5
燼滅5
ああ、やっぱりこのゲームは最高!
夢愛は満足げに自身のスマホを白いテーブルに置いて溜息を吐いた。
スマホの画面には豊かな金髪の美少女と黒髪の美しい青年が手を取り合い、見つめ合っていた。
彼女は今年26才になるしがないOLだ。否、オフィスレディというのは烏滸がましいだろうか、ただの事務員だ。所謂Fランの大学でそこそこいい成績をとって、就職は大学とパイプのある会社に内定を断らないことを条件に入社した、つまり就活をはなから諦めたのだ。いや、一度面接は行ったことがある。田舎の会社だったが、残業を厭わないか聞かれて、バリバリ出来ますと答えていいタイプの会社かと悩んだ一瞬の間で落とされた。まあ、営業ノルマがあると聞いていたので正直受からなくて良かった、と思う。一人だけ私の卒業論文や研究に関心を示してくれたお兄さんがいたが、やはり、できます、頑張りますを好む年上の人事に比べて小難しい専門用語で能力を評価してくれる若めの人事にはある意味で人を見る目はなかったのだろう。たしかに、私は「向いていなかった。」だからといって、今の仕事が良かったか、といえば、微妙なところだったが良かったのだと言い聞かせている。責任を負いたくないからこの仕事をしている。ただの事務員だ。
その小馬鹿にしてる内心がきっと先輩事務員の癇に障るのだろう。隠していても女の勘は鋭いものだ。
人間関係はどこに行ったところで難しい。
今は遅めの昼休憩。
誰もいない食堂で食べ終わったお弁当箱を片付けてから、スマホのゲームに夢中だった。
本当は戻ってしないといけない仕事は山積みだったが、今日は何をしても上手く行かない日なのだから、気まずい先輩事務員や上司と1秒でも離れて、それに忘れてしまいたかった。
画面に目を落とす。
彼女の今の心の支えはこのゲームだけだった。
このノベルゲームに没頭している間だけは、辛い現実を忘れられた。仕事は結構好きだけど、仕事場にいる人達は全員嫌いだ。事務所にいるときは息が詰まるし、事務所から離れている間だけでも楽しいことで頭をいっぱいにしたい。でないと多分私は壊れてしまう。
「そもそも推しがいるときって、現実がキツイときなんだよなぁ」
と誰もいない休憩室で呟く。
それにゲームはとてもいいところなのだ。脳内を現実から切り離して、ゲームの世界に浸る。
ヒロインであるウル王女は実は少年で、王家が女神と取り交わした約束のために姫として育てられていた。ウル王女は女神の加護を受け美しい姿をしていて、その心根もたいそう純粋で、隣国の龍王と出会い、恋に落ちる。龍王の傷付いた心を癒やすウル王女はまさに天使だし、この美しすぎるカップルまじ推せる、なのだ。
ああ、ウル王女いいなぁ。私もこんなふうに見目が良くて、心も綺麗な人になりたい。
毎日失敗ばかり繰り返しているとどんどん卑屈になるし、まあ、食べると上や下から全て出てしまうので仕方なく少食になったから痩せることは出来たけど、それはきれいに痩せたというよりも、やつれたというかんじだ。基本おかゆとスープしか食べていないのだから仕方ない。小麦粉や油ものを食べると何時間もトイレから出られなくなってしまうし、酷い気分になる。
首の後ろは骨が浮いてきたし、顔色も相当悪い。体のバランスが悪くなったせいか、顔が大きく見えるのは頂けない。事務員の制服もピッタリのものを入社時に購入したのに、ウエストが何サイズも下がってずり落ちるので仕方なくやめていった先代事務員のスカートを制服倉庫から拝借していた。それほど美容意識は高くないけれど、美しいものへのあこがれは誰でもあるのだ。口では興味がないふりをしても、少しでも美しいものへの憧れは推し、という形になって現れる。私は冴えない、だけど画面の中で大好きな彼らがいる。美しく、強く、すべてを手にしたヒロインとヒーロー。
いいな、私もこんなふうに生きてみたい、この辛い人間関係や、命を浪費してお金を稼ぐだけの日常から離れたい。もういっそ、消えてしまいたい。
画面を見つめる夢愛の瞳は、暗く淀んでいた。
また、夢を見た。
あの美しい獣のいた森だ。
最初に彼を見てから毎日この夢を見ている気がするが、どうも朝起きるとぼんやりといい夢を見た、という気分しか残っていない。夢で何をしているのか知らないけれど目覚めると体がとても軽い。
今までであれば目覚めても体や頭が重くて、中々立ち上がることができないでいたのに、あの夢を見ると不思議とスッキリと目覚めることができるのだ。
神獣の夢なのだから、吉兆には違いないだろう。ただの夢と片付けられないのはあの夢はここ数日前まで見たことがない夢だからだ。きっと私の中にいるフロールの影響が出ているのだろうと推察する。
「お嬢様」
思案していると、控えていたヤマモモに声をかけられてビクリとする。いけない、自分の世界に入りすぎていた。悪い癖なのは分かっているがどうしても考え事をしていると周りの状況から乖離してしまう。
「ヤマモモ、父上さまから返答が昨日来たのよね」
「はい、お伝えいたします。」
昨晩、父親からヤマモモを使って伝言が届いていた。今日でこの神殿に来て3日目だが、父親たちは早くも何かを掴んだようだ。私も自分に取り憑いている復讐の女神のフロールから聞いた話を伝えてはいたが、それが確信になったらしい。つまり、結論から言うと「エリニエスの件は解決したので、明後日には迎えに行く」ということだった。本当に一週間以内にかたをつけようとしているのだ、この我が父親は。こんなにも信頼できる、、、頼もしく感じるのはきっと身体の記憶なんだろう。
魔力過多問題については教会以外の神器などで対応可能だし、フロールについてお父さまが詳しく調べたい、出来れば直接話したいとのことだった。
確かにフロールは信用していいのよく分からないが、私を助けるメリットもない、
まって
「あの、フロール聞いてる?」
『なに~、なにか用事?』
頭の中で、声がするのは未だ慣れない。事情を知っているヤマモモは無表情で控えている、流石、順応力高いなぁと関心する。
「フロールはどうして、いやいつ私の中に入ったの?」
『そうそう、そういえばあんた、気絶してたもんね。すっかり言うのを忘れていたわ、あんたが教会から逃げ出して行き倒れているところをアタシが見つけてね、それで、アタシはレインのお願いを聞いてあげてあんたを助けてあげてるのよ』
フフン、と少し得意げに言うが、全く意味は分からなかった。
「えーと」
『なに?だから、あんたが協会から逃げ出してボロ雑巾になってたところを屋敷までおくってあげたの』
「ええと、フロールが運んでくれたんですか?」
『いや、運んだのはレインだよ』
実体のない私が運べるわけないじゃん、と呆れられる。
「あの、そのレインって?」
『レインはレインだよ。アタシはあいつにどでかい借りをつくってやってるのさ』
だめだ、話が通じない。いや、敢えて誤魔化されているのかもしれない。
頭に片手を当てて目をつぶっていると、コケモモから声がかかった。
「お嬢様、お話は終わられましたか?」
「あ、あの、父上さまに伝えてください。レインという方が私を屋敷まで運んでくれたそうです。そうフロールが言っています。フロールはこの方と知り合いのようです。」
言うと脳内で『使いっ走り扱いなんてレイン、アタシをなんだと思っているんだ!!神ぞ??アタシこそ大地の女神フロール様ぞ!』と喚く声が聞こえる。
それを無視してコケモモを送り出す。
あの父親たちならすぐに調べはつくだろうし、そのレインという恐らく人物が誰であるか分かればフロールを信用できるかどうかの判断基準になる。
まあ、最初に助けてもらった時点である程度の信頼はしている。私を助けるメリットは恐らく、いや殆ど無いだろう、フロールのような高次元の存在にとって人間など取るに足らない命のはずだ。
「フロール、ありがとう」
『なに、感謝しなさい、そうやって崇め奉れば私は新たに神格を得て自由になれるのだから!』
おどけた調子で言うが、その声はどこかさみしげだった。
「静粛に!」
ツルっぱげ司教が声を張る。
講堂には大司教を始めとして助祭や司祭、侍祭さらには普段は教会にはいないはずの祓魔師や貴族である区域の枢機卿までが顔を揃えていた。誰も彼もが白い引きずるような着物を身に着けており、真ん中に集められたエリニエスの子供たちは一層薄汚れて見えた。
大聖堂の方が先日の騒動で使い物にならなくなっている今、少し手狭ではあるが仕方のないことだったのか、この中では一番高い身分であろう綺羅びやかな銀糸の衣装を身にまとった枢機卿が座り心地の悪い椅子に身じろぎしていた。室温もこの人口密度では外気より数度上がっていることだろう。底冷えする大聖堂に比べて子どもたちにとっては快適だった、それが硬い木の床であっても石造りの床よりは幾分マシといえるかもしれない。
そう言えば法王がいない。何でいないのか首を傾げるが周りの子供達に聞いたところで答えは得られないだろう。
大司教は立派に編まれたヒゲに手を当てて、芝居がかった仕草で立ち上がり両手を広げる。
「女神アリアンロッドの無垢なる子供たちよ、信徒たちよ。女神様はお怒りになられた。危うくダフネオドラ教会は女神様の加護を失うところだった。しかし、我らの信仰は通じ、迷える小鳥達を救い給わんとする一筋の光明を捉えた」
おお、と助祭や司祭たちが感嘆する。
頭の中ではフロールの嘲る笑う文句が聞こえている。それよりもなんだか武装した僧兵の数が多いように見えるのだけれど一体何をしようとしているのだろうか、いや、まさか。
一拍おき、また大司教はヒゲに手を当てる。
「女神様より神託が下った。アリアンロッドより西方諸国にて蜂起があったと、かつて女神に淘汰されし魔女の軍勢が女神の遺物を取り返さんとしているのだと。」
そんな!とざわめきが起きる。当然だこれから戦争が起こるって言っているんだ。予想外の動きにフロールさえも息を呑んでいた。
「だが、我らの信仰は魔女共の侵攻には屈せぬ。遺物は我らにあり、女神の加護は我らにあり!」
周囲のどよめきの中の話し声に聞き耳立てる。
「遺物が奪われれば我我は」とか「遺物こそ、我々が守るべき」と聞こえてくるが、遺物が一体何であるのかそこから得られる情報は無かった。
今は、頼れる人物はいない。近くにいたうすピンクの髪の少女の腕をつかむ。
「ねえ、遺物って何?」
「えっ、わ、わかりません。」
びっくりして、肩を揺らした彼女は私の姿を頭の上から足先まで見て、更に萎縮した。
「離せ!レイラがビビってるだろ!」
パシンと手をはたき落とされた方を見ると少し気の強そうな金髪の少年が睨んでいた。背の丈はうすピンクの女の子よりは高く、私とそんなに差が無いようだった。
「ごめんなさい、怖がらせたい訳じゃなかったのだけど」
私も驚いて謝ると、少年は訝しげな顔をした。
「お貴族様なのに、変な奴だな」
それは私が謝ったからだろうか、彼の言うお貴族様とは偉そうで傲慢なことを言うのだろうか?ここは逆ギレがテンプレだったのだろうか。
「多分、あなたの想像してるお貴族様と私は違うわ、常識外れだと侍祭に言われたもの」
そう言うと少年と少女は顔を見合わせて少し表情が和らいだ。
「あの···もしかして、シーラの言ってた、ミルドレッド様ですか?」
オドオドと視線を彷徨わせながらピンクの髪の少女は言う。良かったシーラの知り合いなのか。
「そうよ、シーラの友達のミルよ。ミルでいいわ。」
金髪の少年は小さく息を吐いた。どこか、ホッとしたような。
「どうしたの?」
「いや、オレはお貴族様の手を叩いたんだぞ、普通なら鞭打ちの刑だ。シーラの友達てことは信頼できる。すまなかった、叩いて。」
それを聞いてサッと血の気が引く。この国は身分制度がここまで根強いのかと。いや、それを恐れず友人を救おうとした彼はきっと信頼できる人物だろう。
「いいえ、気にしないでビックリしたのよね。それより貴方は遺物って何かわかる?」
少し言い淀んでいたが、少年は小声で言った。
「神樹とか言われてる化け物の中に埋まってるものだ。それは女神の血とか、願いを叶える卵だとか、救世主の骨だとか、勇者の剣だとか色んな噂があるから何が本当なのかまではしらねぇ。」
「まってまって、神樹を見たことあるの?」
気になる情報が多すぎる。神樹が化け物?
「そりゃそうだろ?そもそもオレたちは神樹から生まれたんだぞ」
いや、まあそうだけど、魔法があるのだしなんでもありなのかと。
その神樹から生まれた割にはこの少年は思い出すだけで悍ましいという顔をしている。一応、母なる存在にそんな感情を持つものだろうか。一体神樹はどんな姿をしているのか。
「神樹の場所、わかる?」
黙って少年の指差す先は、床。
「ここの地下だ。」
思考の外で武装した僧兵たちの雄叫びが上がった。
それから、大司教は何を話していただろうか、部屋に戻っても考えることが多すぎて頭の中がこんがらがっていた。
「フロール、魔女たちの蜂起って」
脳内で返事がある。
『何も知らないよ。確かにダフネから追い出された神性達がいるのはいるけど、結託して蜂起、なんてするタイプじゃないなぁ。みんな個人主義というか自由主義だからね』
自己中とも言う、とフロールは付け加える。
その協調性のなさが原因であの白い女神アリアンロッドにみな嵌められて、うっかり神格を落としたらしい。うっかり?神様もうっかりするのか。
「うっかり···」
『なによ、文句あるわけ』
「いえ、蜂起、は嘘だと思いますか」
『わかんないわよ、でも戦争が起こるのは事実かもしれないわね。あんたの父親たちがなんとかするってのもこの混乱に乗じて、てことかもしれないぞ?』
まさか、あんたの父親たちが焚き付けたって訳じゃないでしょう、とフロールが笑うが、全く笑えない。父親が戦争のきっかけを作っていたとしたらそれはそれで複雑だ。
戦争、戦争なんておこったらこの国はどうなるのだろう。子供たちは?
『そもそも、ダフネのエリューニス達がなんで今さら女神の遺物なんか・・・まって、遺物って・・・まさか、そんな』
頭の中でアワアワとフロールが慌てている。
「どうしたの?」
『エリューニスは知らなかったんだよ、遺物の場所。いや、見当はついてたけど入れなかったんだ今までこの教会に。』
ハッとして息を呑む。
「私がフロールと一緒に入ったから」
『そう、器に入れば結界を抜けられると気付いたんだ。中々安定して入れる器って普通は無いからね。滅多なことでは私達は器には入らないんだけど。・・・でも気付いた、強い器を見つければ女神に復讐できる、遺物を奪えば女神から引きずり下ろせる。』
「それマズい」
マズいマズすぎる。
つまり、復讐の女神共が使うのはこの国の子供たちの体だ。既に器を見つけて入っているのか、これからそれが起こるのかは分からないが、それに気づいた白の女神はあんなに器を壊すことを急いでいたんだ。
『不味いよぉ、白の女神ほどじゃないけど黒の女神たちが暴走したら弱い器の子は最悪死んじゃうよ!それにあいつら神性は話が通じないんだ!』
問題はエリニエスだけじゃない。
この教会の僧兵達が殺そうとしている相手は、器になった子供たちなのだ。
「お父さま達はどこまで把握してるの」
『でも魔法が使えない貴方は大人しくしているべきね』
冷静な声はフロールのものだったが、それは私の中のもどかしさを刺激した。内心の諦めをはっきり言葉にされたのだから当然だろう。ぎゅっと心臓を掴まれたような息の詰まるような気持ちになる。
「たしかに、私には何もできない」
だけど、黙って見ていることは出来ないのだ。眼の前で苦しんでる人間を無視は出来ない。それほど、出来た正義感のある人間ではないはずだけれどどこかで「私は出来る」という確信というか根拠のない自信があった。なにか、私はわたしのできることをしなくてはならない。
多分それは、あの父親二人に護られている、という安心感なのだろうか。
とても、不思議な感じだ。
死ぬのは怖くない、だけど、自分が何もできないのはもっと怖いことだ。
私のぐちゃぐちゃになったはずの昔の記憶はそう言っていた。
「フロール、私は神樹を探しに行くわ」
『そう来なくちゃね』
フロールの声は何故か楽しげだった。
暗闇の中、廊下の軋む音に気を使いながら歩く。
月明かりに照らされて明かりがなくても廊下を見渡すことが出来る。
キシッ、小さく床の音がして息を呑む。
『ちょっと早くしないと見回りの神官が来るわよ』
脳内でフロールが急かすが、大きな音を立てて見つかっては元も子もない。無視して足元に集中する。
廊下を右に曲がり、神官の事務室を通り過ぎると中で話し声がしていた。ワイワイと騒いでいるのできっと仲間内でゲームでもしているのだろう。
「よし俺の勝ちだ。1000ルナだ」
「いやいまのはないだろう」
「はあ?イカサマだって言うのか?」
なにか賭け事だろうか、こういう行為は教義で禁止されていそうなものだが。
「おい、お前見回りの時間だろ」
「ああ、しまった行ってくる」
マズい、こっちに来る。柱の陰に隠れる。事前調査では見回りの時間は既に過ぎているはずだしこの時間感覚の緩さってなんなの?ここではこれが普通なの?文句を言っている場合ではないが、彼らがこっち来てしまえば間違いなく見つかってしまう。
脳内ではフロールが『だから言ったのに〜』と言っている。そう言うなら神とか魔法とか特別な力でなんとかしてほしいものだが、フロール曰く『アタシ達は実体には干渉できない、つまりアタシの魔法自体は人間たちには通用しないのよ』という。女神と名乗るには少し頼りない。
ギィ、神官の部屋のドアが開く、その時腕を引っ張られた。
「こっちだ」
振り返ると金髪の少年がいた。あの地下に神樹があると教えてくれた本人だ。
「どうしてこんなところにいるの?」
思わず小声でまくしたてるが、彼は自身の薄いガサガサの唇の前で人差し指を置いて眉根を寄せた。
静かにしろということか。暗闇に少年の青い瞳が光る。顔は煤で汚れているが妙に整った顔だなと思う。金色のまつ毛は長く、少し頬も痩けているが少し栄養をつければ見違えるほど美しくなるはずだ、そう、あのウル・アリアルーナのよう・・・
「なんだよ」
ジロジロと不躾に見ていたのが不快だったのか、ジロリと睨まれる。見回りの神官たちから離れたことを確認してからほっと息を吐く。
「あ、いや、ありがとう」
「別に、でも新樹を見たいんだろ?」
あんなにも神樹について聞いていたからと、金髪の少年は呆れたように言う。ポカンとしてると腕を強く引っ張られた。
「ほら、地下洞窟への階段の場所教えてやるよ、ただし・・・それは取引だ」
同じくらいの少年だというのに、その瞳には感情は読み取れないほど複雑な顔をしていた。妙に大人びているような。
「わかった、何が望み?」
私にできる範囲のことなら良いのだけれど、と不安は顔には出さないように注意する。
「金だ」
私は躊躇わずに頷いた。
良かった、無茶なお願い事ではなさそうだ。
でも確認しておかないといけないことがある。
「ひとつ、確認だけど」
「なんだ」
「あなた、アリアルーナ王家と血縁関係はあるの?王の隠し子とか」
「まさか!ただの平民だ。門兵の親父だけが家族で親せきもいねぇよ」
その様子は疑いなく、彼自身は予想外の質問に驚いているというかんじだった。
「俺が王家ゆかりの血筋っていうならこんな扱い受けてるわけがねぇだろ」もっといい暮らしをしてるはずだと笑う。ということは本人は知らないことなのだろう。
「ところで、名前を聞いていなかったよね」
「エレクだ」
「よろしくエレク」
そう言うと、エレクはふわりと初めて柔らかく笑った。なんだかあのとき見たウルの顔が重なって見えた。
エレクに案内されてついたのは大きなかんぬきのついた古い木の扉だった。ガチャガチャと錆びた金具を抜くとギィ、とあの独特の軋む音がして扉は開かれた。
廊下に吊るされたランタンの光は1メートル程先まではなんとかうっすらと見えるが、その先はまるで吸い込まれそうな闇だった。薄暗いとか、そういうレベルではない。手を差し込めば飲み込まれてしまいそうな黒だ。
エレクは自分で作ったらしい松明を取り出すと近くのランタンから火をとった。
「こっちだ」
腕を掴まれると、エレクのひんやりとした体温が伝わってきた。
「なんか、この暗さ変ね」
そう言って進むことを躊躇うとエレクは頷いた。
「そうだ、だから絶対手を離すなよ。戻れなくなる。」
松明がすぐ前の足元を照らしているはずなのに、深すぎる闇は自身の身体を飲み込み、身体が無くなって意識だけが空間に浮いているような感覚になる。平衡感覚がおかしいのか手を引かれていないと真っ直ぐ歩けているのかも怪しい。一人だとこの中に閉じ込められていたかもしれない。
エレクは道を分かっているのかどんどん石の階段を降りていく。
「なんか、へんな感じがする。」
呟くと、広い空間なら声が響きそうなものだが、意外にも音は反響せず籠もっていた。この空間になにかがぎゅうぎゅうに詰まっている、そんな息の詰まるような感じもする。
「分からないか?迷わせの結界が貼られている」
「どうしてエレクは平気なの?」
言いながらも、自分の身体が消えて飲み込まれていく気がして身震いする。
「俺は・・・いや、行ったことあるから」
どれぐらい階段をおりただろうか、かなり長い時間降りたはずだ。漸くして少し開けたところに出たらしい。
階段がそこで途切れ、古くすこし湿った石畳が足元に見えた。古臭いような籠もった匂いでもしそうな雰囲気はあるが、なにも匂いは感じなかった。
「こっちだ」
手を引かれたまま歩く、石畳の掛けた所に足をとられそうになるがなんとかふんばることができた。
ぐっ、と質量感のあるねっとりとした匂いが鼻につく。獣のような、甘い花のような。
エレクの松明が指し示す方を見れば、そこには巨大ななにかがいた。何かだ。乳白色でぶよぶよとした巨体、目も口も足や手もない、何かの動物と言えないそれは肉の塊といったところだろうか。生きているのだろう、脈打っていた。生き物なのだろうか、それは。
ツゥ、と頬を冷たいものが流れた。無意識だった。湧き上がる懐かしさ、愛おしさ・・・激しい憎悪のような悍ましさ、嫌悪感。感情がぐちゃぐちゃになって晋三をギュッとつかまれたような気分になる。
それは闇の中でぼんやりと白く発光していた。表面は脈打ち、なにかが蠢いていた。
「これが、俺たちの生みの親だ」