4.
「私がこちらにお仕えするようになったのは、ご家族が皆独り立ちされた後の事でして。それ以前は、長くこちらの渉外部門に身を置いておりました。実は若い頃は、ライバル企業の人間でしてね」
そう言いながら老執事――灘は大鵺と小角の為に紅茶を淹れ始める。所作は身体に染み付いているのだろう、無駄なく洗練されていた。
「不良債権の問題でそこが傾いた折、旦那様に引き抜かれた格好です。以来の付き合いはもう何十年にもなりますか。定年を機に田舎に引っ込もうと思っていたのですが、丁度坊ちゃんたちが皆屋敷から独り立ちされたタイミングで、良かったら嘱託のような形で執事として働いてみないかと言われたのです」
「灘さんも先代さんと同年代ですものね。しかし率直に言って、そういった人間に執事にならないかと声を掛けるのも、その話を受けるのも、あまり聞かないものですが」
大鵺の言葉に灘は幾分苦笑を浮かべながら、
「私は旦那様とは違ったもので」
「違った?」
老執事が頷き、「失礼」と自分のカップに注がれた紅茶をひと口含む。
「旦那様も奥様も所謂『仕事人間』ですが、家庭はとても大事にする方たちです。出来るだけ家族の時間を取るようにする、そういった強い信念をお持ちなのだと思います。その時間は何にも代え難いものなのだ、と。翻って私は……」
「家庭を顧みなかった?」
小角の問いに彼は目顔で『是』と返す。そうして一拍置いてから、
「家族仲はどうか、などといった点に関してはご想像にお任せ致しますが、ともかく旦那様はその辺りの事に気付かれたんだろうと思います。だからわざわざ私に頼んできたのでしょう。或いは気を遣って下さったのかも知れません。そういう方でしたから」
大鵺は夫人の語った夫の言葉を思い出した。『彼らは自分の道楽に付き合ってくれているんだから報いなければ』というような経営者だ。その考え方が優秀なのか甘いのかは論評し難いが、そんな男だったからこそ、灘は今ここで働く事になったのだ。
「話を戻しましょうか。警察に電話をしたのは貴方ですね?」
「はい、奥様に頼まれまして、携帯電話で掛けました」
「事件当時、貴方は夫人を除いて、最後に部屋の中に入ったと聞いています。それは確かですか」
「ええ。11:30過ぎでしたか。丁度奥様に書類をお届けに上がりまして、これからお茶の用意をする旨お伝えした所でした」
「その時は例のネックレスはあったとか」
「見間違えでなければ、机の上に載っていたと記憶しています」
「その後居間で紅茶を淹れていた、と……」
頷く老執事に今度は小角が手を挙げながら、
「居間の奥にキッチンがあるんだよね? 所謂LDKって括りになるんだろうけど、当時あのメイドさんがお昼作ってたりした?」
「そうだ……と思います」
「うん?」
小角が小首を傾げる。
「紅茶は淹れる機会が多いですので、常にキッチンの上に茶葉の缶を置いてあるんですが……私が淹れに行った時、調理は中途のまま、放置されていました。ちょっと中座しているだけだろうと思ったので、特に何も感じたりはしませんでしたが。結局湯を沸かし、紅茶を淹れて暫くしてから彼女は戻って来ましたね。11:45頃でしょうか。直後に奥様がいらっしゃいました」
「それから貴方はどうされました?」
「私も一応仕事を多少は抱えておりまして、自分の部屋で書類のチェックをしておりました。その後居間で皆とお昼をとりまして、岬が片付けるのを少し手伝いましたか。それから再度部屋へ戻り、書類とにらめっこしていましたね。そんな時に奥様の声が聞こえた次第です」
「成程……」と大鵺は呟くと、「では居間で紅茶を淹れている間と、書類仕事をされている間は、他の人には会っていないのですね?」
それを聞くと灘は若干表情を曇らせ、
「はい。……やはり、私の事をお疑いですな?」
「いえいえ、皆さんの潔白を証明するのに事実確認は重要ですからね。そういう意味での聞き取りだとご理解いただければ」
彼が淡い髪色の頭をがしがしと掻きながら笑うと、執事もそれ以上は言ってもしょうがないと分かっているのだろう、「畏まりました」と苦笑を浮かべるのだった。
「あと数点だけ。前任の女給さんは盗癖があったとか」
「はい。まあ、それが発覚したのは結果論なんですけどね」
「結果論?」
小角が首を傾げる。
「私も丁度奥様と居合わせたんですが、丁度中庭でクロを蹴りつけている所を見まして」
「それは、何とも……」
大鵺も小角も露骨に顔を顰める。
「それで問い質した結果、余罪として彼女の盗みが明らかになったのです」
「クビで当然ね。寧ろそれで済ましてるなんて、生ぬるいわ」
憤懣やる方ない様子で小角が言い放つと、灘も同調するように僅かに首を縦に振った。
「最後に」
大鵺が人差し指を立てながら老執事に問う。
「夫人には聞きそびれてしまったんですが、彼女がここから離れたら、やはり灘さんもついていく感じなんですか」
灘は「いいえ」と首を横に振り、
「私も岬も、保養施設になるこの屋敷の管理者として残る予定です。まだ幸い身体が動くもので」
そう言うと、「ハッハッ」と笑い声を上げるのだった。
次に呼ばれたのは、女給の岬だった。彼女は前任の者が辞めてから勤め始めた新参で、今回の件に非常に困惑しているようだった。殊に前任者が盗癖があって辞めている事もあり、「私はそういう人間じゃありません!」と言葉に力を込める様は、大鵺にはどこか鬼気迫るものすら感じられた。彼は老執事に言ったのと同じ文句を繰り返すと、
「ですからもし気付いた点などありましたら、お力添え願いたいのです」
そう言い彼女を宥めようとするも、「特に、ないですけど……」と逆に距離を置かれてしまう。
「師匠は聞き方が下手なんだよー、女心が分かってないっていうか。――という訳で私が聞き取りする事にします!」
小角がそれっぽくポケットからメモ帳とペンを取り出して大鵺に宣言すると、彼は『好きにしろ』と言わんばかりに大袈裟に被りを振るのだった。
「えっと、岬さんは居間の奥のキッチンでお昼を作ってたんだよね?」
「はい、いつもこの時間にお作りしていますので……」
「11:30頃は、どこに行ってたの?」
「お恥ずかしいのですが……ちょっと用を足しに行っていまして。実は昨晩からお腹の調子が悪くて。……も、勿論手は良く洗いましたよ!?」
言うと彼女は恥ずかしげに僅かに頬を紅潮させた。
「なるほどなるほど。で、戻ってきたら灘さんが紅茶を淹れていたワケだ」
「はい、その後すぐに奥様がいらっしゃいました」
「その後は食事を作って、みんなで食べて、灘さんと片付けをしていたら夫人の声が聞こえて――皆が駆けつけたら、ネックレスがない、と」
小角が言うと、彼女は僅かに頷いてみせるる。大鵺がそれを引き継ぎ、
「警察に電話を入れたのは灘さんだと聞いておりますが」
「そうですね。奥様のひと声で、誰も現場から動かないようにという事でしたので、その場からご自分の携帯電話で掛けておられました。……こういう事を言ったらなんなんですが」
彼女は僅かに声を低めると、
「奥様、最近物忘れが激しいと言いますか……いや、他意はないんですよ、もうそれなりのお年ですし、人間その辺りはしょうがないと思うんです。でも……」
「つまり、奥様自身がどこかにやったのを忘れていた可能性があるのでは、と」
「いや、本当に可能性ですよ? あくまで可能性です」
そう言って咳払いをしたが、彼女が女主人の事を疑っているのは間違いないようだった。
「五日は住み込みで、終末は休みを貰ってるんだね。家は遠いの?」
「少し距離はありますが、苦になる程ではありませんね。……既にお調べかも知れませんが、実はバツイチでして。元旦那がすぐ手が出るような男だったんです。それで長期休職してて……」
「そこを拾って貰ったんだね」
「はい。なので奥様には恩があるんですが……」
「何か気になる点でも?」
「まあ、あると言えば……」
「言いにくい事ですか?」
「とんでもない、大した事ではありませんので」
「何か分かるかも知れません。是非教えていただけませんか? 貴方の為でもあるのです」
大鵺の言葉に岬は暫し沈黙した後、「本当に大した事でないんですが……」と口を開く。
「奥様がしてらっしゃった指輪――見た覚えがないなあ、って……。かなり年季が入ってるし、一部剥げてる所もあるみたいだから……あ、いや、私まだ新参だから、見た事ない物は多くて当然なんですけどね」
「あっ、あの指輪ねー。ネックレスと比べちゃうとちょっと格の差がねー」
小角がメモ帳に指輪の絵を描き始める。良く見ると他に書いてあるのはダックスフンドだったり御神楽巡査部長だったりと、メモ帳と言うよりはお絵描き帳と言った方が正しいか。
「お料理全般は岬さんがされるんですよね? 夫人は好き嫌いとかあるんですか?」
「いいえ、奥様は何でもお召し上がりになります。肉魚野菜キノコ、和洋中からエスニック系まで。ですので私も作り甲斐があります。あ、アップルパイだけは奥様の専売特許ですので、作りませんけど」
「好物なのかい」
「ええ……と言っても、年に一回しかお作りにならないという話ですけれど」
「ほう?」
「毎年花見の時に作って普段は飲まない洋酒も解禁されるという話なんですが……今年は難しそうですね」
言って彼女は何とも言えぬ表情を浮かべる。折角用意した食材を客に振る舞えない事に関して、彼女としても忸怩たるものがあるのだろう。
「なるほど。……して、休日はギャンブルに行くのがお好きだとか」
車中で御神楽から聞いていた話を確かめると途端に彼女は顔を真っ赤にさせながら、
「休日に何をしていようが私の勝手じゃありませんか!」
そう言ったきり、大鵺から顔を背けてしまうのだった。
「私がこちらに伺ったのは、金曜の午前中になります。少し早いのが失礼になるかもとも思ったのですが……失礼、花粉症でして」
そう言いながら目をしぱしぱさせるのは、灰色の髪をオールバックに固めた身なりの良い男――グループの重役である池端だった。
重役と言っても取締役などの類ではなく、有力事業の事業部長との事で、歳は五十という事だったが、皺が少ない為かその割には若く見える。目が充血しているのが大変そうだが。
「全く、この時期は敵いませんな」
言いながらポケットから目薬を出しておどけてみせる。
「差し支えなければ、どういった用件でいらっしゃったのか、伺っても宜しいでしょうか」
「ああ、この屋敷を保養施設に変えるプロジェクトの責任者が私でして」
そう言うと彼はカップをテーブルに置き、手を組んで軽く身を乗り出した。
「恒例の花見にも何度か招待された事があるのですが、今回は保養施設になった時の権利関係の確認がメインです。後はちょっとした交渉ですかね」
「交渉、ですか」
「ええ。それなりに年季が入ったお屋敷ですからね。もう少しまけて貰えないかと」
池端は言うと、大袈裟に顔を顰めてみせた。どうやら難渋しているようだ。
「夫人と会談をした時の事をお聞かせ願えますか?」
「はい。応接間で幾らか仕事をさせて貰ってましてね。仕事が一段落したので登記関係の事など奥様に確かめておこうと思ったんですが、お昼の時間でしたからね。私は予め昼は要らないと言っていたものですから、訊くならその後にしよう、と」
「拝見する限り、なかなかお疲れのようだ」
「胃弱と高血圧でしてね。まあそれも、一日二食に変えてからは随分と調子がいいものです」
重役が苦笑を浮かべる。
「そういう訳で、ダックスフンドのクロを捕まえて、暫く中庭で遊んであげていましたね。それから喉が渇いたので居間へ向かうと、先方も食後で丁度いいタイミングだったので」
「それから応接間に戻られた、と」
「ええ。具体的に言うと、13:30くらいから二、三十分程話していたでしょうか。残念ながら平行線でしたね」
「交渉はそう上手くいかなかったと」
「まあ、致し方ないですが」
「因みにネックレスの事はご存知でしたか」
「それは勿論。交流のある人間の間では評判でしたから。私も昨年お目に掛かっています」
「今回の件については、率直にどうお考えですか?」
「そうですねえ……私は案外灘さん辺りじゃないかと思っているんですが」
「と言いますと?」
「ご存知か知りませんが、灘さんは昔から亡くなった先代の事をライバル視していましてねえ。お二人が切磋琢磨しながら会社を盛り立てていたところがあったんです。実際昔は違う会社の人間でしたからね。好敵手と言うべきでしょうか。しかし家庭円満な会社社長に対して、灘さんはそう上手くは行かなかったようですから。熟年離婚して、財産もかなり持って行かれたって話ですよ。ギリギリまだ息子さんの所とは没交渉ではないらしいですが」
「辞めるなら何か先立つ物が欲しかった、という事ですか」
「お金にどの程度執着があるかは分かりませんけどね。……或いは嫌がらせをしたかったのかも知れません」
「嫌がらせ?」
小角が聞き返すと池端は黒い笑みを浮かべて、
「先代は『ここは俺の宝の館だ』と良く言っていました。文字通り『宝』、つまり財があるという意味でも、家族を指す言葉としても、灘さんの立場からすればやるせなく思える瞬間くらいあってもおかしくないんじゃないですか? 元はライバル企業の人間が、家族関係も上手くいかず、財産も相当持ってかれて、再雇用して貰えたはいいが屋敷の使用人として――っていうのは、一体どういった心境なんでしょうねえ」
そう言うと、くつくつと笑い始めるのだった。