第七話
あれから五日が過ぎた。
先日の騒動は、クラスメイト全体に行き渡っていた。無論、脚色はされている。賢介が鴻上を詰り、逆上させて小競り合いに発展した、といった具合にだ。賢介が弁明しようと聞き入れてもらえるわけもないので、賢介は最初からスルー。鴻上も、無理に自分が悪いといった風に悪評を取り下げようとはしない。当然だ。賢介と鴻上は敵対しているのだから。敵に塩を送る真似をしてどうする。
その上、鴻上には立場があるのだ。
クラスをまとめ上げる。統率者としての矜持もあるだろう。
自分を不用意に安く売る行為は、後の不信問題につながる。
賢介も、今は良い具合に纏まっているクラスを、内部から食い破るような真似はしたくない。
寧ろヒールを買う事で、集団心理を煽ろうとさえ思う。
絶対的カリスマと絶対的ヒール。
この二つが揃って纏まらない集団があるわけがないのだ。
「新十郎くん、マジ可哀想だよね」
「そうそう。弱いヤツの僻み、みたいな? 超ダサくない?」
「鴻上くん怒っても仕方ないよねー。実力も無い人間に色々言われたらさ、腹も立つっしょ」
クラスでの好感度は降下の一途を辿っている。
元々好きでも嫌いでもない連中だ。嫌われたのなら嫌い返せば良い。
今後こいつらと密な関係になるわけでもない。
今日もまた訓練が始まる。
魔術訓練の際には、いつにも増して視線が痛かった。居たたまれなかった。女子の目なんか特に酷い。何か汚物でも見るような視線だ。ただ、そんな視線には見覚えがある。結局、あのクラスで生活していた時も、こういった手合いは居たのだ。それが顕著になっただけ。大義名分を得て、包み隠さずに堂々としていられる、という、ただそれだけだ。
「ヲタ介、かかってこいよ。新十郎ぶん殴れるなら、俺なんかイチコロだろー?」
模擬試験も苛烈を極めた。
大柳を初めとする、計三名程度が、普段のノルマだったのだが、本日は十名近くと相手をした。その度に無様に地を這いつくばる。嬲る。彼らも彼らなりに手を抜いているので、骨折したりと大怪我こそない。それでも痛みは蓄積する。気を失えたらどれだけ楽か。賢介には対抗手段も抵抗手段もない。為されるがままだ。生き地獄、なんて生易しいものではない。じわじわと精神も蝕まれていく。
笑う。嗤う。哂う。
重なる嘲笑が溶け合う。
滲み出る悪意が徐々にボルテージを増していく。
模擬戦闘を終えて。
ボロボロになった肉体に鞭を打つ。
空回る思考の中に、ぽつんと残された賢介。一寸どころか行く先々が全て闇に覆われた、アンダーグラウンドに今、取り残されている。歩けど歩けど、先は見えてこない。それはまさに、城郭をぐるぐると回る賢介そのものだった。走っている間は、鍛えている間は、無心で居られる。心を消していられる。でも、ふと気づけば、自分が一体何者で、何の意味があってこんな事をしているのか、不安になる。
心がぐしゃりと握りつぶされる。
愚者り。
「賢介。今日も中々タフな一日だったな。痛みは勲章だ。訓練は以上、しっかりと休め」
「はい」
爽やかな笑顔のスティーヴ。
彼の目には、あのワンサイドゲームが、一般的な訓練に見えているのだろうか。
いや、違う。この世界の常識だ。弱肉強食。
弱き者は淘汰される。それだけだ。
「…」
夕食を食べる気さえ起らない。
何かを食べて、腹を満たして、それでもきっと、心は満たされない。
飢えているのだ。
ただただ飢えている。初めての経験だった。愛情、友情、そういった一人では満たされない感情を欲しているのだ。苦い経験も、気の許せる友人と話せば笑い話にもなる。一人で背負うには大きすぎる十字架も、二人で背負えば軽くなる。三人なら、四人なら、尚更だ。一人で背負い込んで、抱え込んで、隔絶した世界の中で生きてきた賢介。彼が感じた初めての「飢え」は、きっと誰しもが通る道なのではないだろうか。
勇者稼業から逃れようと思う気持ちが招いた、天罰なのかもしれない。
そう思えば、自業自得で仕方がない。
城内に戻るか、逡巡している時。
「…おや? 貴方は先週の」
見覚えのあるローブと声、ふと視線を上げると、エイラが居た。
「…誰だ?」
「覚えてないんですか!?」
「冗談だ、ってか何の用事でここに来たんだ?」
「…オルディナ様にお話ししたいことがあったのです。後、私、エイラって名前ですから!」
ぷくぅっと頬を膨らますエイラ。
童顔の彼女がそれをすると、怒りっぽい小学生にしか見えないから困る。
しかし、一転。
「…貴方、なんでそんなにボロボロなんですか」
賢介の状態を見ると、表情を厳しくした。
修道女であるところのエイラにとっては、襤褸雑巾みたいになっている人間は汚物同然か。
賢介は苦々しい表情を一瞬顔に出すが、すぐに戻す。
「悪かったな。いや、これから風呂に入ろうと思ってたとこに来たお前が悪い」
「違います。なぜ、そんなボロボロの状態を看過されているのですが、と言いたいのです」
「…あ?」
「だから、貴方だって友人ぐらい居るでしょう。仮に居なくとも、知り合いぐらいはいるはずです。私のように。なのに、なぜボロボロになっている貴方をどうも思わないのでしょうか、ということです」
エイラは真剣な表情だ。
ボロボロのままを見過ごされたわけではない。姫路や倉橋は、賢介の状態を気にしていたのだが、賢介がスティーヴに追加訓練を申し出る事で、自然に接触を断っただけである。今の賢介はヒールオブヒール。そのくせ回復魔術が使えないのだから、使えないにもほどがある。何にせよ、嫌われ者を気に掛けることは、今後クラスの輪から外れることを意味する。仮に二人がそれを承知でコミュニケーションを取ってきても、とてもじゃないが賢介には堪えられない。傷を負うのは一人で十分だ。
だから、答える。
「別に。俺はどうにも他の連中より弱くてな。傷は名誉だ、痛みは勲章だ。だから、これは、一見してみすぼらしいかもしれないけど、俺にとっちゃ栄誉あるものなんだよ」
「…本当にそう思っているのですか」
「どういう意味だ」
スティーヴの受け売りは多少無理があるかもしれない。
けれど、そうでもしないと、壊れてしまう。心が、身体が。
頼むから、馬鹿な奴を見る目で、そうですかと言ってほしい。
優しく、しないでほしい。
「…はぁ。そうですね、それじゃあ、疲れ切った心を癒すエピソードをお話ししましょうか」
「…?」
「言ったでしょう。ありがたーいお話があると」
ニヤっと勝ち誇った笑みを浮かべるエイラ。
賢介にこの場から逃げ出すようなヴァイタリティは、もはやない。
逃げ場所も無い。そうなれば、袋のネズミである。
城の裏側、丁度誰の眼にもつかない付近に移動し、腰を下ろす。
城の両サイドは出入り口が用意されている為、見つかる可能性があるのだ。
一応、エイラの立場を考慮してのことである。
「これはですね、一人の男性の話なんです」
「…『アースガル教』に関係があるのか」
「密接な関係は無いですが、彼の優しさや人間味を『アースガル教』は至上のものとしています。痛みも優しさも、分け合い、分かち合うからこそ、その意味を理解出来るものなのですよ」
「そうかね…」
エイラはそんな風に前置きをすると、話し始めた。
「彼の名前はメルク。中流階級の生まれの、普通の人でした。普段はぶっきらぼうですが、根は優しく、だからこそ人と折り合いをつけるのが非常に上手でした。友人も多く、人脈も広かったと聞きます。そして、彼は多くの人を救いたいと思い立ち、帝国軍に志願するのです」
「帝国軍…。モルディアか?」
「はい。一応民間伝承という形で、この話は残っていますよ。図書館にも童話や寓話として残っています」
「そうか…」
「では、話の続きをしますね。帝国軍でメルクは中々昇級出来ずに伸び悩んでいました。実力社会な帝国軍の中で、メルクは後輩にも先輩にも、同級生にも馬鹿にされました。自分と同期の者は、自分よりも二つも三つも上の階級に居る。そのことが彼を堪らなく焦らせたのです。結婚を前提に付き合っていた女性にも逃げられ、両親からも面汚しだと詰られ、彼には居場所が無くなっていきました」
よくある典型的なパターンだ。
賢介はこちらの世界の童話や寓話も、日本のそれと大差ないのだな、と親近感を覚える。
「そして、彼はついに自殺を試みます。帝国軍を去り、彼は当時魔境と呼ばれ、魔獣が多く蔓延る土地に身を寄せました。そこならば誰も来ません。元より誰も来ない事は彼も分かっていました。なので、彼はそこで飢え果てて死ぬと思われました」
「思われました…?」
「ええ。彼は餓死寸前の空腹の状態で魔境を彷徨いました。人間の本能は恐ろしいもので、空腹を抱えた彼は、最早見境なく食べ物を探し始めたのです。魔獣には『コア』と呼ばれる部分がありまして、『コア』を破壊すると邪気を失い、魔獣は心を取り戻します。ですが『コア』を破壊するには、相応の装備や筋力が必要ですから、今にも倒れて死にそうなメルクには『コア』を破壊する力は残っていません。『コア』が残ったままの魔獣の肉は、食べると呪いを受けますから、必然的に誰も食べません。そんな折、魔境を踏破していた冒険者の方々が、道中で倒した魔獣が放置されていました。腐食はそこまで進んでおらず、まだ新鮮な状態の肉だったそうです」
「『コア』を破壊してないのに、死んでいたのか?」
「はい。『コア』はあくまで、魔獣に邪気を供給する部位なので、破壊せずとも倒すことは可能です。ただ、冒険者という職業柄、日持ちのする食料品を大量に抱えて行くわけにもいきません。なので、その場で倒した魔獣の『コア』を破壊して食すのが暗黙の了解だと言われています。きっと、食べきれなかった魔獣か、倒したことを忘れられた魔獣が、そこに居たのでしょう」
「なるほどな…。話を続けてくれ」
「はい。死ぬ一歩手前まで追い詰められたメルクの前に姿を現したのは、皮肉なことに、食べると呪いを受ける魔獣の肉。調理されていない生肉を、メルクは食べました。呪いを我が身に受けることを厭わず、一時的な空腹を満たす為に肉を食らった彼は、実に人間らしいと言えますね。そして、肉を食べた瞬間、今まで空腹だった胃袋に固形物が放り込まれたことで、強烈な腹痛と共に倒れ込みました。或いは、メルクはこれを呪いの影響だと考えたかもしれません。魔獣の肉を食らった天罰だと」
「生肉って時点で結構アウトだけどな…」
科学的に、思わずツッコミを入れてしまった。
エイラは首を傾げるが「あぁ、確かに生臭いですからね」と頓珍漢な感想を口にする。
こちらでは生肉の状態での食事はタブーではないらしい。
「しかし、メルクは目を覚まします。そして、何故か自分の身体が異常なまでに軽く、異常なまでに強靭に感じられたそうです。そんな彼は、素手のまま、そして着の身着のまま、魔境を放浪しました。襲い掛かる魔獣を倒しては喰らい、倒しては喰らい、そうしていつしか、彼は自分が恐ろしいまでに強くなっていることを実感したのです」
「…それはつまり、魔獣の肉をそのまま食べるのはアウトと言われていたが、それは禁断のドーピング的要素を含んでいたから、道徳的、倫理的側面から禁止されていた、ってことか?」
「いえ、この童話を実践した大馬鹿者は、そのほぼ全てが死にました。魔獣の『コア』が持つ邪気、負の力は壮絶です。個体によってバラつきはありますが、最短で食べて三十分も経たずに呪いが発動し、一日が経過するまでに亡くなってしまう場合もあります。呪いは一度発動してしまうと、回復魔術を用いても完治出来ません。必ず後遺症を負います。現に、死の呪いから逃れた者も、身体を自由に動かせなくなったり、何もしゃべれなくなったり、と酷いダメージを受けているのです」
「…それじゃ、何故そいつは?」
「彼には、特殊な技能があったと聞いています。それが解放された、というのが有力説ですね」
「なるほどな…」
「はい、それで続きになるのですが、彼はその力を持って、人々を救いました。食料が無い村には大量の食べ物を、お金が無い村には大量の寄付金を、魔獣に怯えながら暮らす村に『コア』を破壊した近隣の魔獣の肉を、与えて回ったそうです。その後、彼の実績を褒め称え、彼は英雄となりました。当然、そうなると近寄ってくる人もいます。ですが、それだけは、その人達だけには厳しかったようです。そこもまた、人間味がありますよね。優しさだけでなく、厳しさと、そして人間らしい感情を持った、生きた英雄だったのですよ」
「英雄も人の子か…」
長々と話をし終えたエイラには、若干達成感の色が滲む。
蘊蓄ばかりの退屈な話だと思っていた賢介も、素直に聞き甲斐のある話だったと感心する。
何より、クラスメイトらと違い、対等に話せる相手だというのが、嬉しかった。
「中々面白かった」
「そうでしょう。これで貴方も『アースガル教』に入信したくなったでしょう」
「いや、それはない」
「なぜ!?」
「それとこれとは別だ。『アースガル教』と強引にくっ付けすぎだ」
「ぐぬぬ…。ああ言えばこう言う…。まったく、折角私がタメになるいーいお話をして差し上げたのに。それに対する対価を頂きたいものですね~」
「お前が勝手に話し始めただけだ。俺は立ち聞きしただけ。つまり、ここにやり取りは生まれてない」
「んな!? そんなのってありですか!?」
「大体、聖職者ががめついんだよ。謙虚さを覚えろ、謙虚さを」
「くぅ…」
悔しそうに歯噛みするエイラ。
そんな様子を見て、自然と頬が綻ぶ。こんなに自然体で笑ったのはいつ以来だろうか。
対人関係の中でこうして笑ったのなんて。
「…取り敢えず、俺は戻る。お前もさっさと帰れ」
「む、この私に感謝の言葉も無いんですか、貴方は」
「そうだな。忘れてたよ。ありがとう、楽しかった」
「…ふむ。仕方ないので許してあげましょう」
うんうん、と鷹揚に頷くエイラに思わず吹き出す。
無理して背伸びしている子供にしか見えないのである。
エイラはその様子を見て少し怒り出すが、すぐに収めて、ぺこっと礼をする。
「ちょっとまだ話し足りないですが、それはまたの機会に」
「あぁ、そうだな。今度は顔を出すよ」
「おや、それは良い心がけです。先程の無礼を許してあげましょう」
「笑って悪かったな。あまりにもミスマッチすぎて…くく」
「こらぁ! 私が寛容な心で許すと言っているのに、なぜ敢えて掘り返すのです!」
「悪い悪い…。まぁそう怒るな。大人な女性はもっと淑やかで穏やかなんだぞ?」
「むぅ、そういうものですか。ならば、私は大人な女性ですので、許して差し上げます。三度目は無いですからね」
「分かった分かった」
それでは今度こそ、さようなら、またお会いしましょう。
そう言ってスタスタと去っていくエイラを眺めながら、一息つく。
俺も帰ろう、と賢介が裏庭をぐるりと回ろうとした時。
「あのぉーーー!!」
遠くから、こちらを呼ぶエイラの声。
「お名前ぇーーーー! 聞いてませんでしたぁーーー!!」
今更かよ…。賢介は若干の恥ずかしさを感じながらも、声を張り上げる。
「金城ぃーーーー! 賢介だぁーーーー!」
すると、こくん、と元気一杯に頷き、すぅっと深呼吸するのが見えた。
「賢介さぁぁぁーーーーん! またお会いしましょーーーーう!」
「またなぁーーーー!」
ぐっとサムズアップ。その後可愛らしく、ばいばい、と手を振る。
賢介も大きく手を振ってそれに応じる。
すぅっと心の中が冴えていくような、澄んでいくような感覚を味わう。
「…風呂入って寝よう」
明日も、少しだけ粘ってみようか。
どうせ逃げるのだとしても、ギリギリまで粘ってからじゃなきゃ、あまりにも惨めだ。
賢介はゆっくりと城内に入っていく。
彼の頭の中には、最早細々とした考え事など一つもない。
だから気付かない。
エイラと長々話している間、上階の窓から、その姿を眺める人物が居たことに。
「…賢介くん」
物悲しそうに、目を伏せて、そして泣き出しそうになる、その姿を。