1.
神田神保町の、外れにある雑居ビル――その前に若い女性が立ち尽くしている。
時刻は朝の九時前、黒のスーツを着た彼女は建物の前でひとつ息を吐くと、重い足取りで中に入っていく。
エレベーターで三階に上り、正面に現れた薄汚れた表札を確認すると、知らず彼女はそこに記されている文字を呟いた。
「『ぬえサービス』……」
知る者でなければまず立ち入ろうとしないだろう、その錆の浮いた扉をノックしようとした所で、階段を誰かが駆け上がってくる音がした。そこからショートカットの若い女が姿を現すや――
「ちょっとごめん!」
スーツの女に軽くぶつかりながら、若い女は扉を力一杯に開き、中に駆け込んだ。
訪問者が呆気に取られているのを他所に、彼女は中に向かって大声で、
「師匠、お金貸して!」
出し抜けにそう宣った。
中から「一体どうしたんです」と男の落ち着いた声音が聞こえてくるも、徐々にやり取りはヒートアップし、
「だから給料の前借りでいいって言ってるじゃん! 何で分かんないの!?」
「貴女は頭がおかしいんですか!? 碌に仕事もしない人間がそんな戯言抜かさないで下さい!」
と収まる気配がない。どうしたら良いか分からずオロオロし始めるスーツの女だったが、やがて「そんなに大きい声出さないでよ! お客さんびっくりしちゃうでしょ!?」と若い女が怒鳴る段になってようやく室内は静けさを取り戻し、ややあってから三十前後と思しき、シャツにスラックスを履いた男が奥から姿を現すのだった。
「……えー、大変お待たせ致しました。当事務所の代表、大鵺と申します。お仕事の依頼ですかね?」
男は中肉中背、髪は比較的淡い色で、人当たりの良さそうな顔をしていた。スーツの女は僅かに首肯すると、「御神楽です」と男と握手を交わしてから中へ案内される。中では先程の女が、「助手の小角です! 宜しくお願いしまーす!」と営業スマイルを向けていた。彼女も御神楽と握手をするや、
「警察の人だよね?」
そう言われて、御神楽は思わず目を瞠った。
「どうして分かったんですか?」
「なーに、簡単な事ですよ」と言いながら助手は自分の胸の辺りを指差し、
「さっきぶつかった時、ここに変な感触があったから。恐らく金属、もっと言えば手錠かな? 足元もヒールやパンプスじゃなくて運動靴だし、ウチに来る人でそういう感じの人って言ったら、警察関係者しかいない」
「そ、その通り、ご明察です」
助手は「それ程でも」と返すと、『師匠』と呼ばれた大鵺の方に向き直り、ドヤ顔を浮かべてみせる。大鵺はそれには応えず助手の近くまで歩いてくるや、黙って彼女の耳を捻り上げる。「い、痛い痛い!」と返す小角に冷ややかな視線を送ると、
「早くポケットの中の物を出しなさい」
「わかった、わかったって!!」
言いながら彼女は上着のポケットから何やら四角い物を取り出す。開かれたそれには顔写真とともに、『巡査部長 御神楽ナユタ』の文字が記されていた。
「えっ!? い、いつの間に」
慌てた様子で警察手帳を回収すると、巡査部長は他の装備が大丈夫か、自らの全身を検め始めた。
「ほ、他の物は盗られてないようね……」
「本当に申し訳ございません……この女はこう、とにかく手癖が悪くて……警察手帳をスったなんて、これでは阿闍梨警部に顔向け出来ません」
「わ、私が阿闍梨さんの部下だという事までお分かりだったんですか」
「まあ、警察の方でウチに来るのはあの人の紹介だったり、でなければ部下の方でしょうから」
そう言って、改めて彼は客に席を勧めた。
「それでは、具体的な相談内容をお伺いしましょう。……あ、宜しければどうぞ」
小角が紅茶を運んでくる。香りが芳醇で、良い茶葉を使っているのが窺われた。御神楽巡査部長はひと口それを含むと、「今の手帳の一件は、警部に知られると私も大目玉を食らってしまうので、どうかご内密に……」と二人に念押しする。確かに、警官が警察手帳を盗まれたなんて、冗談にもならないだろう。「はい」と大鵺は返しながら隣の小角の頭を押さえつけ、「す、すいませんでした……」と助手に言わせる。それを受けて御神楽は軽く咳払いをすると、改めて、
「えっと……ここは探偵事務所、なんですよね?」
「探偵? いえいえ、まさか!」
ハハハッ、と大鵺が笑うと続けて、「ただの何でも屋です」
「何でも屋?」
「はい。依頼さえあれば、庭掃除から食材の買い出しまで、対応出来る範囲でさせていただいております」
「でも紹介制だから、お客さんあんまり来ないんだよねー」
とスツールに掛けた助手が宣うも、師匠は無視して、
「阿闍梨警部からの依頼という事は、何か警察では対処しかねる面倒事が起きた――という事ですか?」
「そうですね。……実の所、警部に仕事を押し付けられた格好でして……。あ、こちら警部からです」
言って彼女は懐から、折り畳まれた紙片を目の前の男に手渡した。男がそれを開くとそこには――
『俺は忙しいから委細は御神楽に聞いてくれ。来てみれば分かる。阿闍梨』
「……全く、いつもの事ですが、簡潔過ぎるメッセージですね」
大鵺が難しい顔で天井を見上げる。そこに助手が覗き込んで、
「でも面白そうじゃん? 『来てみれば分かる』だって! ほらチャンスだよ! 阿闍梨さんの仕事は断れないでしょ?」
「……不本意だがその通りだな。お得意様を蔑ろにする訳にはいかない。それに……上司に仕事を押し付けられた可哀想な部下さんをこのまま返してしまうと、後味が悪いというものですからねえ。――小角くん、お金が欲しいならついて来るといいですが、どうしますか?」
言うと小角は喜色を露わに飛び上がると、
「下にアランちゃん回してくる!」
「何度も言っているでしょう! あの車はそんな名前じゃ――」
師匠の言葉には耳も貸さず、助手は扉を開け放したまま階段を駆け下りていく。
「全く……失礼しました、ひとまず現場に向かいながら、事の次第をお聞かせ願えますか?」
再度呆気に取られそうになっていた御神楽は、柔和に笑みを向ける大鵺に、どうにか引き攣った笑みを返すよりほかなかった。
終了間際の参加になってしまった……
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