3.
「……何だか思ってたのと違うんですけど」
「何がだね?」
「七十二歳って、あんなに動きが軽快なもんなの……?」
困惑の眼差しで小角が呟く。それに対して大鵺は、「それは君、想像力が足りないというものだよ」と微かに笑みを浮かべてみせるにとどめた。
二人は屋敷の中庭に降りていた。目の前で滝沢夫人が黒犬――かなり黒の割合が多いダックスフンドと戯れていた。その向こうには立派な桜の木が、既に九分程淡紅色の花弁を開いていた。園芸趣味でもあるのか、芝のあちらこちらに花が植えられている。しかし正直雑多な印象で、お世辞にも綺麗とは言い難い。
「毎日この子の相手をしてるから、お陰でまだ足腰がしっかりしてるのかもしれないわね」
夫人が黒犬を抱き上げながらそう言って笑う。
「主人が鬼籍に入る少し前、執事や前の女給と旅行に行ってたんだけど、帰ってきたら主人がこの子を連れて来ていてね。『俺が死んだらこいつを俺だと思ってくれ』って。暫くは来る人来る人に言っていたわ。でもこの子はあの人みたいに悪戯好きじゃないし躾もしっかりしてて――あまり吠えないから、そこは正直助かるわね」
「仲睦まじかったのですね。――面白い造りのお屋敷ですが」
「ああ、これも主人の若い頃の構想で、こんな形になっちゃったのよ」
二階建ての桜花邸は上から見ると凸型をしている。嘗ては二階を家族や来客用の部屋として使用していたが、今は使われていないらしく夫人の私室始め使用人の詰める部屋や風呂トイレ、応接間、居間と全て揃う一階で事足りているのだとか。
この居間というのは、家の中でも最奥に位置する場所で、上から見ると凸型の家の、十二時に出っ張った箇所に相当する。キッチンもこの場所の奥の一角にあり、基本的に調理担当の女給もここで調理をするとの事だが、来客があった際は夫人が手ずから料理を振る舞う事もあるらしい。
夫人の私室は同じ階の右肩、その右下には順に執事の部屋と女給の部屋が並んでいる。そのまま時計回りに下部――六時の位置には玄関、左下から九時の位置に掛けては来客用の応接間があり、最後にトイレと風呂場が居間の左隣に設えられている。
中央が中庭になっており、桜の木が一本植わっている。丈がそれなりにあり、二階建てのてっぺんから僅かに頭が出る程か。建物の内側に生えるわりに立派に枝が腕を広げているのは、二階部分が中庭側からも光を採り入れられるよう、斜めに切れているからだろう。所謂すり鉢状――乃至蟻地獄のような形状なのだ。
この中庭は四方を壁に囲まれており、唯一出入り出来るのは六時の位置――つまり玄関の真ん前からのみになる。丸い廻廊にぐるりと囲まれた形だ。蛇口がある他外履き用に履物も――招待する筈だった来客用のものだろうが――ちゃんと脇に用意されていた。
「園芸がお好きなようですね」
大鵺が問うと彼女は呵々と笑い、
「私は仕事人間だもの、そこまで興味はないわ。ここのものは殆ど前の使用人が育てていたのよ」
「前の、と仰いますと?」
「もう辞めてるわ。……というより、辞めさせたのよ、私が」
「ほう?」
興味深げな表情を向けられて家主は苦笑しながら、
「盗癖があったみたいでね。貴金属とか骨董品の中から、高くもなく安くもないものを、何点か持ってかれたわ」
言いながらしゃがんで足元に生えるアザミに触れながら、
「でも花には罪がないもの。だから育てているだけ。……まあ、私が水をやる事は、殆どないんだけどね」
と肩を竦めてみせた。
「随分と雑多な植え方だけど、整えようとかは思わないの?」
小角が直截に訊いてみると女主人は軽く被りを振りながら、
「まあ言ってみれば『戒め』というやつよ。同じような事を繰り返したくはないからね。来客もあるから、本当はもう少し整理した方がいいんでしょうけど……まあ、見られた所でババアの下手な園芸趣味と思われるだけだから」
「達観してるぅー」
「それに私も、もうすぐこの屋敷を離れるからねえ」
「へ?」
「この屋敷も人の出入りが少なくなったからねえ。二階の部屋も使われなくなって久しいし、もう少しコンパクトな暮らしにしようと思って。花見の少し後に、もっと郊外の落ち着いた所に移るつもりなの。娘や息子は近くに住めって言うんだけどね」
「家族の近くで問題あるの? いいと思うけど」
「年頃の子どもを抱える家庭の近くなんて、私は御免ね。可愛い孫とは言え、それはそれ、ってやつよ」
夫人が上がり框でダックスの足を綺麗に拭い、廻廊を曲がってゆく。「こっちよ」と二人は居間の右隣の部屋――夫人の私室へ通された。
部屋は一面書物が並んでおり、綺麗に整えられている。後から持ち込んだのだろう、奥にはベッドがあるのが見えた。中程の仕事机の上にはPCと書類関係がそれなりに積まれているようだった。
「元は主人の書斎だったんだけど――ちょっと後ろを向いてて頂戴」
言われ二人が後ろを向くと、暫くして背中越しに何かガチャリと開く音がする。許可を得て振り返ると、机の上には桜色に輝くネックレスが置かれていた。
「これが例のピンクサファイアよ」
許可を得た大鵺が机に近付くと、照明の光を受けてキラキラと儚げな輝きを放つ。彼女が指に嵌めている指輪にも宝石がついているが、全くと言って良い程の違いを感じる。
「綺麗……」
触りたそうに手をワキワキする小角を押し止めて、「夫人の指紋以外は検出されていない、という話ですね」と大鵺は手袋を嵌め入念に検める。
「……『より深く考えるべし』……」
純金製のネックレス、その留め具の辺りにそんな文言が刻まれている。
「何かおカタい言葉だねー」
小角が口をへの字に曲げると夫人は笑いながら、
「社訓なのよ。自分が死んでも社員の事をしっかり考えてやってくれ、って意味だと思うわ。ただでさえ『考えが浅い』だの『社員を蔑ろにするな』って、口を酸っぱくして言うような人だったから。このネックレスは彼が死ぬ少し前――クロと一緒に贈ってくれたんだけど、或いは自分が居なくなってからも、この姿勢は守って欲しい、という事だったのかも知れないわね」
「心のある社長だったようですね」
「厳しい面も当然あったけれどねえ。でもいつでも根底にあったのは、そういった社員への想いだったわ。『彼らは自分の道楽に付き合ってくれているんだから報いなければ』って。道楽とまで言ってしまうのは、どうかと私は思うけれど」
そう言って懐かしそうに彼女は目を細めた。
「夫としては如何でした?」
そう問うと彼女は今度こそ大きく笑い声を上げ、
「困った人でしたよ。洗濯を手伝ってくれたと思ったら私の下着を居間に干そうとするわ、クッキーを作ったと思えば中に御神籤を仕込んであるわ。子どもみたいな悪戯をする人でした」
「えー、いい旦那さんじゃん! 私もそういう男捕まえたいなー」
「このサファイアだってそうよ。『君にはこの桜色が似合うから』って、それで毎年花見の時に着けて欲しいとか言うもんだから。私あまりアクセサリーの類は多く持たない主義なのに。……まあ、今年はこんなゴタゴタがあったし、止めにしたんだけど。……桜を見る前にあの人逝っちゃったから、それが何と言うか、心残りね」
夫人がネックレスを貰ってから程なく、先代は動脈瘤が原因で亡くなったという。それを考えると、妻が寂しい思いをしないようクロ――ダックスフンドを連れてきたのかも知れない。
大鵺は二人がしんみりと遠い目をするのを無視して、机と金庫の位置を数度往復させる。
「――最後に見たとき、ネックレスはこの机の上に置かれていた訳ですね? それから居間に行き、戻ってきてからそれがないのに気が付いた」
「その通りよ。書類の上に、重石代わりに置いちゃってね。部屋は鍵を掛けないで開けっ放しにしている事が多いわ……不注意だったのは否定出来ないわね」
「具体的に言うと時刻は」
「居間に向かったのが11:45過ぎ、戻ってきたのは14:00前かしら。食後は池端――あの脂ぎった男ね、彼とここの土地の権利関係について諸々話してたわ」
「権利関係と言いますと……」
「私が移った後は、会社の保養施設にする話になっているのよ。綺麗な桜がある事だし……どうせなら有効活用して、社員に羽を伸ばして欲しいじゃない。――まあそのせいか、昨日なんかは随分と疲れている様子だったけど」
「素晴らしいお考えだと思います」
「私もこんな所で羽のばしたーい。ウチはどうなんすかボス?」
大鵺は小角の言葉は無視して、
「椅子などの調度品もそのままですね」
「そうね」
言いながら彼女は机の前に置かれた椅子に視線をやる。脚が高く重厚な作りは、年代物の高級品ではある事を窺わせた。椅子だけではない、机など他の調度品も、かなり凝った逸品揃いだった。
「率直に、どう思われますか。……いや、これでは質問が曖昧ですね。誰が盗もうとしたとお思いですか」
言うと途端に彼女の表情が曇る。暫し間があった後、彼女はクロを抱き上げながらその高そうな椅子に掛けると、
「刑事さんに依頼したのは、確かに私です。正直『誰が』、なんて疑いたくはないわ。疑いたくはないけれど……前の女給の件があるから、ね」
それだけ言うと彼女は肩を竦めた。それに関してはこれ以上言うつもりはない、という事だろう。
「分かりました。それではここから先はどちらかと言うとお願いになるんですが……事件を解決した暁にはですね、こう、何と言いますか……」
「分かってるわよ、相応の『気持ち』を払わせていただくつもり」
そう言って大鵺にニヤリと笑う様は、まさにやり手経営者のそれだった。