45 約束
白神は一人、暗闇の中にいた。
そこは白神以外は何一つとして存在しない、全てから隔絶された世界。
怒りも憎しみも、喜びも悲しみも、苦痛も苦悩も一切存在しないその世界の中で、白神はただ微睡んでいた。
体を心地よい感覚が包んでゆく。
自分でも信じられないほどに穏やかな心。今まで経験してきたことがないほどに心地よい感覚に身を委ね、白神は深い眠りに落ちようとする。
しかし。
「・・・て」
遠くから聞こえてきたのは小さな声。何かを伝えようとする、確かな言葉。
(なん、だ?)
しかし、その聞き取れないほど小さな声は、何もない世界の中ですぐに消えていってしまう。
気のせいだろうと、そう思い忘れようとする。
しかし。
「・・・てよ」
また、声が聞こえる。
小さな、本当に小さな声。
一度意識することを止めてしまえばもう二度と聞こえてくることはないであろうほどに小さく、か細い声。意識を集中させて聞かなければ、聞き取ることすら叶わないであろう言葉。
白神は微睡みの中で、その声へと意識を向ける。
(っ)
その瞬間、体を包んでいた心地よい感覚が薄れていく。代わりに全身を包み込んでいくのは、重い鈍痛と凍えそうなほどの寒さ。意識をはっきりさせようとすればするほど、それらは強さを増していく。
「お・・・い・・・きて」
それと同時に響いてくる言葉も次第にはっきりとしたものへと変わっていく。聞き取れるだけのものへと変わっていく。
「おね・・・い・・・から、・・・て」
脈打つように襲ってくる痛み。
意識を手放し、このまま眠り込んでしまえばどれほど楽だろう。聞こえないふりをして、そのまま逃げてしまえばあの心地よい感覚に浸っていられるのだ。苦痛も何もない、この穏やかな世界で、ずっと。
(そうだよな・・・)
白神は一人、心の中で呟く。
(そんなの、考えるまでもないことだよな・・・)
微睡みの中で思う。
次第に強くなっていく眠気。それに逆らいさえしなければ痛みは引いていき、かわりに声は遠のいていく。心地よい、安らかな感覚に包まれていく。
あまりにも甘美な、強すぎる誘惑。
ふっ、と。
そんな誘惑を全身に受けながら、白神は自嘲の笑みを浮かべる。
(・・・まだ、こんな所で楽をするには、早すぎる、か?)
薄れそうになる意識。
白神を誘い続けるのは強い眠気。
「・・・い・・・から」
それらに圧迫されるかのように、響いてくる声はますます弱く、ますます遠くなっていく。今すぐにでも消え去ってしまいそうな声。
それを聞いた白神はただ、思う。
(そうだよな、約束を果たさないまま・・・あいつ一人を残したままって訳には、いかないよな・・・)
脳裏に浮かぶのは一人の少女。
その姿は、かつての自分が守り切れなかった大切な存在へと重なる。かつて、全てを捨ててでも守り抜きたいと願った、唯一の存在へと。
(・・・そうだろ、一穂)
かつて存在した者の名を、呟く。
それだけで心は確かな熱を、失っていた芯を取り戻す。それだけで自分の心の中にかかっていた幻惑の霧が一瞬にして晴れていく。
誘惑に呑まれようとする肉体と相反するように高まっていく心。
そして、微睡みの中で。
白神は、手放しかけた意識を一気に手繰り寄せる。
「っ」
それと共に一気に流れ込んでくるのは痛みと寒気。それは、生きるために必要な数々の感覚を取り戻してきているために引き起こされているのだと理解する。
急激に加速していく意識。
白神は暗闇の中から一気に浮上していく。それと共に心地よい感覚は消え去り、痛みだけが密度を増していく。まるで自ら苦痛の中へと突き進んで行っているかのような、そんな錯覚に囚われそうになる。
今ならまだ暗闇の底に、あの楽な世界に引き返せると甘く囁いてくる己の内に潜む声を無視し、白神はただひたすらに光を目指して進む。迷う必要など、もうどこにもないのだから。
そして、最後まで追いすがろうとする眠気を振り払い。
白神は、目を醒ます。
恐ろしいまでに冷えた手足と、霧がかかったかのようにぼんやりとした頭。まるで脈打つかのように痛む全身。意識しなければ止まってしまいそうなほどに弱く、乱れた呼吸。
それらを感じながら、重い目蓋をゆっくりと開く。
ぼやけた視界に映るのは、どこか薄暗い空間。目がまだ完全に覚めきっていないのか、靄がかかったかののように霞む世界。ここがどんな場所なのかすらもわからない。
そして、聞こえてきたのは。
「起きてよ・・・」
すぐ近くから聞こえる、聞き覚えのある声。
消え入りそうなほど小さく、そして弱々しいその声は、怯えるように震えていた。
「お願いだから、起きて・・・目を、開けて・・・」
それは、懇願。
震える少女が紡ぐ、唯一の願い。
今の状況は一切わからない。あの後、何がどうなったのか、なぜあれだけの出血があったのにまだ生きているのか。それらを知る術は今の白神には無いのだ。
それでも。
その姿が見えなくても、少女が憔悴しているということは痛いほどわかった。
だからこそ、白神は。
「・・・お前は、やっぱり人使いが、荒いな」
一言一言を紡ぐたびに遠のきそうになる意識。絞り出した言葉は自分でもわかるほど掠れている。
伝わってくるのは少女が驚きに息をのむ気配。
今の白神には少女がどこにいて、自分がどんな状況に置かれているのか、それすらもわからない。冷えきった体は鈍い痛みを訴え続けていて、気を抜けば今すぐにでも意識を失いそうだった。
それでも、白神は。
出来うる限りの虚勢を張って、普段通りの自分を演じる。
「死にかけの護衛に、起きろなんて・・・そんな無茶を言う奴が、雇い主って・・・俺も、不運だ」
途切れ途切れになる言葉。
「ばか・・・しらかみの、ばかっ」
その瞬間、暖かい『何か』が白神の頭に覆い被さってくる。そしてすぐ耳もとから響いてくるのはすすり泣く少女の嗚咽。そこでようやく白神は今、自分が少女の傍で横向きに寝かされていて、頭を抱きしめられたのだと理解する。
我ながら情けない格好だな、と心の中で自虐の笑みを浮かべる白神。
それでも、震える少女から伝わってくる温もりはどれだけ少女が白神のことを想って心配していたのか、それをはっきりと伝えていた。
そのことを感じ取りながら、白神は冷えきった手をなんとか持ち上げる。
自分のものとは思えないほどに冷たく、重い腕。それに連動してか傷を負っている背中が異常なまでの痛みを発するが、無理やりにこらえきる。
触れたのは、少女の頭。
感覚の無い手を動かし、いつかのようにその頭をそっと撫でる。
「馬鹿は、お前だろ? 置いてけって、言ったのに・・・ほんと、お前は人の言うことを、聞かないな」
それだけで、たったそれだけの行動で白神の体は激痛を訴え、酸欠に陥りかけた脳は意識を朦朧とさせる。
白神の体を襲うのはあらゆる苦痛を集め、凝縮したかのような痛み。
しかし、それはまだ自分に生きる意思があると、自分の体が生きることを諦めてはいないということを示す何よりの証だった。もし痛みを感じなくなったのならば、それは肉体が死を受け入れたということなのだから。
ぎゅっと、白神の頭を抱きしめる少女の腕に力がこもる。
「ばかは、しらかみなんだから・・・勝手に全部決めて、ひどい怪我なのにずっと眠ったままで・・・私がどれだけ、どれだけ心配したと思ってるのっ!? 本当に、死んじゃったかと思ったんだから・・・」
少女の言葉、その最後は消え入りそうなほど弱々しく、怯えるように震えていた。
「・・・悪かったよ、ユキ」
白神は少女に謝りながら、ゆっくりと周囲を確認する。
ようやくはっきりとしてきた視界に映るのは、こちらに抱きつき、体を震わせる少女。そして、その体越しに見えるのはむき出しの黒い岩盤。
どうやら、ここはどこかの小さな洞窟かなにからしい。
さらなる情報を求め、目だけを動かして辺りを見回す。しかし、見えるのは周囲を覆う岩肌ばかり。白神は覆い被さるようにして抱きついている少女の体の合間から覗くようにしてさらに周囲を窺う。
目に映るのは薄暗く狭い空間。そして視線を下げた時、すぐ傍に少女に渡したはずの鞄が転がっているのを見つける。
中身が乱雑に引っ張り出されたままの鞄。
そこには、白神がいくつかの薬草を別けて入れていたはずの袋も一つ、空になって転がっていた。その中に入っていた薬草の種類、それを思い出してようやく自分がなぜ生きているのかを理解する。
それは初めて出会った時、少女の止血に使った血止め効果のある薬草、ハスイ草。
粘着力があり、液体に触れると縮むためにべったりと貼り付くハスイ草の葉は、軍でも応急手当に使うことがあるほど強力なもの。少女に抱きつかれたままの首をなんとか動かして自分の体を確認すると、胴体には大量の包帯が巻かれていた。
捻れたり、ずれたりしながら巻きつけられている包帯。応急手当の知識などほとんどないであろう少女がそれでもあの時のことを思い出し、鞄から引っ張り出して必死に手当してくれたのだろう。
「ははっ・・・まさかユキに、命を救われることになるとは、な」
いくらハスイ草の葉でも、大きな傷口から溢れ出る大量の血を止められるわけではない。あれだけの傷を塞ぐことができているのは、もはや奇跡にも等しいことだった。
(相変わらずの悪運・・・いや、今回ばかりはユキが引き寄せてくれた幸運、ってところか・・・)
白神は少女の頭を撫でながら一人苦笑する。
もう死ぬことなんてできるはずがなかった。もし白神が死んでしまえば少女が今まで必死に行った行為、それら全てを無駄にしてしまうことになるのだから。
しかし、そんな想いとは裏腹に体力はもう限界に近かった。
少女の頭にのせていた手から次第に力が抜けていく。動かすどころか持ち上げていることすら辛くなり、ずれていく腕。そしてついに、少女の頭という支えを失った白神の腕は鈍い音をたてて地面に落ちる。
少女が驚き、そして怯える気配が伝わってくる。
だが、今の白神にはどうすることもできない。体力は完全に尽き果てようとしていて、その体力を少しでも回復させようと体は睡眠という名の休息を強く要求してくる。このまま無理に意識を保ち続けようとしても、すぐに限界が訪れるのは目に見えていた。
閉じていく目蓋。
抗うことは不可能だと、そう理解した白神は強まる眠気に逆らおうとはせず、ゆっくりと目を閉じようとする。
「しらかみっ!? だめ、死んじゃだめっ!」
響いてくるのは悲鳴に近い少女の言葉。
重い目蓋の隙間から見えた少女は泣きはらした顔で白神の体を必死に揺すっている。
「大丈夫、だ・・・傷を治すために、少し休むだけ、だから」
「そんなの、信じられないよ・・・お願いだから、お願いだから私を一人にしないで・・・もう嫌なの、そうやって誰かがいなくなるのは・・・」
少女の瞳から溢れ落ちた涙が白神の頬を濡らしていく。
少女の気持ち、それは痛いほどわかった。少女がなによりも恐れていること、それは一人残されることなのだから。白神がまた意識を失うということ、それは今の少女からすれば芽生えたはずの希望をすぐさま引き抜かれるようなものだろう。
現実として、このまま眠ってしまえばもう目を覚ますことができない可能性は高い。尽き果てた体力にいつ血液が溢れ出すかもわからない大きな傷口、冷えきった体。
今、少女と会話できていること自体が様々な幸運の重なりあった、奇跡に近いことなのだ。これ以上、そんな奇跡を望むことがどれほど身の程知らずなのか、それはよくわかっている。
それならば。
そんな身の程知らずなことを願うくらいならば。
白神はただ、少女に約束する。
「それなら、約束するよ・・・俺は、絶対に死なない。ちゃんと回復してから、それから・・・意地でも、起きてやるさ」
幸運や奇跡、そんな確率論めいた不安定なものにすがるつもりは全くない。
もし、今までの出来事が奇跡だというのならば。
この先はその奇跡とやらを、揺るぎない意思と残された全ての力でもって、自ら造り出せば良いだけなのだから。
それは少女への約束でもあり、自らに言い聞かせる誓いでもある言葉。自分の進む道を、選んだ未来を見失わないための指標となるもの。
その言葉を聞いて、少女は何かに耐えるかのように体を震わせる。
「・・・約束、だから。ちゃんと起きてくれるって、約束なんだからっ! 破ったら、絶対に許さないんだから・・・」
少女が受け入れきれてないこと、それは良くわかった。現に少女の声はどうしようもないほどに震えていて、その瞳から溢れ落ちた涙は今なお白神の頬を濡らしていく。それは、少女が白神のことを想って見せる、ただの強がりでしかないのだ。
少女の本音がどのようなものなのか、それは考えるまでもないことなのだから。
「ああ・・・約束、だ」
それを理解しながらも、白神はもう一度目をつむる。限界はすぐそこまで迫っていて、意識は朦朧とし始めている。だからこそ今は、少女の見せる強がりに頼るしかないのだ。
伝わってくるのは少女が嗚咽を必死にこらえようとする気配。
薄れゆく意識の中、それをすぐ近くに感じながらも白神は眠りの淵へと落ちてゆく。暗闇の中へ、心地よい感覚の支配する世界へとまた転がり落ちてゆく。震える少女を残して、ただ一人暗闇の中へと。
全身を包んでゆく心地よさ。
白神は身体を少しでも早く回復させるため、そこに留まることなくさらなる深みへと潜ってゆく。暗闇の底へ、さらなる深い眠りへと突き進んでゆく。
それでも、今の白神に一切の不安はなかった。
なぜなら。
約束を、目指すべき指標を得た今。惑わされる可能性など、もうどこにもないのだから。




