2.
事は三月二十九日金曜日、山の手に建つとある屋敷で起きたという。毎年催されている中庭での花見を翌々日に控え、屋敷の主人――滝沢シズは使用人とその下準備を行っていた。滝沢家は昭和初期に養蚕業で財を成し、後金融方面に転じ高度成長期に地歩を固めた、一円でも指折りの名家だ。屋敷の主人は先代会長の妻で、夫には四年前に先立たれていた。
屋敷には今の時代では珍しく使用人が詰めており、彼女を支えているらしい。グループに長年勤めていた仕事関係もこなせる老執事が一人と、最近入った女給が一人――彼女は主に身の回りや、食事を担当しているらしい。
事件当日、自室で仕事をしていた夫人はひと息入れに居間へ向かうと、紅茶を一杯口にした。そして自室へ戻る事なく、そのままそこで昼餐まで、幾つか別件の仕事をこなし始めたという。これは特段珍しい事ではなく、彼女が日常的に送っている、言わばルーティーンなのだとか。
そうして昼食後、客人との歓談を経て女主人が自室へ戻ると、部屋の中に異常を発見した。朝方部屋の金庫から机の上に取り出したばかりの筈の宝石が、保管用のケースや袋ごとなくなっていたのだ。
夫人の動揺は甚だしかった。なくなった宝石というのは夫人が秘蔵しているもので、亡夫から贈られたピンクサファイアのネックレスだった。大粒小粒のあしらわれたネックレスは本体も十八金製で、時価総額にして数百万は下らないとか。
彼女は毎年春になると、それを身に着けて中庭に生える桜の木の下で写真を撮るのを楽しみにしていた。今年も親しい仲間を呼んで集まろうと準備していた折、こんな事になったのだと言う。
「なるほど、それで阿闍梨警部が呼ばれた訳ですね。それだけ高価な品となると、所管する警察としてもそれなりに一大事ですから」
助手席から大鵺が後ろに座る巡査部長に返す。御神楽は頷くと続けて、
「ですが少し問題が発生しまして、如何ともし難い状況になっているんです」
「如何ともし難い状況?」
「ええ。通報してから警察が到着するまでの間に、ネックレスが普通に出てきたんですよ」
「ほう……?」
大鵺が言葉の端に僅かに喜色を滲ませる。
「つまりアレですか、件のピンクサファイアが、恐らくですが夫人的には明らかに不自然な状況でなくなり、彼女……かその関係者が警察に通報した。そこまでは良かったが、警察が来る前にソレが見つかった為、捜査する側からしてみれば、盗まれた、或いは盗まれそうになったと認定すると瑕疵が生じてしまいかねない。実際に物がなくなった訳ではないので多くの人員は動員出来ないが、あちらさんは一帯の有力者でもあるので容易には捜査を終了する事も出来ない、と」
「その通りです」
「被害はなかったの? 傷が付いてたとか、偽物とすり替わってたとか」
助手が『アランちゃん』――大鵺の愛車であるオレンジの丸っこい旧式イタリア車を運転しながら問うも、巡査部長はこれには首を横に振って、
「見つけた時は飼い犬が中庭で引き摺っていたそうで、箱や袋は少し傷が付いたものの、ネックレス自体は問題なかったとの事です。真贋についても、鑑識の話によれば間違いなく本物だと」
「それってアレなんじゃない? 夫人が自分でどこか別の場所に置いたのを忘れてた――とか。いいトシなんでしょ?」
「七十二になりますね。まあ今のご年配は、昔と違って元気ですけど……あ、そろそろ見えてきますよ」
彼女がそう言うと、程なく右手に瀟洒な洋館が現れる。二階建てのそれは暗紅色で、敷地内には高そうな自家用車の他、警察車両が一台停まっていた。御神楽がインターホンを鳴らすと、すぐに扉が開き老執事が姿を現す。
「御神楽様、お帰りなさいませ。そちらの皆様は……」
「外部協力者の大鵺さんと小角さんです。今回の件で力になって下さります」
「おお、それは大変失礼を致しました。桜花邸へようこそ。私はこの家の執事をしております、灘と申します。以後お見知り置きを」
慇懃にそう言うと、老執事は一行を中へと案内した。通されたのは入って左手奥の部屋で、中には当事者と思しき痩せた高齢のご婦人と、給仕姿の若い女、あぶらぎった顔をしたスーツ姿の男が居た。そしてもう一人――
「来たか」
部屋の窓際に立っていた、黒髪で背の高いオールバックの男がギョロ目を大鵺に向ける。コートのポケットに手を突っ込んだまま彼は一行に近寄ると、「まあこんな感じだ」とそれだけ言って丸いチューイングガムを噛み始めた。
「こんな感じと言われましても」
大鵺が控えめに抗議するも男はそれには答えず御神楽巡査部長の方にぐりんと首を回し、
「説明したんじゃないのか」
そう言って真ん丸に見開いた目を彼女の方に向けた。
「いえ、その……大鵺さんがなるべくフラットに現場と人を見たいと仰いまして……」
脂汗を滲ませながら答える部下に上司は暫し彼女をそのまま見つめるも、程なく、「なるほど、それも道理だ」と再び来訪者二人に首をぐるりと回すのだった。
「つまり概略は聞いているが証言は直に訊きたいって事だな? 正直俺も如何ともし難くてな。すまんが力添えしてくれ」
「そう言われましても……最低保証はあるんでしょうか?」
「抜け目のない奴め。……後はあちらさんに出来高払いでもお願いしておけ」
阿闍梨警部は関係者に見られないよう背を向けながら、茶色い紙幣を何枚か手渡した。つまりそれだけ払ってでもさっさとこの案件を終いにしたいという事だ。物的被害はないし、年寄りの物忘れにも思える事件なのだから、それも当然だろう。大鵺は受け取ったものを懐に収めながら、
「私たちがお力になれるかは分かりませんが、微力を尽くさせていただきますよ」
そう言って小角と共に応接間に集う面々に挨拶をする。
「まずはお手数ですが、滝沢夫人にお話を伺いたく存じます。宜しいでしょうか?」