮風に乗って伝わってくる岩場の方へと、ふらつきながら走っていく。砂に足を取られて、鬱陶しい。思わずサンダルを脱ぎ捨てた私は、少し離れた岩場の上で腰掛けている人物を見つけて、再び大声で名前を叫んだ。


「マーレーーっ!」


 呼び声がようやく届いたのだろう、振り返るその人が歌声を止めると、妙に波打っていた海は嘘のように凪ぎ、いつもの穏やかさを取り戻している。


「ルエラ!」


 ぱあっと顔を輝かせて振り返る彼の、腰まで届く銀の髪は、青とも緑ともつかない不思議な艶を持ち、光を弾いてきらきらと輝いている。

 陽光の元でも輝くようにきらきらした瞳は鮮やかなピーコックグリーン。

 小麦色の肌が映える、うっすらと光沢のある生地を幾重にも重ねたような衣服を身に纏い、しなやかな腕や首元は豪奢な装飾品の数々が美しく飾り付けられている。

 女性と見紛う程に整ったその美貌は、蒼天の空の元でさえ、眩いばかりだ。

 そして、彼を語る上で一番の特徴と言えば、彼の服の裾から覗く、魚の尾を思わせるその半身だろう。

 この世界に存在する者の中には、長命種と呼ばれる、長い時を生き、人間では到底太刀打ち出来ない程の巨大な力を持つ様々な種族がいる。彼はその中でも海の中で暮らす唯一の種族——人魚族だ。

 見た目の年齢こそ、私と同じ十八歳くらいにしか見えないけれど。


「ルエラ、大丈夫?」


 ぜいぜいと肩で息をしながら、私はなんとか彼の側まで歩いていって、大きく息を吐き出してから、周囲を見回した。

 波の引いた浜辺では小さな生き物が驚いたように岩の隙間に隠れていて、少し離れた砂浜には脱ぎ捨てた白いサンダルが見えるけれど、今は取りに行く気力すらない。


「歌うならっ、海の中にしてって言ったでしょう……!」

「だって、ルエラが来るの遅いから」


 正当な非難を向けた筈なのに、彼はほんの僅かも悪びれた様子はない。

 それどころか、子供のようにきょとんとした顔で首を傾げているので、怒っている私が何だか馬鹿みたいに思えてくる。


「私、ちゃんと約束の時間守ってるんだけど」

「人魚族に時間の概念を説かれてもなあ」

「とにかく、本当に止めてってば。船が沈んだりしたらどうするの」


 私がこんなふうにマーレに怒るのには、理由がある。

 彼のような人魚族は、地上で歌を歌うと、たちまち海を荒らしてしまうのだ。

 先程のように軽く歌うだけでも波が立ち、本気を出せばこんな小さな港町など、きっと簡単に沈められてしまうだろう。

 勿論、それが本気ではないというのは彼を見ていればわかるし、ただの脅し文句なのだろうけれど、絶対にないとも言い切れない。

 だからこそ、私は何度も何度も、それこそ会う度に地上で歌わないようにと言い聞かせているのに、まるでそんな私を翻弄するかのように、度々こうして海を荒らそうとしているのだ。

 絶対に、絶対にわざとに決まってる……!

 そもそも、私が彼に会いに来なければ、この町が海の藻屑となるかもしれない可能性があるので、私が会いに行かないという選択肢は与えられていない。

 私に許された選択肢は「イエス」か「はい」だけだ。理不尽過ぎる。


「けど、人間が作る船ってちょっと弱すぎない? ここの船もあの水上列車くらい頑丈に作ればいいのに」


 そう言って彼が指差した水平線に、ガタンゴトンと音を立てて、水上を滑るように走る列車が見えた。

 およそ百年前程、未曾有の大災害によって陸地の半分以上が海の中に消えてしまったこの世界で残された、たった五つの島国。その国の中でも特に優秀な魔術師や技術者を集めて互いに協力し合い、作り上げたというのが、あの水上列車だ。

 先頭車両に取り付けられた煙突からは、魔術で出来たうっすらと青い煙が流れ出ていて、七色の光を撒き散らしながら空気の中へと溶けて消えていく。

 水上列車は五つの島国を繋ぐように運行していて、光を反射しながら走る濃紺の車体は、どんな嵐にも大きな津波にでさえ耐えられると言われている。聞いた所では、走行開始から一度も休む事なく走り続けているらしい。


「あれは五つの島国が力を合わせて作った特別製なの! そんなの一般人が真似できるわけないでしょう。とにかく、マーレの気分で海を荒らさないでよ」


 呆れたようにそう言った私が岩場に腰掛けると、彼は嬉しそうに側に寄り、ピーコックグリーンの瞳を柔らかに細めて笑みを浮かべている。


「はあい、ごめんなさい」


 そう言って、走ってきて乱れてしまった私の髪を、マーレの長い指先が優しく直してくれている。

 寸分に狂いなく作られた美術品のように綺麗に整った顔が近くにあって、私は思わず顔がぱっと熱くなってくるのを感じてしまい、唇を引き結んだ。

 少しも悪びれた様子のない謝罪の言葉を吐いているのに、その見目の良さでこうして誤魔化されている気がしてならない。


「でも、ルエラは一生懸命走って来てくれたんだね」


 私はじわじわと顔を俯かせて、視線を海の方へと向けた。

 見えていなくても、マーレが嬉しそうな顔をしているのが、わかる。

 頰や耳が熱いのは、きっと、ここまで全速力で走ってきたからでも、眩いばかりの日差しのせいでもない。


「いつも頑張っていて、一生懸命で、かわいくて。僕はやっぱり、ルエラが大好きだよ」


 ふふ、と吐息混じりに笑うマーレの気配がするけれど、どうしても赤くなった顔を見られたくなくて、振り向く事が出来ない。

 ありえないくらいに振り回してくるくせに、ありえない程に褒めそやして甘やかな言葉を紡いでくるこの人魚に、私はいつも、こうして翻弄されている。


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