2.
新宿西口の大ガード下を渡り数分の所に、小さな公園がある。昼過ぎという事もあり、多くのサラリーマンや作業員がベンチや段差に腰掛け、暑気に汗を掻きながら弁当を頬張っている。依頼人である棗が軽く周囲を見回すと、上段の方に軽く手を挙げる長袖の男を見付けた。
男は中肉中背で髭を無精に生やし、生気のない虚ろな眼差しを彼女に向け、また少し後ろを歩く大鵺に向かい軽く会釈をしてみせた。
「桜井です」
立ち上がりながら男はそう言うと、「落ち着いて話が出来る場所じゃないかも知れませんが」と二人に掛けるよう促した。「桜井さん、ちゃんと食べた方がいいですよ」と棗が言うと彼は苦笑を浮かべながら力なく首を横に振り、「食欲がなくてね」と肩を竦めてみせた。
「大鵺と申します。今回の件で調査を依頼されました。助けになれるかは保証出来ませんが、イベント当日の事を話して頂けませんでしょうか」
「無論話すさ。と言っても、棗さんに話した事の繰り返しになるがね」
そう言って彼は軽く嘆息をついてから、思い出すように僅かに瞑目して当日の事を語り始めた。
『マッチ』があった当日、彼は基本的に控室に篭って居たらしい。そこで本番に向けた調整をしたり、精神集中の為瞑想を行っていた。彼の話によれば控室を出たのは僅か数度で、それも用を足す為だったという。体格の割に少食であるらしく、当日も昼に持参したおにぎりを一個口にした程度なのだとか。無論、本番前の緊張もあって、物が喉を通らなかったというのもあるだろうが。
二組の内、先にステージに上がったのは桜井の方だった。そうして一時間に渡る演奏を終えた後、シャワールームで汗を流してから控室で二組目の演奏をモニターで見ていたという。
イベントの時間配分に関しては、まず一組目が前半の一時間。三十分の休憩を挟んだ後、後半一時間が二組目の演奏となる。更に三十分の審査時間があった後結果発表となるので、総計三時間オーバーの長丁場だ。
その間審査員は基本的に現場の特等席でパフォーマンスを見ている為、送られてきた写真はイベントが開始する前ではないかというのが桜井の見解だった。
二組目の演奏が終わり、審査が行われる間に控室を後にしたのだが、その時までは自分のエレアコがそこにあったような気がするが確信はないとの事で、ひょっとしたら演奏終了直後に舞台袖に置いたのが確実に触った最後かも知れないのだとか。
審査結果が告げられ大々的な宣伝によるメジャーデビューが決まり、ふわふわとした非現実感の中控室へ戻ると、そこで初めて異常に――愛器がなくなっている事に気付いたのだった。
「あの会場はバックヤードにカメラもないし、警備が多い訳でもない。正直疑いたくないが、『それなりに中で自由に行動出来る』誰かだと……そう思う」
「例のパーカーは、実際桜井さんも着ていたりしたんですか」
「そうだな。こう見えて少しばかり寒がりでね。会場入りの時はスタッフが気を利かせて空調をガンガンに入れてくれてたんだが、すぐに消してそれなり長い時間アレを着込んでたよ」
「推論で構いません。具体的に誰の仕業だと思いますか」
問うと彼は皮肉げの笑みを浮かべながら、
「結果発表の後は、勝った方と橘さんだけがステージに残ったからな」
暗に二組目の誰かの仕業ではないかと、そう言うのだった。
彼によれば、二組の控室はそんなに離れていなかったという。同じ廊下の両端がそれで、その中間に件の音楽プロデューサーの控室があったらしい。先に帰って来た方が簡単には盗れない状況だとは言いにくい。
「……まあそれなり見知った仲だから、正直疑いたくなんかないがな」
「見知った仲?」
大鵺が聞き返すとこれには棗が反応して、
「相手方の二人――楠木さんと榎田さんは、桜井さんとは大学の同期なんです」
「ほう……?」
興味深げに眉を上げて顎に手をやると、大鵺は続けて、
「ジャンルは違うんですよね? 交流があったと」
言うと桜井が「ハハッ」と軽く笑いを上げた。
「確かに俺はブルースやファンク寄りだし、奴らはガチガチのハードロック志向だ。けどそういうのはおいて、路上でパフォーマンスするような肝の据わった奴は、結局そんなに多くはないって事さ。それを見てバカにする輩はいつの時代も枚挙に暇がないが」
「つまり路上演奏で知り合いになったと」
「いつも場所の取り合いをしていたよ」
懐かしそうに目を細める桜井だが、やがてその目は伏せられ、拳が怒りに震え始める。
「盗まれたギターは、俺が一年前嫁にプロポーズする際使った大事なものだ。稼ぎがないなりに貯めた金を叩いて手に入れたものだ。それは当然奴らも知ってる……!」
言葉に力が入り、知らず語尾が大きくなる。見れば周囲の数人が何事かと桜井を一瞥していた。彼はそれで我に返るや、ひとつ軽く咳払いをして、
「妻とは大学を出た後に知り合い、長く同棲しててな。非正規で収入の少ない俺でもいいって言ってついて来てくれたんだ。自分の仕事もあるのに、いつもこっちを優先して、生活費を切り詰めて……義理の両親は歓迎してくれたけど、内心不安だった筈だよ。これでやっと少しは安心させられると思ったのに……」
「糟糠の妻――というやつですね」
大鵺が言うと、桜井は苦笑を浮かべながら僅かに頷いた。
「今回も搬入やら手伝ってくれてな。メジャーに上がるのが決まった時は舞台袖で放心状態だったよ」
「となると、奥様も関係者として出入りされていたので?」
「ああ。俺が訊いた限りでは特に変な奴を見たりはしなかったって話だが、あんたが訊けば何か新しい事が分かるかも知れない。今は仕事をしている時間だが、夕方以降なら話を聞けると思う。どうする?」
「それではそのようにお願い致します。その間私は、他の関係者と接触してみましょう。何か面白い事が訊けるかも知れません」
そう言っておもむろに棗の方に振り返り、
「棗さん、電話をお借りしても宜しいですか」
「へ?」
自分のを使えばいいじゃないかと彼女は一瞬戸惑うも、理由が分かり僅かに目を見開く。
「えっと……携帯、お持ちでないんですね」
大鵺はそれにはニンマリと笑みを浮かべ、
「流儀なもので」
そう宣うのだった。