メイド服にはキスマーク
美術部の新入部員だった私が部長の御園茉里奈先輩と付き合い始めたのが一カ月ほど前。それからというもの休日はだいたい茉里奈先輩の家に遊びに行くのが当たり前になっていた。名目としては絵画技法を教えてもらう為ではあったが、実際はただの家デートだ。美術のことなどそっちのけでおしゃべりをして過ごすことも少なくない。
その日は会った瞬間から茉里奈先輩は上機嫌だった。
「今日はコレを着てもらってデッサンをしようと思うの」
にこにことしながら私に見せたそれは、黒と白のコントラストがシックな印象を与えてくる、まごうことなきメイド服だった。ただし英国式の古風なメイドではなく、秋葉原にいそうなスカート膝上丈のジャパニーズ式メイド。袖や裾にはばっちりとレースがあしらわれている。
私は服を受け取って細部を確認しながら茉里奈先輩に聞いた。
「どうしたんです、これ?」
「もちろん買ったのよ。あゆちゃんに着てもらう為に」
「まぁそれは分かりますけど、なんでまたメイド服を?」
「だって可愛いじゃない」
なんてシンプルな答えなのか。こちらの疑問を全て一蹴する回答に称賛すら送ってしまいそうだ。
「茉里奈先輩ってもしかしてコスプレとか好きなんですか?」
「好きじゃないわよ。こういうの買うのも初めてだったし」
「初めてでコレですか」
「えぇ。テレビでメイド喫茶を見たときに思ったのよ。『あゆちゃんに着させたら絶対に似合うだろうな』って。それでネットで調べて、良さそうなデザインを探したりレビューの評判を見て決めたのがそれなの」
通販サイトのレビューを真剣に読んでいる茉里奈先輩はなんというか不思議な光景だ。そこまでして私に着せたかったのか。
「じゃあまぁ着ますけど、ちなみに茉里奈先輩の分はないんですか?」
「ないわ。あゆちゃんのメイド服姿が見たいのであって、私が着たいわけじゃないから」
「え~、茉里奈先輩も絶対似合いますよ! あ、でも着るんならこういうスカートが短いやつじゃなくて、本場寄りのロングスカートのクラシックなやつがいいですね」
ボリュームのある黒のロングスカートに白のエプロンを身につけた茉里奈先輩の姿を思い浮かべる。粛々と雑事をこなす様はまさしく本物のメイドさながら。もし茉里奈先輩がメイドとして仕えてくれたらさぞかし毎日が幸せだろう。
私は茉里奈先輩に詰め寄った。
「着ましょう! 茉里奈先輩も! 是非!」
「うーん、あゆちゃんがそこまで言ってくれるなら着てみようかしら」
「はい! デザインは私が選ぶので、とりあえず決まったら連絡します」
頭の中でなんとなくデザインを考えながら、ふと手に持った服を見て当初の予定を思い出した。
「っと、すみません。今から着ますね」
「うんお願いね。私は外に出てるから、うまく着られないときは呼んでね」
「着替えるとこ見なくていいんですか?」
素朴な疑問を口にすると、茉里奈先輩は引きつった笑みを返してきた。
「えぇっと、あゆちゃんは普段私をどういう目で見ているのかしら?」
「だって茉里奈先輩、私を恥ずかしめるの好きじゃないですか」
「そ、それはたまたまそういう状況になってるだけで意図的に仕向けてるわけじゃないの。それともあゆちゃんは私が目の前で着替えさせて楽しむような悪趣味な人間だと思ってるの?」
「…………」
「悩まないで! 地味に傷つくから!」
「あはは、まぁ半分冗談として、茉里奈先輩は私が嫌がるようなことはしないって分かってますよ」
「半分は本気なのね……」と悲しそうに呟いてから茉里奈先輩がドアの方へ向かっていく。外へ出る間際、肩越しに振り返って私に言った。
「プレゼントの箱って開ける瞬間が一番楽しいものじゃない? 箱詰めするところを見ちゃったら楽しみが半減してしまうわ」
ぱたりとドアが閉められる。私はその向こうにあるはずの背中をじとりと見やってから。
(それが本音か)
と胸中で呟いた。
メイド服一式を着終わって、私は姿見で自分の姿を改めて確認する。
幅広の肩紐に大きなフリルがついたエプロン。スカート丈に合わせているので前掛けは半円ほどの大きさしかない。エプロンの下の黒のワンピースは袖部分が膨らんだパフスリーブになっていて私の腕を細く見せてくれる。スカートは波打つような折れ目がついていてボリュームがあるのに、長さが太ももまでしかないので少しかがんだら中が見えてしまいそうだ。胸元、袖口、スカートの裾にそれぞれ繊細なレースがあしらわれていてとても可愛らしい。そして頭にはお揃いのレースをあしらったカチューシャ。足元は白のオーバーニーソックス。
(これは……メイドだ。どこからどう見てもメイドだ……! それもオムライスにケチャップでハート描いちゃうやつだ……!)
謎の感動を覚えながら鏡の前で一回転してみる。ふわりと浮きあがるスカートが楽しくてもう一回まわった。
(こういうの着るの結構楽しいかも)
普段着ない服だからこそ新鮮に感じるし、なによりも服自体が可愛いから着るのが楽しい。私もコスプレに興味があったわけじゃないけど、確かにこういうのにハマる気持ちというのは分かる気がする。
ひとりでポーズを取りながらにやけているとドアの向こうから声をかけられた。
「どう? 大丈夫そう?」
「あ、は、はい。もう着ました。オッケーです」
私は慌ててカチューシャの位置や胸元を整える。「入るわね」と部屋のドアが開いた。
「――――」
茉里奈先輩が息を呑んだ音が私にも聞こえた。口を両手で覆い、目を大きく見開いたまま立ち尽くし、間を置いてからゆっくりと近づいてくる。手の届く範囲まで来て茉里奈先輩は足を止めた。
沈黙に耐え切れずに私は口を開いた。
「えっと、どうです、この服」
「か」
「か?」
「可愛いぃぃーっ!!」
茉里奈先輩の感情が噴火した。
「可愛い可愛いあぁこれすごい可愛い可愛い可愛い!!」
大変です。学校では清楚で大人びた雰囲気で生徒から人気のある茉里奈先輩が可愛いを言うだけのbotになってます。
「ねぇねぇ、スカートの裾つまんでちょっと横に広げてみて。きゃーっ! あぁ写真撮らなきゃ!」
指示どおりにすると茉里奈先輩が大急ぎでスマホを構えて写真を撮り始めた。あれこれとポーズを指定する様はさながらカメラマンのよう。
半狂乱の先輩に念のため確認をしておく。
「これって一応デッサン用のモチーフってことなんですよね?」
「でっ……さん……? あぁ、そうね。その通りよ」
「ちょっと待ってください。今『デッサンって何のこと?』みたいな顔しましたよね? デッサンするから着て欲しいって最初に言ってましたよね?」
茉里奈先輩が至極真面目な表情で見つめてきた。
「あゆちゃん」
「はい」
「建前って知ってる?」
「あーはいそうですよね知ってましたどうぞ好きなだけ撮ってください」
私はすべてを悟り諦めた。後顧の憂いの無くなった茉里奈先輩は嬉々として私にあれこれポーズの注文をつけてくる。
(まぁ喜んでくれてるみたいだし、今日はサービスしてあげますか)
フッと息を吐いてから、私はとびきりの笑顔をカメラに向けた。
四つん這いになったりベッドに寝そべったり手でハートを作って笑顔を振りまいたりして、数十枚は写真を撮られただろうか。しかし撮影会はまだ終わる気配がない。
飽きてきた、というか撮られるばかりですることがないし、せっかく茉里奈先輩と二人きりなのにこんなことで時間を使いすぎるのはもったいない。
「茉里奈せんぱーい、いったん休憩にしませんか?」
「え、あぁ、そうね。最後、最後一枚だけいい?」
「それは別にいいですけど。せっかくのメイド服なんですから、ほら、私が茉里奈先輩にご奉仕するっていうのもいいんじゃないですか? お茶とかついだりしますよ?」
私がお茶をそそぐ動作をしてみせた途端、茉里奈先輩の表情に電撃が走った(ような気がした)。
「なんてこと……そうよ、それがあったじゃない……」
「あのー、茉里奈先輩?」
私の呼びかけなど聞こえていないようで、茉里奈先輩は「ちょっと待ってて!」と部屋を飛び出していった。
ぽつんと残されて待つこと数分。茉里奈先輩が戻ってきた。手にはティーセットが乗ったお盆を持っている。
「お待たせ。さ、ついでくれるんでしょう?」
息も荒くお盆ごと私に渡してから茉里奈先輩はローテーブルの前に正座して姿勢を正した。
ティーポットの蓋を開けると紅茶の香りがたちのぼってきた。中を覗き込むと透明な赤茶色の液体にティーパックが浮いている。パックを放り込んでお湯だけ急いで入れてきたんだろうなぁ、と容易に想像がついた。
「えっと、作法とか知らないのでただそそぐだけになっちゃいますけど」
「作法なんて何でもいいわよ。あ、でも口調はちゃんとメイドっぽくしてね」
「茉里奈お嬢様、紅茶をお注ぎいたします……みたいな感じですか?」
茉里奈先輩が口元を押さえてぷるぷると震えだす。
「お嬢様――あぁ、良い――」
これはアレだ。普段物静かな人が実は大の犬好きで、可愛い子犬を見たときに感情のメーターが一気に振れきってしまうやつだ。
犬を私に置き換えるとなんとも恥ずかしいが嬉しくもある。ここは犬らしくご主人様にじゃれつくとしよう。
「失礼いたします、茉里奈お嬢様」
膝立ちになってテーブルの上にカップを置き、紅茶をそれっぽくそそぐ。茉里奈先輩は「ありがとう」と澄ました顔をしながら片手でスマホを私に向けてカシャシャシャと連写していた。
「どうぞお召し上がりくださいませ」
「ん」
茉里奈先輩がカップを持ち上げて口をつけた。一口嚥下してから、はぁ、と恍惚の息を吐く。
「いつもと同じ紅茶なのにこんなに美味しく感じるだなんて」
「そりゃあ私の愛情入りですから」
少しおどけて言うと、茉里奈先輩は納得したように頷いた。
「確かに、それは美味しくなるのも当然ね」
「冗談のつもりだったんですけど……」
「何で? 本当のことを言っただけよ。もし私が同じようにあゆちゃんにお茶を淹れてあげたら同じように感じるはずよ」
「それはその、愛情入りだから?」
「勿論」
私の頬が急に熱くなってくる。ふざけるわけでも照れるわけでもなく普通に言い切ってしまうところはさすが年長者といったところか。
「……茉里奈先輩がメイドになってくれたときに確かめてみます」
「えぇ。楽しみにしててね」
俄然茉里奈先輩用のメイド服探しのやる気があがってきた。その日の為に可愛いティーセットを買っておいた方がいいかもしれない。
「あ、そのときは私の家に来ますか? 先輩が家に来てくれるなら私頑張ってお菓子作っちゃいますよ」
「本当? だったら絶対に行くわ。あゆちゃんの手作りのお菓子なんて最高のごちそうだもの」
「あんまり味に期待はしないでくださいね」
「大丈夫。たとえ丸い形をした炭が出てきたとしても美味しく食べきる自信があるから」
「さすがにそんなの出しませんよ!」
と言ったはいいがやっぱり不安なので練習はしておこう。うん。
茉里奈先輩が何かを思い出したかのように両手を打った。
「あぁそういえば紅茶は持ってきたのにおやつを持ってきてなかったわね。すぐ取ってくるからまた待っててもらえる?」
立ち上がった茉里奈先輩にぶんぶんと腕を振って遠慮する。
「いいですいいです。私お腹空いてないんで」
「あゆちゃんが良くても私が良くないの。せっかくだからあゆちゃんにおやつを食べさせてもらわないと」
「……メイドって食べさせたりしますっけ?」
給仕係が食事の際の補助までやるのはそれはもはや介護ではないだろうか。
「私が見たテレビではオムライスを食べさせていたわ」
「あぁー」
その光景に納得する。ふーふーしてからあーんまでするメイドな喫茶だ。
茉里奈先輩が更に語る。
「勿論そういうサービスだっていうのは分かるけど、でもヨーロッパの実際のメイドも主人に食べさせてあげていたんじゃないかって私は思うの」
「そうなんですか?」
「だって、私が主人だったら絶対に食べさせてるもの」
「…………」
すごく説得力のある言葉だった。まぁ昔の貴族なんて好色ばっかりだろうし(偏見)、公の場以外では案外好き勝手にやっていたのかもしれない。
ふと茉里奈先輩がじーっと私の顔を見つめていた。
「あぁ、そうね」。
「?」
茉里奈先輩は意味が分からずきょとんとする私の側に近づいて腰を降ろすと紅茶を一口飲んでからにこりと笑った。
「おやつじゃなくても甘い物ならここにあるじゃない」
そう言って私にいきなりキスをしてきた。紅茶の香りがふっと鼻腔を抜けていく。反射的に体を反らそうとした私の後頭部を茉里奈先輩の手が止めた。
茉里奈先輩は唇をゆっくり離してから囁きかけてくる。
「――今のあゆちゃんは私のメイドでしょう? 逃げたりしちゃダメよ。これは命令だからね」
私が小さく頷き返すと、茉里奈先輩は目を細めて微笑んでから再び紅茶に口をつける。ごくんと喉が動くのが見えた。そして私に手招きをする。その意図をくみ取って唇を差し出すと、茉里奈先輩はキスをした。
キスが終わるとまた紅茶を飲み、紅茶を飲んだ後はまたキスをする。そうしてカップの中が空になる頃にはまるで私が紅茶を飲み終わったような気分になっていた。
茉里奈先輩が、ふぅ、と一息つく。
「……このおやつはダメね。中毒成分が多すぎるわ」
「私の唇は麻薬か何かですか」
「唇が、というよりはあゆちゃん自身が麻薬みたいなものかしら」
茉里奈先輩が私の首筋に唇を当ててそのまま強く吸い付いた。
「あっ――待って、先輩――跡になっちゃいます」
「絆創膏で隠せば大丈夫よ」
「いやいや、虫さされでも首に絆創膏貼ってたら『へぇ~、昨日はお楽しみだったんだ~』みたいこと言われるんですって」
「いいじゃない。本当のことなんだから」
「いやいやいや!」
「まったく、我が儘ね」
どっちがですか、と胸中で突っ込みを入れておく。
すると茉里奈先輩が私のエプロンの紐をしゅるりと解いた。続いてワンピースの後ろのファスナーを降ろしにかかる。
「ち、ちょっと、急にどうしたんですか?」
「だって見えるところにキスマーク作られたくないんでしょう? なら見えないところに作るしかないじゃない」
そういう意味で言ったんじゃないのにと思いつつも上半身を脱がし始めた茉里奈先輩に「腕抜いて?」と言われて従ってしまう。なんだかんだ言いながら先輩に対して甘いなぁ、と実感する。だって仕方ないじゃないか。好きな人にお願いされたら断れないんだから。
場所をベッドの上に移した。ブラも外されて上半身裸になってしまった私は仰向けになったまま胸を腕で隠し、気恥ずかしさから天井に視線を向ける。
「服、皺になっちゃいますけど」
「クリーニングに出せば平気よ」
「でも――んっ」
茉里奈先輩が私の胸元に吸い付いた。小さな鋭い刺激は痛いというよりはこそばゆく、吸い付く音が部屋に響くたびに私の胸の鼓動が強くなっていく。茉里奈先輩は何度もついばむようにキスをして跡がついたことを確認しながら位置を下にずらしていく。
下がる途中で私の腕が邪魔になったのだろう。私の腕にそっと手を置いた。
「…………」
「…………」
無言で見つめ合う。これは腕を開いた方がいいのだろうか。しかしさすがにこの距離で胸を見られるのは……ベッドの上だし。ヌードデッサンならば一応芸術の為という名目があるがこれは明らかに違う。とはいえ強引に腕を掴まれたら私には抵抗のしようがない。もしも先輩が望むのなら、私はそれに従うだけだ。
葛藤する私の頭を茉里奈先輩が優しく撫でた。
「このまま無理矢理するのは卑怯よね。ごめんなさい」
茉里奈先輩が体を離した。「あ」と私の口から小さく声が出たのは寂しさによるものだったのか。先輩のぬくもりがなくなった上半身がやけに涼しい。
引き留めるという選択肢が頭によぎらないわけではなかった。もっと触れて欲しいとお願いすれば茉里奈先輩は快く了承してくれるだろう。でもそれを口にする勇気は今の私にはない。
嘆息する私に茉里奈先輩が振り返った。スマホを片手に構えながら申し訳なさそうに言う。
「えぇっと、今のその格好も撮っていいかしら……?」
さっきまでの迫力はどこへやら。私の顔色を窺うような茉里奈先輩の物腰に思わず笑ってしまった。
「いいですよ。好きに撮って。でも絶対に他の人に見せないでくださいね」
「当たり前よ! もったいない!」
「あの、もったいなくてももったいあってもダメですからね?」
私の言葉なんてもう聞こえてないのか茉里奈先輩が様々な角度から私を撮影し始めた。胸だけはしっかりと死守しながら、茉里奈先輩に言われるがままにスマホのレンズに目線を向ける。
撮影を続ける茉里奈先輩がしみじみと呟いた。
「きっと実際のメイドたちもこうやって脱がされたりキスマークをつけられたりしたのね」
「一応聞いておきますけど、何でそう思うんですか?」
「私が主人だったら絶対にしたから」
何も言えずに私は乾いた笑いをこぼした。なんとも素直な先輩だ。これから先も一緒にいる限りこうやって自分の思うがままに行動をして私を振り回すのだろう。
その未来を想像するだけで嬉しさがこみあがってくる。好きな人に振り回されるのなら本望だ。茉里奈先輩はどうだろうかと考えて、すぐに思い直した。聞かなくたって気持ちが同じことくらい分かっている。以心伝心、相思相愛、なんでもいい。大事なのは私と茉里奈先輩の心が通じ合っているということだ。
そろそろ服を着たいんですけど、と念を送りながら私は茉里奈先輩に向かって微笑みかけた。
夜、家でシャワーを浴びていたとき鏡越しに胸元につけられたキスマークが目に入った。その数五つ。ちょっとやり過ぎじゃないかと思いつつも、茉里奈先輩用のメイド服が届いたらこれと同じことをしてやろうと私は密かに決意を固めるのだった。
終