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屋敷の門の前に誰かが倒れているとニーリアンに報告があったのは王宮からの帰る道中だった。
急いで馬車を走らせ、自宅についたところでその行き倒れの者の正体を知らされた。リトに案内された部屋では泣きつかれて眠っているレイナードと彼の伏せっているベッドには小さな子供が寝かされていた。
ニーリアンは慌てて執事を呼んで状況を確認する。
屋敷の門の前でボロボロになった子供が倒れており、最初は孤児の行き倒れだと見つけた庭師は思ったらしい。
直ぐに庭師が門番に報告し、門番が屋敷の執事長であるリトに伝えたことで事が発覚した。
髪の色も、傷とドロや火傷でその面影は無かったものの、リトはその少女がミルドレッドであることを悟った。
あまりに酷い姿にレイナードに見せるのは憚られたが、報告するほかなかった。
その姿を見たレイナードはどんな気持ちだったんだろうか、ニーリアンは想像するだけで胸の奥が締め付けられた。
怪我や髪の色はレイナードの再生魔法で殆ど元に戻ってはいるのだが、ニーリアンの知っているミルドレッドではなかった。
娘はもっとふくよかだったし、こんなに痩せこけてはなかった。それに神殿に入ったのは5歳の頃だった筈だが、それから2年も経っているというのに背は殆ど伸びていないようだった。
ベッドの傍らに膝を付き、目覚めぬ娘の頭を撫でる。
なぜ、娘が、ミルドレッドがこんな目に。
神殿に激しい憎悪を抱く。
そもそもニーリアンはこの国、アリアンロッドの国教に懐疑的だ。祖父は外国の商人をしており、その経済力と戦略からアリアンロッドの宰相まで実力と根回しで上り詰めた男だ。身分にコンプレックスのあった祖父は貴族を妻にし、その息子も貴族の妻を娶らせた。
ニーリアンの祖母も、亡くなった母もそれは美しい銀髪の人で、私はその貴族の血を色濃く受け継いだ見目をしていると祖父から言われたことがある。だがその中身は自分と同じ獣だとも。
だからこそ、王家が名乗るよう下賜されたコリアリアの名と身分はニーリアンには価値のない物だし、娘とレイナードのためであれば捨てることも厭わない。祖父は身分に拘るからいい顔はしないだろう。だが、ミルドレッドにはエリニエスという問題があるために家門と国を捨てられずにいた。
そもそもエリニエスとは祖父の祖国では聞いたこともない病であり、それは魔力過多の子供たちを蝕む恐ろしいものだ。神官の話によると魔力過多であるのに、その子どもたちは魔法を使うことが出来ず、体内で暴発した魔力によって何日も高熱に魘されるのである。そうして体内に留め置けなくなった魔力が小さな身体を突き破り闇の霧のような姿となり街を蹂躙し、エリニエスの通る場所は命あるもの全てを奪う。それはエリニエスを生み出した本人も例外ではない。
何故、このアリアンロッドという国でのみこの病が発症するのか、誰も知るものはいない。
見つかってから半日は経つというのに目覚める気配のない娘。レイナードが回復魔法もかけているのにどうして意識が戻らないのだろうか。
医者に見せてもレイナードの魔法のおかげか、体の異常は全て回復していた。
「クソっ」
ニーリアンはドンッと自室の壁を殴る。
この国では美しいとされる銀髪が頬にかかる。
だが、彼にとってその髪色など大した意味はなかった。
神殿にとっては大いに意味があったが。ミルドレッドの髪は薬剤で色を抜かれて、頭皮も酷い状態だったと聞く。
ミルドレッドに変化があれば伝えるように侍従に伝えて彼らの眠る部屋を後にし、ニーリアンは一人、部屋でエリニエス関連の書籍を開く。だが、その内容はどれも不確かで調べ尽くしたものばかりだった。
ミルドレッドが5歳の頃、高熱が何日も続き、それがエリニエスであると発覚したのは1ヶ月を過ぎた頃だった。エリニエスである子供は男女区別なく15の誕生日を待たずして命を落とす。助かる方法はひとつ、神殿で保護されることだ。それも延命的な意味あいでしかなく、1番長く生きたものでも18だったと聞く。
エリニエスは何故か神殿にいる間発症する確率が低くなる。低くなるだけで、必ずしも発症しないわけではない。だが、その理由は必ず神殿にあるはずだ。1つの要因はその膨大な魔力を神殿にある神器で吸い取ることで魔力暴走は食い止められている。
発症しないメカニズムと魔力の発散方法さえあれば神殿は用無しだ。さっさとアリアンロッドからレイナードとミルドレッドを連れて国外へ出ることが出来る。
祖父がアリアンロッドへ来たお陰で自分が生まれ、アリアンロッドにいたからこそレイナードと出会えたのだというのに、アリアンロッドでミルドレッドが生まれてしまったことだけが不運としか言いようがなかった。
もし、祖父の祖国で自分が生まれて、レイナードと出会っていたとしても、『ミルドレッドは決してこの世に生まれていなかっただろう。』
だから、これは仕方のない結果だった。
考えても仕方のない恨み言は虚しいだけだ。
だから、娘は必ず救う。
方法が有るはずだ。
ニーリアンは積み上げた本をもう一度手に取った。
そして、リトを呼ぶ。
「リト、レイヴンを集めろ」
リトは静かに一礼すると少し緊張した面持ちで立ち去った。
レイヴン、それは父が遺したニーリアンの私兵だ。
彼らは影の魔法を得意とし、隠密が主に役割としてある。基本的には珍しい強力な治癒魔法を使えるレイナードを狙う者たちやニーリアン自身を狙う暗殺者対策を担っている。
リトはそのレイヴンの指揮官であり、元は父に仕えニーリアンが信用している人物でもある。
5分と待たせずに数人の男女がニーリアンの部屋に姿を表した。全員が執事やメイドのような屋敷の侍従と同じ服装をしている。
リトを入れて9人の部隊。全員の体の一部に三本足のカラスの模様が入れ墨のように刻印されている。基本的には見えない部分にだ。これは魔法契約によるものでニーリアンが無条件に彼らを信頼できる理由でもある。
そして少数だが一般的な騎士や護衛とは違う。祖父の祖国でしか知られていない戦闘技術や魔法技能の訓練を受けており、その戦闘魔力も並外れたものばかりだ。きっとアリアンロッドで生まれていればエリニエスになっていたのではないか、という程に。
エリニエスの可能性というだけであればそれはニーリアンとレイナードにもあった。だがエリニエスとならなかったことには根本的な理由があった。
それはアリアンロッドで生まれたミルドレッドと生まれ方が『違う』からだ。
男同士の夫婦に子供は生まれない。
それはこの世の理である。
しかしアリアンロッドは違う。
男同士の結婚が認められ、とある方法で子供が生まれる。
ニーリアンは国外の文化を持った家族の元に生まれた。ニーリアンの母親はアリアンロッドの方法ではなく、自身のお腹を痛めてニーリアンを生んだ。
レイナードもアリアンロッドの生まれではない。
アリアンロッドでは男女の夫婦でも特別な方法で子供を授かる。それは神殿も関与していることで、ニーリアンは本には書かれていないエリニエスの真実に近づきつつあった。
「お前たちに頼みたいことがある・・・」
レイヴンの9人は恭しく頭を垂れた。
「拝命いたします、閣下」
シーラに聞くところ、例の死んだ侍祭は子どもたちに酷い折檻をしていたらしい。だから死んで当然なのだ、という。
「どうして侍祭は死んだか知ってる?」
「さあ、沢山恨みを買ってるみたいだし。神罰だって神官達が話してたのを聞いた子がいたよ。」
その噂をしているのも下位神官だろうから有力な情報は持っていないだろう。
さて、私はできるだけ情報を集めてそれを整理しなくちゃならない。ついでに記憶も戻れば僥倖なんだけどな。
シーラととりとめもない会話をしながらもぐるりと周りを見渡す。やはりほぼ全員の髪の色が淡い色合いをしている。白に近い色はほぼ数人だが、父と同じぐらいのプラチナブロンドもちらほらいた。
周りを見渡すと私の焦げ茶の頭は子供たちの中ではよく目立つことが分かった。死んだ侍祭の変わりに来た新しい侍祭は私の髪を見て苦々しげな表情をしていたから、この焦げ茶の髪色は彼らにとっては都合の悪い色だということは分かる。
「あれ、ミルはその髪色、戻したの?」
「あ、おとー様が再生魔法で」
「いいなー、私もここを出たら家族に会いたい。そしたら髪の色も・・・」
シーラは力なく笑った。
それは絶対にここからは出られないであろう諦めが滲んでいた。
「シーラ、その髪の色って」
私は思わずシーラの頭に顔を近づけた。
よく見ると頭部の生え際が白藍とは違う濃紺色の髪をしていて、繰り返された薬品処理の影響か頭皮の皮膚は赤く爛れていた。場所によってはジュクジュクに膿んでいる。かさぶたを剥がしたときのような傷口の匂いがして、ああ、私におとー様の回復の魔法が使えたらな、と残念に思った。
「薬剤で色を抜かれているのね」
「そうだよ、ミルや私だけじゃない。生まれつき濃い色をしてる子はみんな薬剤を塗られるの。私達エリニエスは魔力が使えないから」
ひどい子はほら、とシーラに斜め向かいを示させる。
そこには皮膚が薬剤に耐えきれず、髪を失った少女がいた。反射的に目を伏せてしまう。
魔力が使えたら自分の力で髪色を変える事ぐらい容易いだろう。他者がかけた魔法では時間や距離といった制限が出てしまう。だからどうなってもいいような扱いをされるエリニエス達は薬剤で髪の色を抜くような粗雑な扱いをされているんだろう。
「・・・わざわざ、お金かけてまでやること?」
どうでもいいエリニエスの髪を何故脱色しないといけないのだろうか。この効果に果たして意味があるのだろうか。
「本当にそうだね。だけど、侍祭が言うには『女神様に気に入られるため』だっていうの」
女神は白を好み、白は神聖なものの色をなんだそうだ。逆に黒に近ければそれは邪悪の象徴となる。
女神に気に入られてどうなるんだろう。気に入られれば魔力暴走から助けてくれるって訳?
「女神・・・?」
「お祈りの時間に女神像をいつも見てるでしょう?私達『神樹』から生まれた子供は女神の子供でもあるんだからって侍祭がいつも言ってるよ」
「しんじゅ?」
「アリアンロッドを支える神の木だよ、いつもお祈りで神官たちが言ってるでしょ?」
忘れたの?とシーラは少し呆れている。
「少し、記憶が混乱しているの。」
女神、神樹、ピタリとなにかがはまり込んだ気がした。
もしかして、父と父の間に私が生まれたのって、その女神の神樹とやらが関係しているのではないだろうか。それに、魔力が強いだけがエリニエスの原因ならば父と父は私よりずっと魔力が強い。
二人がもし、私の出生方法と異なる生まれ方をしているのであれば・・・この集められたエリニエスの子供たち全員が神樹から生まれた女神の子供たちだとしたら・・・。
女神、エリニエス、神樹
これは私やこの子達を救うためのカギになる。
「お前たち、祈りの時間だ!聖堂へ」
私の思考を新しい侍祭の苛立たしげな声が遮った。
聖堂は先程の法王執務室までの道のりのようによく掃除されていてホコリ一つ落ちて居なかった。高い天井にまで続く巨大なステンドグラスには色とりどりの天使たちの姿が描かれていた。
ステンドグラスは全部で5枚あり、右半分は白を基調としていて、向かって左半分は全体的に黒っぽい所を見ると天界と悪魔や地獄を表しているのが直感的にわかる。そして中央は色とりどりの鮮やかなガラスが使用された『神樹』だ。恐らく絵の内容はこの神殿が信仰する女神の物語か伝説かに基づくものだろう。
そして、ドーム型になった聖堂の中心は壇上になっており、そこから天井へ向けて巨大な女神像が伸びていた。無機質な白い目が私達を見下ろしている。
ぞくり、と悪寒が背中を這いずり回る。
その上ここは兎に角寒い。私は家から来てきた長袖のシンプルなワンピースを着ているが、周りの子どもたちはもっと薄手の粗末な服を着ている。きっとこんな場所では冷えるに違いない。
「法王猊下のお成りです」
壇上右端の机の前に立つ神官が言う。
奥のドアから先程見た白もじゃじじいが出てきて仰々しい椅子に腰掛けた。
法王の直ぐ側に小さな椅子があり、そこには見たこともないほど美しい少女が座っていた。
年の頃は私よりいくつか上だろうか。
床にまで届きそうな豊かな金髪はゆるやかなカーブを描き、その鮮やかな金の長いまつ毛に縁取られた伏し目がちな金色の大きな瞳は滑らかな白皙に際立っていた。唇は小さく引き結ばれているが紅を引いたように赤かった。女神っていうのはあんな無機質な彫像ではなくて彼女のような存在を示すんだろうと思うのは私だけではないようだ、周りの子どもたちも寒さを忘れてその姿に見惚れていた。
「彼女は誰?」
隣りにいたシーラにコソコソと話しかける。
シーラも声を潜めて答えてくれた。
「ウル様だよ。この国の王女様。」
その名前と姿に、何故か違和感がある。何処か嘘をついて無理に取り繕った人間を前にしたときのような違和感。
まただ、頭に無いはずの記憶が溢れてくる。
ウル・アリアルーナ
彼女は女神の器として育てられた王女、だが本当は男の子だったはずだ。そう、「設定資料」に書いてあった。
設定資料、てなんだろう。
また知らない変な言葉が頭に浮かぶ。
神官の一人が声を張り上げた。
「静粛に!・・・王女殿下の御前であるぞ」
ウルの美貌に感嘆していた私達エリニエスの他に各地の貴族農民が聖堂に集まっているようだった。何百人とひしめき、もしかしたら普段平民はお目にかかれないウル王女の美貌を一目見ようと押し寄せたのかもしれない。
スッと音もなく立ち上がる彼女に、聖堂に集まった民衆は水を打ったかのように注目していた。
そのか細い体からは想像できない意志の強い、中性的な声色で王女が宣言した。
透き通るような美しい声に、誰もが心奪われていた。
「アリアンロッド神へ私、ウル・アリアルーナは啓白致します。」
ゆっくりと民衆を見渡す彼女はここにいる誰よりも美しかった。
「エリニエスの子供たちをお救い下さい。そして、国民に平穏をもたらし下さい。」
静かに手を胸の前で組む姿は荘厳な聖堂内ではまるで一つの絵画のようだ。もっと近くで見たいと皆が身を乗り出してその姿に釘付けになっている。
そして、法王がいつものお祈りの時と同じように白磁のゴブレットを恭しく持ち上げる。
するとエリニエスの子供たちの周りがキラキラと光出した。体の力が吸い取られていくような気持ちの悪い感覚だ。ためしに手を握ろうとしたが力が入らなかった。高熱を出したときのような激しい気怠さもある。
もしかして、この白磁のゴブレットが魔力を吸っているというのだろうか。
エリニエスにとっては毎日のことなのでなんの感慨も無いが、町人にとっては神秘的に写ったらしい、各所で感嘆の声が漏れた。
「この国の平穏が守られるならば、私はいかようにもいたしましょう、女神アリアンロッドよ!顕現せよ!」
その言葉に法王がぎょっとする。
それは予定調和にない、ウル王女の意志のある言葉だった。
『謀ったか、小娘、いや、偽りの王子よ!』
グワンと頭を揺らすような声が響いた。だが、周りの様子を見る限りその声に誰も反応していない。何が起こったのか理解できていないのか?いや、違う
私にしか聞こえていないんだ。
声のせいでズキズキとこめかみが痛む。隣でシーラが心配そうだ。
『我の器が男とは笑わせる。だが、まあ、見目は悪くないだろう』
痛みと抜ける力に耐えながらも壇上に注目すると、その声が聞こえているもうひとりの人物に気がついた。
ウル王女・・・ウル王子だ。
震える腕を抑えながら意志の強い瞳で女神像を睨みつけている。様子がおかしいことに気付いた民衆達にどよめきが広がる。
『だが、約束事は反故にする気なら、我も考えがある』
「女神よ、何をする気です・・・」
もしかしたら法王にも聞こえているのだろう、顔は持っている白磁のゴブレットのように真っ青で色を失っているし心做しか震えているようにも見える。
『器の子らを我に渡せ』
「どういう意味です」
『こういうことだ』
その言葉とともに女神像から白いモヤのようなものが飛び出してきた。
エリニエスだと誰かが叫ぶ。
否、エリニエスであればそれは黒い霧であるはずで白ではない。
ではあれは何だ?
その白い煙は勢いをつけて私の直ぐ側に落ちた。
子供たちの悲鳴が上がる。
「ラナ!」
シーラが叫んだ。ゆらり、とやせ細った少女の身体が揺れてそれから床にバタリ、と倒れた。そこから出た煙は隣の少年へと落ちる。
バタン、また一人が倒れる。
それを見た民衆はパニックを起こし、我先にと聖堂の出入口に殺到し、魔力の強いものは魔法で移転し始める。
何がおこっている?
人の波の向こうに見えたのは、壇上で髪を乱して涙するウル王子の姿だった。周りの衛兵らしき者たちがウルを避難させようと両脇を抱えるが、ウルはそれを拒絶していた。
「お辞めください!女神よ」
その声は虚しくも喧騒にかき消される。
白い煙はどうやらエリニエスだけを狙っているようだ。次はあそこか、
白い煙が落ちる。
私は地面を蹴った。
「ミル、なにをっ!」
シーラの悲鳴混じりの声が聞こえる。
私は白い煙が落ちる場所にいた少女を突き飛ばした。
「きゃあっ!」
恐怖で動けずにいた彼女は軽く、簡単に入れ替わることができた、私はキッと白い煙を見上げて睨む。
すると、白い煙はざっと方向転換し、今度はシーラのいる辺りに向かって行った。
なぜ?
どうして、私に向かってこない?
私は理解できずにシーラに向かって叫んだ。
「逃げて、シーラ!」
だが、彼女もまたカタカタと震えていた。地面にへたりとしゃがみ込み両膝を抱え込む。
「だめよ、逃げるのよ!シーラ!」
自分の声が自分のものでないような、そんな必死な声だった。だけど、シーラは動かない。
白い煙は、シーラへ落ちた。
そして、スッと立ち上がると、私に向かって歩いて来る。
「シーラ?大丈夫なの?」
様子がおかしい、歩きはじめた始めたばかりの少し心許ない歩みに違和感がある。
『娘、なぜお前が生きている』
先程の女神像から聞こえた声が、シーラの口から出ていた。その顔は憎々しげに歪められ、私を睨んでいる。
そして、その瞳は白く濁っていた。
キラキラした藍色のシーラの瞳は見る影もない。
「まさか、これが女神だというの」
この悪魔のような存在が、アリアンロッドの女神だというのだろうか。そんなことがあるのだろうか?
『我の言葉が聞こえなかったようだな、ムシケラが。』
いくら女神であったとしてもムシケラ呼ばわりとは不快極まりない。だが向こうは女神という名の人知のしれない存在だ。迂闊に対処はできない。それに私は魔法を使えないし。
どうすればシーラを助けられる?どうすれば、私の命は助かる?
ふと頭の隅に黒い影がちらついた。
体の中から湧き上がるこの黒いドロドロしたものは何だろう。
シーラを返せこのクソ女神が。
どんどん身体が闇に飲まれていく感覚がする。
『まさか、お前黒い女神どもを・・・』
シーラの身体がたじろぐ。
『憎いか、娘』
今度は女神と違った声が脳内に響いた。
『憎いならば解放しろ。力を外に出すんだよ、ホラ』
その声は、忌々しい響きであり、どこか小馬鹿にするようでもあった。
身体がどんどん熱くなっていくような、自分のものでないような感覚。
「女神が憎い」
『そうだ、憎め、女神を憎め』
黒い影が唆す。
誰かが言っていた。エリニエスは憎しみによって顕現すると。
「シーラを返せ!」
『ムシケラが、エリニスどもが来る前に殺す』
シーラの右手には小さなナイフのような物が握られていた。シーラの魔力を使って出したのだろう。
だが、シーラも先程神器で魔力を吸い取られているので残りの魔力はそれほどではないはずだ。
『死ね、小娘!』
私は周りの人間が殆ど逃げたことを確認して、
力を体の外へ放出した。
「シーラから」
黒い靄が上から降りてきて私の身体を覆った。
「出ていけ!」
ドンっ、と衝撃波が広がり、巨大なステンドグラスが粉々に砕け散る。太陽の光が割れたガラスの向こうから女神像へ差す。
キィーーーーーーンと金属を擦るような不快な悲鳴が響き渡る。残っていた数人の神官はしゃがみ込み頭を抱え込んだ。
そうだ、これが女神の悲鳴だ。
私はこれを聞いたことがある、何処で?
過去の記憶で?
けたたましい叫びを上げながら白い煙がシーラの口から飛び出した。そして、黒い霧から逃げるように女神像へ吸い込まれていく。
女神の悲鳴に麻痺した聴力が徐々に戻り始めたところで、自分の黒い霧も静かに体の奥へと沈んでいくのが分かった。
女神は黒い霧を「エリニスども」と言った。
女神は私の中のエリニエスに負けたのだ。
へたり、と地面に膝をつく。
まだ、まだ倒れてはいけない。
シーラの無事を確認しなくては。だけど、鉛のように動かなくなった手足、そして朦朧としてきた意識の中で私は声を聞いた。
『私の声が聞こえるとは、珍しい器だな』
それは女神がエリニエスと呼んだ存在の楽しげな声だった。
最後に見えたシーラの瞳は白く濁ったままだった。
夢を見ていた。
白い靄がかかっていて、女神を思い出して少し不快になる。聖堂はどうなっているんだろう、と思いを巡らせるが夢の中にいる今はどうしようもない事だった。恐らく、まだ私は死んではいない。ここが死後の世界、というならそうなのかもしれないが。
だけど夢だと分かるのは自分の姿が「大人」になっているからだ。歳は18前後といったところか。
水面に映るのは父親譲りの焦げ茶の長い髪と銀朱の瞳。まだ見慣れてはないないミルドレッドの面影を残した女性。
ここは何処だろう。立ち上がって辺りを見渡す。
身体はふわふわと軽い。
よく目を凝らすと、湖の周りを樹木が立ち並んでいるのが見えた。
何処かの森の中だ。
夢の中なんだから実は魔法は使い放題なんだろうか?ふと、そんな考えがよぎって、思わず手を前に翳す。
水よ、踊れ!
すると、念じた通りに水面から浮上がった水滴は宙を舞う。いつの間にか立ち込めていたきりが晴れ、太陽の日差しが水飛沫に辺りキラキラ光る。
凄い!魔法だ!なんて感動していると、
キュッ
何処からか動物の鳴き声のようなものが聞こえてきた。
弱々しいその声を辿る。
森の少し奥からしているらしい。
私は夢ならばどうにでもなるだろうと、その森へ足を踏み入れた