第九話
「来ましたか」
前線に参加するなり、セヴェイがこちらへ向かってきた。
セヴェイの恰好は、そこらの兵士の重装備とは比べ物にならないぐらいに薄い装備だ。ヘルムにスケイルアーマー、金属ブーツの兵士に対し、レザー系の装備に薄いガウンのような丈の長いアウターを羽織っている。魔術師なら頷ける装備の薄さだが、剣士で、それも前線を駆け回る一人の兵士として、その恰好は如何なものかと思わざるを得ない。一応重めの装備を付けた一同は、きっと同じことを思ったのだろう。
その視線に気づいてか、セヴェイは己を振り返り、一つ息をつく。
「私は作戦を考案する司令塔のポジションも担います。そのうえで、戦地を駆け巡り、敵を薙ぎ払っていかねばなりません。だからこそ、重装備だと体力を摩耗するのです」
どうやら、それ相応の理由があるらしい。
だとしても、それはセヴェイがそれに足る実力者であるからだ。
「こちらで既に編隊をしてあります。鴻上くんの指揮下には、接近戦闘を得意とするメンバーを。大柳くんの指揮下には、槍や棒を用いる中距離戦闘メインのメンバー。そして姫路さん、倉橋さんの指揮下に魔術を得意とするメンバーを配置しました。これを読んで各自隊列を組んでください。隊列を組んだら、各隊に一人案内役を付けるので、各自所定の位置にて戦闘を開始してください」
的確で正確なセヴェイの指示に皆が従う。
各隊が十人程度で構成されている。鴻上をメインとするグループは、颯爽とナビゲーターに付き従って前線を進んでいく。姫路と倉橋もナビゲーターに支持されて小高い丘の方へ。残された大柳のグループは、鴻上グループを追随する形で追いかける。賢介は大柳のグループに属していた。理由は分からないが、近接戦闘組のお零れを倒す役割を任されたと思えば、頷ける采配だ。
「おいヲタ介、ノロノロしてんじゃねえぞ」
大柳から檄が飛ぶ。
首肯を返す。
「ちっ。なんで俺の隊にこんなゴミが…」
大柳の言葉に周囲の連中が頷いたり同意を示す。
それはこっちが聞きたい、と賢介は思ったが、口には出さない。
変に抵抗して、今の調子を崩すのは良くないと思ったからだ。
「前線の戦闘地域を確認!」
ナビゲーターが声を荒げる。
既に鴻上らは武器を振るい、迫り来る『レーゼ』を薙ぎ倒している。
『レーゼ』の外見はオオカミのようであった。他にもトラのようだったり、ライオンのようだったりと様々である。また『レーゼ』は身体の何処かに『コア』を持っている。『魔獣』は『レーゼ』とイコールで結ばれる。厳密には『魔獣』の中でも特別強い個体を『レーゼ』に分類しているわけだが。強力な動物の相貌をしている『レーゼ』は、その場にいるだけで威圧感を放っている。一瞬恐怖で賢介の足が竦む。しかし、鴻上に怯えも恐れも無いようだ。
奇麗なフォームで剣を振るう。
「『セイクリッドブレイド』!!」
鴻上の振るう剣から光が舞う。
剣劇と同じ速度で、同じ線上を光の斬撃が一閃する。
「グギャアアアアア!!」
奇怪な悲鳴を上げて真っ二つになっていく『レーゼ』
それを見て、嘔吐する者も見られる。現実であそこまでグロテスクな映像は中々見ない。
大柳らもそれに混じっていく。
「『空隙槍』!!」
シュドッ、という鈍い音を炸裂させて、まっすぐに『レーゼ』目掛けて槍を突き刺す。
すると、突き刺した『レーゼ』を貫いた槍の先から濃密な空気が砲弾のように発射される。
それは一直線上の『レーゼ』を、さながらレーザー光線のような一撃で薙ぎ払う。
「…」
異次元を見ているようだった。
鴻上も大柳も、実戦ではただただ武器をぶつけ合うだけだった。しかしながら、彼らは彼らで自身が持つ能力を把握し、技能を利用しているのである。『ステータスパッド』にはスキル項目もある。技能や能力値に応じて解放される。彼らはこの世界でも有数の実力者、彼らに掛かれば初期的なスキルでも驚異的な破壊力を叩き出すことも可能だろう。
取り残されたなんてものではない。
圧倒的隔絶。
そこにあったのは、一線を画す隔絶であった。
「…くそっ」
逃げ出す。
賢介は隙を見て戦闘地域を外れ、ひたすらに森の奥を突き進む。
『レーゼ』の姿は確認出来ない。どうやらこちら側には居ないようである。或いは粗方駆り尽されたかのどちらかだろう。何にせよ、有難かった。霧に囲まれ、雲が空を覆い、今にも雨が降りそうな曇天。濁りきった心を映しているようで、なんだか親近感が湧いてくる。賢介の後を追ってくる者はいない。いるはずがない。彼らは今『レーゼ』と戦うことに必死で、一つとして役に立つことのない賢介の存在など、認識の範疇にいない。いや、元からそうだったのかもしれない。
劣等感、敗北感。
今まで感じたことのない、絶望的な感覚を一身に味わう。
「…そうだ。これはチャンスじゃないか。ここで逃げてしまえばいい。この場でなら、俺は死んだ人扱いになるかもしれない。そうだ。逃げよう。俺には荷が勝ち過ぎていたんだ。勇者なんて柄じゃないんだよ。なに、知識ならある。このまま逃げても何の問題も無い。いける」
それを引き留めるのは、良心か。
姫路や倉橋に、一言も告げずに去ることへの罪悪感か。
「…何考えてんだ。姫路も倉橋も、別にただのクラスメイトじゃないか。それに、俺一人居なくなったって何の問題も無い。はは、自尊心だけは尊大だから困ったもんだ。それに、俺が死んだとしても、多少は悲しむかもしれないが、それも一瞬だ。俺が消えれば、そのうち俺のことも忘れる。そうした方がいい」
決める。
ここで逃げよう。
セコメアに流れ込み、一晩をやり過ごす。貰った装備を売り払って路銀にし、ロヴェーニャに到着したら少し金銭を集める。その後『アルフヘイム』へ飛ぶ。それから先はまだ決まっていない。それでも、ここで明確に力の差を感じながら、ただ指を咥えて見ているだけの人生よりマシだ。
なに、そのうち、逃げ続けた人生も良いと思えるようになる。
弱者には弱者の戦い方がある。無理な戦いをしないで逃げることだ。
恥を忍び、プライドを捨て、意地を放棄する。それだけだ。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。
逃げるは一時の恥、逃げぬは一生の恥だ。
そうして一歩踏み出した時だった。
「グルルルル……」
「あ…?」
目が合った。
先程見た『レーゼ』ではない。サイズが違い過ぎる。先程のが大型犬程度のサイズだとすれば、目の前のそれは戦車を一回り大きくしたぐらいのサイズだ。そのうえ、外見はまさに古狼である。鴻上の戦っているのもオオカミのそれだったが、目の前のこいつと比べると、ゴールデンレトリバーとオオカミぐらいの差を感じる。サイズ、威圧感、全てが桁違いだ。濃密な死の気配が、背筋を撫でる。
額に輝く鮮血に似たルビーが埋め込まれている。一際大きな『コア』
「グラアアアアアアアアア!!」
およそ狼の声とは思えない、野太く莫大な音の爆弾が周囲を圧倒した。
そして次の瞬間。
「…え?」
ぐらり、と身体が傾く。
いつしか古狼との距離は僅か数センチにまで迫っていた。
ヤツが食らっているのは、何だ?
「…あ、ああ、ああああああああああああああ!!!!」
右腕と右足が、無い。
あの一瞬で、瞬きする程度の本当に僅かな時間で、奴は肉薄し、賢介の片手片足を食らったのだ。
認識が追いつくと同時に、痛覚が作動する。強烈な痛みが右半身から染み入ってくる。
「あああああああああああ!! ああああああああああ!!!!」
叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。
あらん限りの声で、みっともなく、ひたすらに、叫ぶ。
痛みが脳髄を支配していく。呼吸をする度に突き刺すような痛みが走る。
「あぁ、あぁぁ、あぁぁ…!! く、そ、くそ、くそ、くそ、くそ!!!」
にじり寄る古狼。
目と目が合う。死の気配は確定的な「死」へと変換され、ぬちゃあと古狼の口が開く。
鼻が曲がるような獣臭と、生温い風を全身に浴びる。
「あぁ…!」
その時、賢介は思いもよらぬ行動を取った。
それは賢介の意図する行為ではなく、そもそもそんな事をしようとさえ考えていなかった。
ただただ、無抵抗で死ぬのは御免だと、形振り構わず身体を動かした。
意識が肉体を凌駕する。
潜在意識が、肉体のキャパシティを越えた運動を可能にした。
ガブリュ。
そんな効果音が適切なんじゃないか、とそう思うぐらいの噛み付き攻撃だった。
噛み付き口撃。それは、古狼の鼻先を抉り、思わぬ反撃に弱弱しい悲鳴を上げて古狼が退く。
口の中に滲む血の味。それが古狼のものか、賢介のものか、最早判断もつかない。
凄い勢いで流れ出る血液によって、寒くなっていく身体。もう、指一本動かない。
「はは、はははは…ガッ!?」
ざまぁみろ、とばかりに、精一杯の強がりで笑う。
だが、次の瞬間、脳天を突き刺されたかのような激しい痛みが走った。
これが、エイラの言う呪いなのだろう。
「(どうせ死ぬんだ。なら、一矢でも報いたいじゃねえかよ…)」
一矢ほどの報いにさえなっていないけれど。
あんなドでかい化け物の鼻先を抉ってやったんだ。
賢介は満ち足りた気分だった。
ずきずきと、脳天から痛みが下ってくる。
それは徐々に心臓に近づく。
「ガッ…ハァッ!」
あまりの痛みに声が出る。
面食らった様子の古狼は、何か恐ろしいものを見る目で賢介を一瞥し、去っていく。
誰も居なくなった。また、誰も。
「死ぬ、のか…」
歪む視界、眩む意識、そして痛々しく刻まれる鈍痛と刺痛。
引いては寄せる波の如く、薄れる意識が痛みによって覚醒する。
しかし、痛みが徐々に弱くなっていく。これは痛みに身体が慣れたのか。
それとも、もう取り返しがつかない所まで衰弱しているのか。
後者だろう。賢介は瞼を閉じる。
大きな血だまりの中、片手片足を失った何者かが倒れている。
きっとそれは誰も気付かない。誰も気づけない。
◆◆◆
「雪乃ちゃん、どう?」
一方、姫路ら魔術師部隊は落ち着いた立ち回りを見せていた。
倉橋と姫路のツートップが強烈な魔術を繰り出す。それに後衛のクラスメイトが続く。
鴻上や大柳の部隊に被弾しないよう、距離と範囲を調整して撃つ。
「んー、上々かな。新十郎と了太が頑張ってるから、あんまあたしら必要ない感じ」
「確かにねー。凄いよ、二人とも」
「なに、賢介よりもかっこいいーって?」
「ち、違うよ! 賢介くんは、その、そういうかっこよさじゃないんだもん」
「まぁね。それはあたしも頷けるなー」
姫路、倉橋の双方の中で、賢介の魅力は割と統一されていた。
スポーツが得意なわけでもない。勉強が凄い出来るわけでもない。何か芸術的なセンスがあるわけでもない。はっきり言って平凡な生徒、金城賢介。彼の魅力は、それでいて平然と自分を持っていることだ。姫路や倉橋には、幾つも武器がある。容姿、頭脳、運動神経。およそ人として生きていく上で、困らないどころか贅沢に生きていけるレベルの装備が、彼女らにはある。
だから、見下したわけではないが、装備の無い賢介が自分をしっかりと持っていることが凄いと感じる。
持つ者がそれを失った時、甚大なダメージを負う。
貧弱なステータスを豪華な装備で覆い隠しているにすぎないのだ。
だけれど、賢介は。
クラスでオタクを公認されても、自分の趣味だからと文句を言わない。誰かに何かを言われても無暗に怒ったりしない。一見それは為されるがままであるのだが、その中でもしっかりとしたルールが存在し、隔絶や壁が存在する。自分を確立している。自分の本当に守りたいものの為なら、要らないものを迷うことなく切り捨てられる。それが賢介の強みであり、魅力だと、姫路と倉橋は感じているのだ。
姫路にせよ、倉橋にせよ、彼らは生活の上で色々なものを犠牲にしている。
鴻上の強引な誘いに乗り、大柳のそこまで面白くない話に笑い、大澤の自慢話に相槌を打つ。これは二人がトップカーストであるが故に背負った十字架である。一度や二度、それを拒絶するのは良いだろう。だが、それを常にブロックし続けるのは、ノリの悪い相手だという烙印を自らに押すようなものだ。クラスの中心で、学年の中心であり続けた二人だから分かるのだ。より、分かる。
一人でいる辛さや、悲しみが。
賢介は元々一人で居る方が得意なタイプだ。だが、それは得意なだけで、好きなわけじゃない。賢介とて、常日頃から一人で孤独に生きていたいというワケではない。だが、賢介にとって揺るがせてはいけないアイデンティティを守る為に、賢介はコミュニティを切り捨てた。対人関係を断捨離した。それは見ようによっては、コミュニケーションの放棄だ。だが、二人はそうだと思わない。
自分の好きな物や人を小馬鹿にされて、へらへらと笑っている人間より。
その時に怒り出せるような人こそが、本当に真剣に何かを好きでいる人だと思うから。
「賢介くんは…なんだろうね。分かんないけど、凄くかっこいいんだ」
「本当にね。イケメンでもスポーツマンでも天才でもない。寧ろ二次元愛の激しいゲーオタだっていうのに。なんでだろうね、あたしも麗華の言いたい事は分かる気がする」
「私が持ってないものを、持ってるから、なのかな」
姫路は倉橋より我が強い。
自分がしたい事を押し通すくせがある。それもまた、姫路のチャームポイントではあるが。
しかしそれとて、TPOを考慮しての事だ。周囲との軋轢を気にしての事だ。
無論、TPOを意識しなければならないことは多々ある。
葬式でいびきをかいて眠るなんて有り得ないし、結婚式に裸で行くのもあり得ない。
それでも、自分のスタイルを、価値観を、既存の枠に収めることを良しとしない。
それが金城賢介なのだ。
授業の際には居眠りもする。学校をずる休みもする。体育は体調不良と仮病で見学もする。けれど、それは誰もが使う手段で、責められたものじゃない。それに、したくない事はしたくない、という強い意志表明でもあるのだ。成績を意識して、進学を意識して、先生に媚びを売るような連中も居る。そんな中、勉強が出来るわけでも、運動が出来るわけでもない。素行もよろしくはないし、趣味嗜好もちょっと変。それでも、自分のしたい事、したくない事に素直で正直に向き合える。
それでいて、他人に迷惑をかけない。無理をさせない。
人の機微に聡い。
それが金城賢介の魅力だ。鴻上新十郎にはない、賢介だけが持つ魅力。
それは、持たざる者だからこそ持つ、唯一に近い武器でもあった。
ただ。
「…喜怒哀楽には割と過敏なのに、恋愛方面はほんとに鈍感なんだから」
「そうだね。分かりやすいアプローチだと思うんだけどなぁ」
姫路麗華は、金城賢介のことが異性として好きなのである。
二年生になり、初めて同じクラスとなった姫路と賢介。当初、姫路は賢介をあまり好きではなかった。陰気で友人も少ない。顔もかっこいいワケではない。スポーツもそこまで得意ではない。魅力を感じられなかったのだ。そのことを姫路は未だに悔いることがある。自分の見る目の無さが愚かしいとさえ思った。
ある日。そう、それは本当に何気ないある日の事。
席替えでたまたま偶然、姫路が賢介の隣になった。
話しかけづらいし、嫌だな、と姫路は思っていたのだ。
だが。
人生で生まれて初めて、姫路は自分のノートを持ってくるのを忘れた。
数学の授業だった。その先生は、個人に予習をさせて、学校でもう一度教えるタイプの授業をする。
だから、ノートを忘れると、あやふやな状態で問題を解かねばならない。
優等生という楔がある以上、確実に問題をクリアしなければいけない。
クラスの手本であり、見本でなければいけないのだ。
しかし、高校二年生。意識の高い生徒は進学を意識し始める頃だ。
姫路もその一人で、二年生で習う数学は使わないので、本腰を入れて勉強をしていなかった。
なので、昨日予習した内容は、その後に勉強した受験数学の内容に押しつぶされてしまっていたのだ。
姫路は割とプライドが高い。それは恵まれた容姿や才覚による高慢さが原因の一端だ。だから、例え隣が親しい相手でもノートや教科書を自分から貸して、とは言えない。そのうえ、隣は陰気なオタクであるところの、金城賢介である。自分からなんて死んでも言えなかった。しかし、当てられて分かりません、と答えるのも嫌だった。分かるはずのことを分からないというのが、堪らなく嫌だった。
その程度かと、烙印を押されるのを恐れていた、とも言える。
持つ者の重圧だ。
だから、内心で冷や冷やしながら、時計が進んでくれるのを待つ。
当然、授業の内容なんて入って来ない。
そのくせ、時計はいつもより何倍も遅く進む。壊れてるんじゃないかと疑うほどにだ。
授業終わりまで残り五分。最後の一問。
「んじゃこれ、姫路、頼んだ。おい、皆も解けよ。姫路、解き終えたら黒板に出て書いてくれ」
そう言って、教師は姫路を指名した。
よりにもよって最後の最後。授業の最初なら、ノート忘れましたで済む話ではあるのだが。
最後ともなれば、心象を著しく悪くさせてしまう。
どうするべきか、姫路が判断に困っていると。
「あ、手が滑った」
本当にぼそっと、隣の姫路に聞こえるか聞こえないか程度の声量で、賢介がそう言った。
そして、するりと姫路の机に滑り込んでくる賢介のノート。
そこには一ページだけ付箋が貼ってある。
おっかなびっくり、そのページを捲る。
そこには、姫路が指名された問題の式が書いてあったのだ。
ふっと姫路が振り返ると、賢介は頬杖を突いて眠ったふり。
まるで自分は関係ありませんよ、といった具合だ。
「お、出来たか姫路。なら頼む」
姫路が黒板に、賢介が計算した式を書いていく。
鷹揚に頷く先生は、式の全体と答えを見て、もう一度強く頷いて、チョークで丸を描く。
「はい、正解。これはな、中堅国公立水準ぐらいの難易度だな。だから、かなり難しい。姫路、さすがだな。とはいえ、バラせば単純な公式の連続だ」
そう言って解説を始める先生。
戻って来た姫路はこっそりノートを返そうと、賢介の机にノートを乗せる。
すると。
『ノート、一応今日の分全部書いてあるから、家で自分のに写してから返して』
メモ用紙にそう書いて、姫路に見えるように賢介が突き出す。
姫路は面食らってしまい、なんと言っていいか分からず、ただお礼を言う。
「…ありがとう」
すると、ぶっきらぼうな声で、賢介は答える。
「…別に」
それが、姫路と賢介の初めてのやり取りだった。
そして、姫路が賢介に興味を持ち始める、最初の瞬間だった。
それから一年間、姫路は賢介とそれなりにコミュニケーションを取り始めた。まずは挨拶から。慣れてきたら二言三言話し始める。賢介は鴻上や大柳と違い、受け身な事が多い。クラスのトップカーストは、引き際こそ考えてはいるが、基本理念は能動的なイケイケタイプである。姫路もそれに分類されるため、時折自分の強引さを無理矢理封じて話をしなければならない。
だから、初めて。
男子相手に初めて、自分の我儘で強引な部分を全部見せられた。
女子相手ならば、倉橋が居た。しかし、男子相手で自然体で話せる相手は今まで居なかった。
一年間。
賢介と拙いコミュニケーションを取る中で、姫路の中で賢介への興味は、好意へと変わっていく。
そして、時は移ろい。
こうして、異世界に飛ばされた今でも、その気持ちに変化はない。
しかし。
「ねえ、雪乃ちゃん。やっぱり賢介くんって、彼女いるのかな…」
「それはさっき言ったでしょ。賢介に彼女は居ない。普通に考えて、居るわけがないのよ」
「でもさ…」
それならば、随分とガードが固い気がする。
姫路は今まで恋愛関係で困ったことがない。それは姫路の容姿を含むスペックが強く影響している。だからこそ、自分の魅力を、ある程度は理解している。恋仲になった相手は数名居る。大体一か月と持たずに別れたのだが。しかしながら、姫路はそのスペック故に、恋愛は常に受け身で来た。告白は常にされる側。その割に恋愛関係は本当に適当な彼女は、ちょっといいな、と思ったら付き合うことにしていた。
そうでもしないと、誰とも付き合えない気がしたからだ。
誰を見ても、何となく自分に見劣りしてしまう、と本能が語り掛けてくるから。
なので、キスはおろか、手を繋いだ経験さえない。
姫路は基本的に身持ちの堅い女なのである。恋愛下手とも言えるのだが。
そんな彼女が、初めて人を好きになった。
今まで恋愛に不便してこなかった彼女は、だからこそ自分の在りのままで好意を伝える。
ストレートには伝えられない。まだ恥ずかしいうえに、確信もないからだ。
それでも、姫路ほどの美少女に毎日声を掛けられれば、ちらりと欲望が顔を覗くはずだ。
実は好きなんじゃないかな、とか。それを自覚し始めれば、態度が変わり、声音が変わる。
姫路はそれを理解していた。一応、そういう経験を何度か経てきているからだ。
しかし。
「…私、魅力無いのかな」
「麗華、気を付けなさい。あんたがそれを言うと、クラスの大半が自殺を考え始めるわ」
「だ、だって…。私、結構頑張って声掛けてるし、名前でも呼んでるのに…。なんか、するっと躱されるっていうか。いなされるっていうか。けど、時々凄い優しかったりして。うぅ…ずるいよぉ…」
「ナチュラルボーンな美少女キラーよね…。確かに、疑似恋愛経験は豊富そうだし…。その代わりキラー対象が対象なだけに、凄い確率の低さでしかクリティカルが刺さらないけど」
賢介は別に姫路を焦らして楽しんでいるわけではない。
男子にありがちな「あれ、こいつ俺のこと好きなんじゃね」という意識を極限まで封印しているのだ。何が起きても、偶然近くに自分が居たからとか、他の人より話す相手だからとか、適当な理由をつけて、相手の行動に意味を付け加えないように意識している。過去に苦い経験があるわけでもないが、賢介自体、自分の魅力の無さから、姫路のような美少女に好意を持たれているとは思えないのである。
賢介は姫路に好意を抱かれていないと思いながら接する。
それを姫路は焦らされていると感じながらも健気に対応する。
更にそれを見た賢介が時折、生来の優しさを垣間見せる。
それによって姫路の賢介への好感度が高まっていく。
ちぐはぐなサイクルだ。
賢介が自罰的というか、自虐的なので、姫路からの好意という甘い蜜を酷く恐れる。
恋仲になれたらどれだけ素晴らしいか、けれど、リスクを考慮すれば行動には移せない。
それなら友人で良いじゃないか。
これが賢介の根底にある考え方である。
姫路にとっての特別は、賢介にとっても特別ではあるのだ。
姫路が男子生徒を賢介以外名字で呼んでいること。
あまりスキンシップを是としない姫路が賢介にはちょこちょこそれを繰り出していること。
必ずいの一番に賢介に朝の挨拶をすること。
しかし、賢介は思う。
「いや、それは姫路が優しいからだ。クラスで逸れてる俺相手でも優しくしてくれるなんて、やっぱり姫路は天使だな。そりゃ性別関係なく好かれるはずだ」
と。
だから、これは優しさのお裾分けであって、好意のプレゼントではない。
賢介はそう思う。なまじ、ゲームで甘い蜜を吸っているだけに、危険センサーが強く反応する。
ゲームのような展開こそ、寧ろ怪しむべきだと。
「…はぁ、賢介くん、最近また分からなくなってきたなぁ」
「元々よく分からないヤツでしょ。あいつのことなんて、変に考え込むよりシンプルでいいのよ」
「む…。雪乃ちゃん。そう言えば、雪乃ちゃんって賢介くんと仲いいよね」
「へ? ちょ、ちょっと待ってよ麗華。確かにあいつとはそれなりに仲は良いけど…」
「それなり? 私より全然話してるよね、雪乃ちゃん」
ずい、と姫路のちょっと恨めし気な顔が寄ってくる。
ふわっと香る控え目な香水に、倉橋は同性ながらにくらっとくる。これは卑怯だ。かわいすぎる。
ナチュラルボーンな人間キラー。それが姫路麗華なのだろう。
同性の倉橋でさえ、少し膨れた表情の麗華を見ると、愛おしさに抱きしめてしまいたくなる。
男性であれば、庇護欲をそそられて仕方があるまい。鴻上や大柳の気持ちもよくわかる。
「(あんの馬鹿ぁ…。なんであいつはこれに堪えられるの? マジでありえないんですけど…)」
だからこそ、若干賢介の不自然なまでのガードの固さには違和感を覚える。
何かトラウマでもあるのだろうか。倉橋は思う。割とやらかしてそうだな、と。
そうでもしなきゃ、説明がつかない。
「ち、違うから。あいつとは、その、なんて言うの。男版麗華っていうか。そんぐらい腹割って話せる相手ってだけ。特別な感情はないよ、本当に」
「ふぅん…? 雪乃ちゃん、結構腹黒いからなぁ。賢介くんのこと、搔っ攫っていっちゃいそう」
「し、しないよ…。多分」
「多分?」
「絶対! これでいいでしょ、安心しなさい。あたしからは狙いに行かないから」
「賢介くんから来たら?」
「そ、それは、その…。そん時はそん時!」
「あ、ずるい雪乃ちゃん」
「ほら、それより支援支援。前線押されてるから、あっちに撃って」
「むー、これについては後で話し合いを要するからね」
「はいはい」
全く、そんなことをされても、麗華に適うわけがない。
倉橋は結構本気でそう考えている。
だから、思う。
「(早くくっついちゃってくれないかなー…。その方が、変な希望を抱かずに済むっていうか…)」
なんて。
最早それは、双方のどちらの想いとて届くはずもないということを、知らずに。
薄暗い森の中、血だまりに眠り、朽ち果てようとしていることを、知らずに。




