タランティーノさんが好きでした
クエンティン・タランティーノさんの関わる映画が好きでした。
特に好きだったのが『フロム・ダスク・ティル・ドーン』、『レザボア・ドッグス』、『パルプ・フィクション』、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』、『キリング・ゾーイ』、『トゥルー・ロマンス』あたり。
中にはタランティーノさんは脚本で、監督した人のことをボロクソに言ってる映画もありますが……。わ、私は好きだからっ!
何が好きかって、押しつけがましいところが一切ないんですよね。
『こう感じてくれ』『こう観てくれ』がないし、登場人物のどの人にも作者が肩入れしていない。
だから観る人は自由に、自分の好きなように観ればいい。そこに清々しさすら感じました。
『フロム・ダスク・ティル・ドーン』なんて、主人公のジョージ・クルーニーさんははカッコいいけどとんでもない悪人の役です。
タランティーノさん(以下、タラちゃん)演じる弟と二人で罪もない人を殺しまくり、お金をガッポリ儲けている人です。
ふつうなら主人公にしてはいけない人です。敵のラスボス的存在。あるいは同情を引くような境遇があればアリかもしれないけどそれもない。
タラちゃんは兄にベッタリの小判鮫。ちなみに一番最初にやられます。
もう一人の主人公ともいえる牧師さん家族が登場します。牧師さんはとても真面目で家族思いでロックが嫌いなお父さん。
やがて両者は『フロム・ダスク・ティル・ドーン』というお店で出会うことになるのですが……ううっ。これ以上書くとネタバレになる。
とにかくそこからお話はガラッと全然違う映画になってしまいます。
そのお店の従業員はすべて人間ではなく、いわば悪魔の下僕みたいなものだったのです。
ここでふつうの映画なら、神に仕える善良な牧師さんが活躍して、悪魔たちを滅するところでしょう。
ふつうの人間がどんどん吸血鬼に変えられ、コウモリの大群をバックに「ファッハッハッ」と不気味に笑う中、家族を守るため犠牲になった牧師さんもふつうに吸血鬼に変えられ、コウモリの大群をバックに「ファッハッハッ」と不気味に笑い出します。そして愛する家族に襲いかかります。
そしてもう一人の主人公ジョージ・クルーニーさんは元々極悪人なので、仲間だった人間が吸血鬼に変わっても躊躇なくガンガン攻撃します。
そしてラストシーン、夜が明けて、イケメンと美少女だけが残るのですが──
ふつうの映画ならここで恋とか芽生えて行動を共にでもするところですが──
二人はあっさり別の方向へ歩き出しちゃうのです。
その後の二人を観客が妄想することすら出来ません。
でも、それがいいのです。
この映画はタラちゃんは脚本で、監督は『スパイキッズ』や『アリータ バトルエンジェル』のロバート・ロドリゲスさんで、2作目以降はひとつも観ていないのですが、とにかくスッキリしました。
でも観終わったあとになんにも残らないスッキリではありません。
バカバカしいのに重々しいのです。
うまくいえませんが……。
他にも『レザボア・ドッグス』は信じた者がドツボにハマる話、『パルプ・フィクション』は主人公が途中であっさりと死んでまたある仕掛けであっさりと生き返る話、『キリング・ゾーイ』はちょっと真面目で、誰でも構わず殺す主人公が愛したゾーイという女性だけは殺せなかった話。
とにかく悪いやつばっかりが主に出てきて、誰が死ぬかちっともわからないみたいな作品が多かったです。
その、『この主人公が最高なんだ!』みたいなのとは真逆の、『主人公だってあっさり死ぬ』みたいな自由さが好きでしたね。
『ナチュラル・ボーン・キラーズ』は脚本タラちゃん、監督はオリバー・ストーンさんで、タラちゃんはこの作品の出来を毛嫌いしているそうですが、私は大好きです。
内容はいわば『ボニー&クライド』のパロディー。
自由に誰でも殺す若いイケメン主人公が、遊び気分で人を殺す可愛い彼女とともに、無差別に大量虐殺を行います。
とにかく出会ったやつは死ぬ。問答無用で殺される。主人公二人はまるで石ころでも蹴るように市民たちを次々と射殺していくのです。
密着取材の許可を取ったジャーナリストが二人の行動を取材するのですが──
このジャーナリストさん、初めは主人公のすることに恐怖し、良心に基づいて二人を責めるのですが、やがて感化されて、自分も人を殺す快感に身を浸すようになります。
二人はやがて若者たちを中心に英雄として祀り上げられ……みたいな作品です。
とにかく『人の命は重い』の真逆です。
信じていたものがすべて壊されるみたいな、茫漠とした荒野に放り出されたような気持ちになりながら、それでもやっぱり主人公たちが何の罪もない人々を次々と射殺していくのを観て、爽快感を覚え、笑えるのです。
人間的価値観をすべて剥がされて、素っ裸の自分をそこに発見できるみたいな感じ。
この映画、あまりの暴力描写にアメリカでは上映禁止になったはずです。確かにこれを観て真似したくなる青少年が出るかもしれません。
でも私は、むしろだからこそ人の命は尊いものだと学びました。あまりにも軽いものだから、『地球よりも重い』とか嘘のイメージで飾られているそんな命に、何が何でも価値を見出そうみたいな、そんな決意のようなものを、自由になった自分が胸に抱いているのを発見できました。
坂口安吾さんが、文学のふるさとはわけのわからない虚無のようなところにあるというようなことを言ったのを思い出します。
いわばタラちゃんの作品は『楽しめる意味なし』。観る者を素っ裸の自由な人間にし、自分の頭でものを考えるしかない場所に堕とすという意味で、芸術作品だと私は思いました。
『キル・ビル』は大ヒットした作品ですが、この作品以降のタラちゃんの映画は好きではありません。
なんというかオタク趣味が全開になり、『ブルース・リー死亡遊戯』『仁義なき戦い』等タラちゃんの好きな映画作品から様々なパロディーを取り入れ、主人公に肩入れした作りになりました。
こんな鬼強い主人公、タラちゃん映画の主人公じゃない!
日本語を喋れない女優さんたちの無理やりな日本語にも白け、若き日の栗山千明さんのスケバンっぷりも無理やりで、そこが面白いっちゃー面白いんでしょうけど、私には無理でした。
ただのエンターテイメントになっちゃった。
それだからこそ万人に受け入れられ、ヒットしたのでしょうけれど、私は初期のタラちゃん作品のほうが断然好きです。
エンターテイメントでありながら、観る者を虚無に落とし込む芸術性をもっていたと思います。
観たくなったという方には一言注意。
暴力表現モリモリですよ。