8.
「ダックスフンドはセントハウンドの一種です。分かりやすく言うと、『鼻がいい』犬種ですね。ご主人が連れて来たって話ですが、来た時にはもう躾がしっかりなされていたとか?」
「ええ、なのでこちらとしては気楽だったのを覚えています。遊んでいる時以外は、あまり訪問客にちょっかい掛けたり、吠えたりもしませんからね」
「つまり吠える時は余程の危険があった時や――そのように仕込まれている時になります」
クロは池端に向かって吠え続けていた。より正確に言えば、そのポケットに向かって吠えていた。狼狽する彼を尻目に「よしよしよし!」と大鵺が黒犬を宥めると、今度は飛ぶように廊下に飛び出していく。吠えながら着いて来るよう促すダックスフンドの後を追い、忽ち玄関の真ん前、中庭の入口までやって来ていた。クロは中に向けて吠えては、主人の方に顔を向ける。中庭に入れさせてくれ、という事だろう。
「年に一回しか開かれないコニャックの匂いを教え込まれたクロは、その匂いを感知したらある場所を示すよう教え込まれた。悪戯好きの先代の仕業ですね。本来はちょっとした余興くらいのつもりだったんでしょうが、彼自身の死や夫人の病気といった不確定要素もあり、コニャックの瓶が開かれる回数が減り、それを感知してクロが吠えて中庭へ向かう機会も減っていた。灘さん、そうですね?」
「は、はい……昨年は開けられたものの、雨が降ってクロは外へ出られませんでしたし……一昨年は奥様が大病をされた関係で、そもそもコニャックが開けられる事すらありませんでした。最後にそれが供され、且つ晴天だったのは、三年前になるでしょうか」
「毎年続けて同じように吠えて特定の場所を指せば、流石に皆何か気付くだろうと思ったのでしょうが、そうは上手く行かなかったようですねえ。結果として、池端さんが持参したコニャックの匂いに反応した」
大鵺がガチャリと中庭への扉を開ける。
するとクロは一直線に桜の木の下へと駆けて、こちらを振り返ると何度か吠えてみせた。
「……ししょー」
「何だね小角くん?」
弟子は神妙な顔をしてひと言、
「……死体とか、出てこないよね?」
途端、大鵺が噴き出す。背中をバンバン叩く小角に「すまんすまん」と師匠は軽く謝ると、「ひとまず現場に行ってみようじゃないか」
そう言って皆でクロのもと、中庭の入口から見て中央奥寄りに生える桜の、その裏手へと回った。クロは一同が集まり夫人に撫でられるとようやく吠えるのを止めて、近くを飛んでいた蝶を追い掛け始めた。
「ここに何かがあった……って事ですか?」
女給の問いに大鵺は頷き、「触り比べてみれば分かります」と土に触れてみるよう促した。岬は少し離れた所を軽く触ってみてから、件の場所を触ってみる。
「……あ、確かに明らかに感触が違うというか、変です」
そう言って夫人を振り返る。夫人も自らそれに触ってみて、
「掘り返した跡――ね」
と抉れた芝を持ち上げてみせるのだった。
大鵺は園芸用スコップを手にそこを掘り始めると、程なく何か硬い感触に行き当たった。慎重に土をどけて、それを取り出してみる。
「……缶、ですね」
出てきたのは金属製の四角い缶だった。精々15cm四方といった大きさだろうか。蓋を開けてみると――
「……お、レミー・マルタンだ」
中には先程開封したのと同じ銘柄のコニャックが、ひと瓶入っていた。
「池端さんはこの缶から、夫人の着けている指輪を取り出したのです。本当なら缶の中に戻すか自分で持っておくかしたのでしょうが、クロが咥えてどこかへ走っていってしまった。――そうですね?」
「何が言いたい」
「もうそろそろ折れてもいいんじゃないですか? 夫人の指輪の錆が落ちた部分――恐らく缶の中のそれとぴったり一致する筈ですよ?」
言われて夫人が指輪を外し、缶の内側に残る錆跡と重ね合わせる。すると大鵺の言葉通り、ぴったりとその部分が一致するのだった。
「それと、コニャックの入っていた容器はまだ持っていますよね? これは自信ありますよ、なんせクロが吠えて教えてくれたくらいですから。例えばですが……そのポケットの中にある、『目薬』の容器、とか」
池端がひとつ、重苦しい息を吐く。次いで懐から、何か紙切れのような物を取り出してみせた。
「……会社の資料に『埋もれていた』ものです。『偶々』見つかったので、お渡ししておきます」
降参の意思表示だった。酒や指輪とともに埋まっていた、という事だろう。「偶々ならしょうがないわね」とシズはそれを受け取ると、ハッとして口元を覆う。
「……全く、あの人らしいわね」
それは一枚の写真だった。場所は分からないが、とにかく海が見えていた。
「どこなの?」
「……主人と行った、初めての旅行の時のものよ」
そう言ってどこか懐かしそうな笑みを浮かべて、古びた指輪に目を落とす。
「この指輪は、私がそこの出店で買った、本当に安物よ。彼にちゃんとしたものを買って貰った時に、『じゃあこっちはあげる』って何の気なしに渡したんだけど……まさか取ってあるとは思わなかったわ。――そしてそれをクロが運んでくるなんてね」
彼女は大鵺に振り返ると、
「貴方の言うように、これは池端と登記絡みの話をした直後にクロが持って来たのよ。だからピンときてね。誰かが知らない所で何か持ってこうとしてるなら止めなきゃ、ってね。後は概ね言われた通りよ。中庭にネックレスを持ってって、部屋に戻ってから声を上げた、ってワケ」
更に彼女は振り返って、
「池端くんは残念だったわね、こんなものしか出てこないで。でも写真を捨てないでくれたのは、評価してあげるわ」
ニヤリと笑う彼女に重役はバツの悪い顔を浮かべる。そうして彼は僅かに瞑目して――
「……まだ貴女がここの地権者です。これからどうするかはお任せしますよ」
「まあそれについては、後程考えることにしましょう。……それで貴方の役職についてだけど――」
男の顔が強張る。ある程度覚悟はしていたのだろう。
「――今の事業部長から常務にして貰うから、後任を考えておいてね」
「……はい…………はい?」
男が困惑を露わにする。
「昇格よ」
「……? いえ、こう言ってはなんですが……降格とか、クビじゃあないんですか?」
池端が問うと夫人はこの日一番の大笑いを上げた。新入りの岬が驚く程で、逆に灘はやれやれと首を横に振っていた。彼女のこういった振る舞いについては、良く知っているのだろう。
「それくらい情報に長け抜け目のない人間なら頼りになる――っていうのが私の考えよ。それにあの埋められた缶については、私一人では恐らく気付くのに相当時間が掛かったでしょうし。中身を捨てずに取っていた事も評価し、それで手打ちとしましょう」
夫人が言うや池端は忽ちその場に座り込み、深く項垂れた。恐らく気を張っていたのだろう、その顔には濃く疲労の色が浮かんでいた。
「……ねえ、ちょっとちょっと!」
思わず小角が小声で夫人に話し掛ける。
「いいの? お宝だったら掠め取ろうとしてた人だよ?」
「いいのよ、彼に対する評価は本心だしね。今回はこれで満足するわ。それに――」
「それに?」
夫人は一度声をひそめてから、
「――弱味を握っていた方が、相手は下手な動きも出来ないし、使い倒せるでしょう?」
そう言って悪い顔を浮かべた。
「おっ、おっかな……」
「ハハハッ! こうなってみると、全て夫人の手の上で転がされてしまいましたね!」
「それも探偵さんのおかげよ。それと……私も腹を括ってるから、後は――貴女の好きにして頂戴」
と、夫人は両手を御神楽の前に差し出した。狂言の責任を取る――その意思表示だ。当の御神楽は暫し険しい表情で彼女を見つめていたが、やがて「はあぁ……」と深く溜息をつくと、
「……次はありませんからね?」
「あら、お咎めなしなの? 少なくとも公務執行妨害みたいな事にはなると思ったのだけれど」
彼女が言うと巡査部長は被りを振り、
「ウチの阿闍梨から言われてまして。『丸く収まるならそれに越した事はない』――と。被害届は取り下げて下さるんですよね?」
「勿論です」
「なら警察が関係するべき事案はここには存在しません。速やかに撤収させていただきますよ」
そう言って彼女は軽く敬礼をしてその場を後にしようとする。すると大鵺が慌てた様子で、
「いやいや御神楽さん、ここからがクライマックスなんですから! もう少しお付き合い下さい!」
「――へ?」
「……どういう事かしら?」
御神楽を始め、夫人も他の者――池端まで、『これ以上は知らんぞ』と怪訝に眉を寄せる。
「忘れましたか? 先代がクロを連れて来たのと前後して、夫人に贈ったものがあるでしょう。――小角くん、アレを」
「ほいさ!」
言って彼女が内ポケットから取り出した袋は、一同見覚えのあるものだった。
「……っ!?」
「ええっ!?」
そんな声が漏れる中出てきたのは、見紛う筈もない、ピンクサファイアのネックレスだった。