6.
「うん、美味い! コレ美味いよ師匠!」
「はしたない真似はよしなさい小角くん。口元にソースが付いていますよ。それとそのプロシュートは私に寄越しなさい。君にはまだこの味は早い」
「ええっ、ダメだよ! 師匠一回追加で貰ってるんだから、また貰ったらいいじゃん」
「客の分際で更に追加を要求するなど、私の美学が許しません。君がそれをくれれば万事解決なんですよ? 何故それを理解しない」
そう言って彼は大仰に被りを振るが、その隙に弟子は師匠の皿からチーズを一切れひょいと自分の皿の上に乗せた。他の一同はその様を何とも言えぬ表情で見たり、或いは陰気に黙々とナイフとフォークを操っている。
御神楽から大鵺の言葉を伝えられた夫人は、彼の案を気に入ったようで、「明日饗される予定だった食材が無駄にならなくて済むのなら」とすぐに岬に調理を頼んだ。夫人も手ずから好物のアップルパイを作り、今も何度かオーブンの中の様子を窺いに席を立っている。その度クロが彼女の後をついていき、待ち切れないようにぐるぐると回るのだった。
「大鵺さん……そろそろお聞かせ願えませんか? みんなで一緒に食事をして終わり――という訳ではないのでしょう?」
痺れを切らして御神楽巡査部長が訊くと、彼は「それもそうですね」と口元を拭い、水を一杯含んでからやおら立ち上がった。
「では今回の件に関する私の見解を話させていただきますが……その前に、滝沢夫人に確認しても宜しいでしょうか?」
「何でしょう?」
オーブンから戻ってくる彼女に大鵺は続けて、
「私に要求されるのは、警察的な白黒はっきりした処断でしょうか。それとも、グレーな解決は許容されるでしょうか」
「グレーなかいけつぅ?」
助手が口の中のものを咀嚼しながら小首を傾げる。問われた夫人の方はひとつ頷きを返すと、
「グレーの意味が曖昧だけれど、まあ実際盗られた物はない訳だし……物証が取れそうにない事は私も理解しているわ。だからある程度そうなるのは仕方のない事でしょう。――でも逆にはっきりしている事に関しては、ちゃんと白黒言って貰いたいわ」
そう言ってゆっくりと席に掛ける。
「承知しました。ではご説明させていただきますが――まずこの事件には二つの要点があります。即ち、『ネックレス』と、『先代』です」
「先代……?」
重役が聞き返す。他の者も何の事かと首を捻っている。
「まずはネックレスの方から行きましょうか。夫人が机の上に出されたネックレスを最後に見たのはお昼前、居間でいつものように紅茶を飲みながら仕事をする前です。そしてなくなったのに気付いたのは午後二時前。その間皆さんにはアリバイのない時間――つまり宝石を盗み出す時間がありました。ここまでは宜しいですね?」
不承不承といった感じで何人かが頷く。
「その後警察が呼ばれ、彼らが到着する前に一緒に部屋を出ると、クロが中庭で目的の物を引き摺っているのを発見した。夫人は前の使用人の事もあり警察に捜索を願い出るも、モノが今現在目の前にある為如何ともし難い。捜査もするにはしてみたが思わしくない。そこで私たちが呼ばれた訳ですが……」
言いながら彼はゆっくりと、居間の中を歩き始める。
「さて小角くん、ひとつ君に根本的な質問をしよう。勤め先で過去、盗み癖のある従業員がいた。その人物――前任の女給は既に辞めさせられており、使用者は戒めの為に彼女が中庭に植えた花までそのままにしている。……さて、君だったらそんな所で大胆にも使用者が大事にしている高額の宝飾品など盗もうと思うかね?」
「ないねー。アシもつきやすいし、大体その場に居合わせた人間なんて真っ先に疑われるっしょ。もっと手軽に、且つ盗まれたと分からないようなものを狙うね」
「ネックレスを目眩しに何か手頃なものを狙ったとは?」
「いやいや、ネックレスがなくなった時点で騒ぎになるのなんて目に見えてるじゃん。意味ないって」
「じゃあ今回ネックレスがなくなったのはどういう理由だと思う?」
「どういう? そりゃあ、少なくともネックレスを盗もうとは……」
そこまで言って彼女がピタリと止まる。
「えっ、盗もうとした訳じゃないってこと!?」
「何を驚いているんです、君が今自分でそう結論付けたんじゃありませんか」
ガタッと音を立てて椅子から跳び上がる彼女に大鵺は不思議そうな顔を向ける。だが驚いた様子なのは他の面々も同様で、女給の岬がおずおずと手を挙げて発言を求めた。
「ぬ、盗みが目的じゃないって……具体的に、どういう事ですか?」
「そうですねえ、まずこの状況だと真っ先に思い浮かぶのが――」
言いながら彼は夫人の側に控える黒犬を拾い上げる。
「ペットの悪戯です」
「「…………」」
場が静まり返る。暫くあってからぽつりぽつりと、
「……あら」
「それは、何と言いますか……」
「確かに先代は『俺だと思え』みたいな事言ってたが……」
『そこまで似なくてもいいだろう』と、最後は重役が言外にそう零した。或いは彼も先代には振り回されてきたのかも知れない。
「じゃ、じゃあ……クロが勝手に部屋に入って、ネックレスを持ってっちゃった、って事ですか?」
「いえいえ、誰もそんな事は言っていませんよ」
ハハハと笑う大鵺に、再度一同が首を傾げる。
「これが柴犬のような中型だったり、小型犬でもジャンプ能力の高いものだったら話は別なんですが、クロはダックスフンドです」
とクロを夫人の膝の上に乗せる。
「ダックスフンドは胴が長く脚が短い特性上、こういった脚の長い椅子にあまり飛び乗りたがりません。背中を痛めやすいですから。危ないから、強いてあのような椅子に自ら登ろうとは思いませんよ」
「さっきの実験はこれだったんだね!」
大鵺は小角に頷くと、
「夫人は椅子に座る時はちゃんと抱き上げていましたしね。まあ確かに君が言うように、見知らぬ者相手にはそう簡単に反応してくれないというのもあるとは思いますが。机の上に書類があった事を考えれば、その上に置かれたネックレスを取る時に書類が乱れていないのは不自然というものですよ」
「……って事は?」
「犬が机の上から勝手に持って行ってしまったとは考えにくい……という事ですか」
御神楽が言うと大鵺は頷いて、
「クロがこの部屋から持ち去ったと仮定した場合、少なくともネックレスは初めから床に落ちているか、でなければわざわざダックスの負担にならないような段差を拵える必要があります。後者についてはあの綺麗に整頓された部屋にわざわざ設置する手間が掛かりますので、非合理的でしょう。自然ネックレスは床の上にあった、でなければ犯人が部屋の外まで持って行った――この二択になります。まあこれも床の上にあった場合は、クロが中に入る為に扉が開いている必要があるんですがね。そして――」
と大鵺は手近にあったナイフとフォークを打ち鳴らし、
「仮に床の上にあった場合でも、扉が開いているのならネックレスが落ちる音で居間にいる誰かが気付いてもおかしくないでしょう。まあ、奥で食器を洗っている時なら分からないかも知れませんが」
岬が深く息を吐き、胸を撫で下ろす。確かに彼女が皿洗いをしている間は、流石に気付きにくいだろう。
「じゃあやっぱり誰かが中庭に持ってったんだ!」
「そうでしょうね。犯人はもう少し時間を掛ければ飼い犬のせいに出来たかも知れませんね。逆に言うと、それだけ急いでいた――時間がないと思ったのでしょう」
師匠はひとつ咳払いをすると、
「では小角くん、君にも犯人が誰か分かりましたね?」
「うえっ!? ええっと……」
助手は斜め上を見上げながら考えを纏める。
「犯人は盗みが目的じゃない。それでいてクロの仕業でもない。だから残りの四人の誰かになるんだけど……。盗みが目的じゃないんだとしたら、一体……あっ」
何かに気付いたのか、彼女は声を上げると、
「もしかして、警察を呼ぶ事自体が目的だった?」
小角が振り返ると師匠はそれに頷き、
「犯人は警察を呼ぶ為にこんな事を起こした。捜索の結果何か明らかになるのを期待し て、そして誰かをこの場から逃さない為」
「大鵺さん、それってまさか……」
御神楽巡査部長がゆっくりと、その人の方に振り返る。
「ネックレスに変な指紋が残っていなかったのは当然ですよ。中庭に持ち出した人物と持ち主本人が同じなんですから。――そうですよね? 滝沢シズ夫人」
そう言って、夫人の席の後ろで立ち止まるのだった。