9.
名指しされて葵は顔面蒼白になりつつも、小刻みに頭を振り、
「わ、私じゃありません!」
と訴える。大鵺はそれに肩を竦めると、「なら私の口から何があったのか、ご説明致しましょう」
そう言って部屋の中を歩き始めるのだった。
「事件当日、会場入りした桜井さんは控室に入ると、空調を切り、且つ例のパーカーを羽織っていました。その後恐らくトイレに行かれましたよね」
「まあ、暫く経ってではあるけど」
桜井が困惑気味に答えると、
「恐らくその時に橘さん側の扉が僅かに開いたのです。葵さんも直後控室を出て、用に立った。……違いますか?」
大鵺の視線に葵は黙り込んだままだ。『是』という事だろう。
「しかし豈図らんや、女子トイレは使用禁止になっていた。ステージに上がるのが男ばかりですからね、スタッフも女子トイレについて説明するのを失念していたのかも知れません。上階の舞台袖まで向かうのは面倒と思った貴女は、水が流れる事を確認して用を足そうとした。――そんな時に、隙間から見えてしまった訳です。旦那と同じ中肉中背かつパーカーを着た男の後ろ姿を。部屋を出たタイミングから、貴女はそれを夫だと思ってしまった。パーカーを着ていたのも大きかったですね。実際の桜井さんは、恐らくトイレに篭っていたのでしょうが」
「……そうだな、確かに少し長い時間居たかも知れない。腹が少し緩かったのと――急な温度差が苦手なんですよ、気持ち悪くなってしまうので。……しかし何故?」
桜井は妻に困惑した眼差しを向けるも、彼女は黙りこくったまま、彼の方を見ようともしない。
「結論から言えば、すれ違いですよ」
「すれ違い、ですか?」
尚も訳が分からない風の桜井に対して、葵の方は驚愕したように目を見開く。
「そう仮定した場合、話が分かりやすいんですよ。審査員に金を握らせる夫――それも大金だ。通常、それが意味するところは一つです。そして実際に貴方が勝者になった。ああそうそう、件のギターはかなりの高級品なんですよね? 借りた金で購入されたという話も聞いていますが――奥様の立場だったら、桜井さんはどう思われますか?」
桜井が表情を強張らせ、同時に葵が俯いた。ややあってから桜井は苦しげにひと言、
「……あのギターは、妻からも金を借りて買ったものです」
言うや項垂れ、葵は微かに啜り泣き始めた。
「葵さんはファンの方にも知られた、糟糠の妻と伺っています。彼女は目にした『不正』を黙っている事も出来た。しかしそうはしなかった。それが怒りから来るものなのか、正道に立ちかえって欲しいという願いからかは分かりません。確かに言えるのは、送られてきた『脅迫状』は、彼女からのそういったメッセージだった、という事です」
葵の啜り泣きが嗚咽に変わり始める。「ごめんなさい……」と漏れる言葉は痛々しい響きだった。桜井はそんな妻を優しく抱き寄せると、「不甲斐無くて、ごめんな……」と込み上げるものを必死に堪えるのだった。
「……ええっと、質問をしても?」
「どうぞ」
桜井夫妻から向き直った橘が大鵺に問う。
「なくなったギターは結局どこにやったんですか?」
すると「はーい」とこれには小角が答える。
「多分だけど、女子トイレの中に置いていたんじゃないかなー? 修理はまだ先だって話だし、当日一瞬隠す分には案外バレにくいもんでしょ。仮にみんなで探そうって話になっても、女子トイレは多分女性が確認するでしょ。当日女性は葵さんだけだから、それで問題なし、ってワケ。後は翌日ギターを探すって名目で、上手い具合にマスキングテープやら錠を取り付けたんじゃないかな。あそこの経営者のお爺ちゃん、ボケが入り始めてるから、いつ錠を着けたかとか覚えてなさそうだし。……って事で」
部屋の隅で布に覆われていたものを引っ張ってくる。彼女が覆いを取るとそれは年季の入ったギターケースで、「あっ!」と桜井が驚く間にそれが開かれる。中に収められていたのはインディゴブルーのエレアコ――まさしく彼の愛器だった。
「まあ、『ギャラを渡しに来たスタッフ』と見間違えた、っていうのは、ちょっとそそっかしかったかな?」
愉快げに小角はケースを軽く叩く。
楠木と榎田が苦笑とも安堵ともつかぬ表情を浮かべ、橘は「一件落着、というやつですか」と柔らかい笑みを浮かべた。
「……」
「……」
安逸な空気が漂い始める中、大鵺と小角の二人が途端に黙り込んでしまう。それに気付いて、「あの……仰った事に、間違いはありませんけど……」と今度は葵が赤い目で困惑の眼差しを二人に向ける。それで全部なんですが、と。
「――ときに、この部屋寒いと思われませんか?」
「ん? ああいや、確かにそう思うが。二十二度設定とか言ってたか」
怪訝な眼差しで楠木が大鵺を見る。
「二着しかないパーカーの内一着は桜井さんが着ていらっしゃいました。もう一着は写真に写った例の人物です」
「そうだな。スタッフの誰かなんだろう?」
「もし予め、この部屋に置かれていたとしたら?」
「それってどういう――」
「つまり、お客さんが来るって分かってたら? ってコトだよー」
「……審査員の先生が用意していた、って言いたいのか?」
皆が橘を見る。彼は今日も、イベント時と同様にジャケットをぴしりと着こなしている。空調の設定温度も同じだ。かなり冷えている。来客があるのを見越して、二着の内一着を用意していてもおかしくない。
「そう言われましても、違うとしか言いようがないのですが……」
「橘さん、こう言ってはなんですが、あなた方の不注意がなければ今回の件は起きなかったんです。本当は何があったか、ご自分の口から説明した方がいいんじゃないですか?」
「ですからあれはスタッフが入金出来なかった関係で――」
橘が従来の説明を繰り返そうとすると大鵺はそれを遮るように彼に背を向け、
「実は外部の目撃者が居まして」
「目撃者?」
「ええ。『ドゥカート』のファンが、貴方の部屋から出る人物を目にしているんですよ。顔は見ていないとの事ですが、その人物はパーカーを着ていて、奥の控室に向かおうとして一度引き返したそうです。私はそれを、恐らくパーカーを返す為だと考えています」
「ちょっと待て、それって――」
楠木が思わず隣に立つ人物に顔を向ける。
「中肉中背で、奥の控室を使っていた人物。そうなるとそれに該当するのは、一人しか居ません」
言って大鵺はその人物の側に歩み寄っていく。
「そうですよね? 榎田さん」