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モノクロパズル  作者: マヤノ白猫
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第一章 転校生の憂鬱

分厚い臙脂色のカーテンが閉じられたその列車の中は、さながら刑務所へ秘密裏に連行される囚人のような息苦しさと密閉感を、たったひとりの乗客――雨宮零に与えていた。

古めかしいボックス席の窓際から視界に入るのは、質素な調度品のならんだ狭苦しい室内に、やや薄暗い照明。あまり利いていない空調や、あちこち出力が弱くなっている電球を見るに、あまり手入れのされていない車両のようだ。

更に、同じく長いこと使われていなかった線路も整備されているはずはなく、しょっちゅうガタガタと不穏な音をたてて大きく揺れるのだ。その所為か、何度か目を瞑って眠ろうと試みても、身体を休めることすら儘ならなかった。

あぁ、退屈だー―。

零は溜め息を漏らして、窓枠についた小物置き場に頬杖をついた。

持ってきていた文庫本はもう全て読み終えてしまっていたし、景色を見ようにも、良いと言うまでカーテンを開けてはいけないと何度も念押しされてしまったからには、わざわざ開ける勇気も湧かなかった。

結果零は、何もすることがない重苦しい退屈を持て余しているのである。

もう何時間、こうして列車に揺られてい

るのだろう。この列車が目指している目的地は、一体どこにあるのだろうか。

あまりにも長いこと乗り続けているからか、この線路には目的地などなく、列車は止まることなく永遠に走り続けるのではないか、という気にさえなる。

自分は気付かぬうちに、世界を繋ぐ時の狭間に閉じ込められてしまったのではないか、とー―。

なんて、馬鹿な。そんな筈はないのに。

普段の自分なら一笑に附すような馬鹿馬鹿しい妄想も、しかし今の零はきっぱりと否定することができないのだった。

何故なら今から自分が向かう学園は、何もかもが自分の持つ学園の常識と異なる『異質の世界』だったのだから。

誰も知らない山奥に建てられた、閉ざされた学園。其処にいる人間にとっては学園こそが世界の中心、いや世界そのものであるのだという。

つまり学園にいる生徒たちは、学園の外にそれとは比べ物にならないほどに広大な『本物の世界』があることを知らないのだー―。

なぜ自分がそんな学園に『転入生』として入ることになったのか、零は未だに知ることができていなかった。先程の若い男もどうやら知らない様子だったし、そもそも考えすぎるほどの理由などないのかもしれない。

しかし零は迫り来る重い不安を拭い去ることができずにいるのだ。

この言い様の無い漠然とした不安はどこから来るのだろう。この学園に感じる、底知れぬ恐怖とは一体――?

だからこそ、この窮屈な二両編成の列車が、囚人を拘置する檻のように感じるのかもしれない。

だとすればこの真新しい制服は、今日から自分に与えられた囚人服と言ったところか。

零は先程手渡され、そのままテーブルの上に放置しておいた灰色のジャケットを手に取りながらそうひとりごちた。

言ってみれば、強ち冗談に聞こえないな。そう小さく冷笑する。

確か列車が到着するまでに着替えろと言われていたような気がするが、先程まで良からぬことばかり考えていた今はこれに袖を通す気にはなれなかった。

代わりに丁寧に折り畳まれたそれらを順々に広げ、適当に畳み直して自分の隣の空間に並べかえてみる。

黒い縁取りがなされた灰色のジャケットに、同じ色のスラックスとハーフパンツが一つずつ、水色のワイシャツが三枚。チェックの柄が入った青いネクタイとリボンタイに、紺色のくるぶしソックスとハイソックスも二つずつ付いてきている。

外部との繋がりを持たせないようにか、学園への私物の持ち込みは一切禁止とされていたため、その代わりに学園側の用意は至れり尽くせりのようだ。

ちなみに靴にも指定があったのだが、何種類か選べたので編み上げのブーツを選択した。革靴は歩きづらいし、個人的にあまり好きではないからだ。

「うーん……」

しかしこれほど憂鬱な着替えは無い。

誰も居ないのを良いことに、零はわざとらしく溜め息をついて、そのまま座席に深く沈み込んだ。

今これを着てしまえば、とうとう自分は学園の一員となってしまうのだ。

漠然とした負の感情を抱いたまま、しかし否応なく学園の世界に飲み込まれ、二度と抜け出すことはできない。

そう考えると、一層この場にいるのが恐ろしくなった。

時の狭間に迷い込んだって良い、もういっそこの列車が、一生学園にたどり着かなければ良いのに。どうしてあの人たちは、僕をここに入れようなどと思ったのだろう。

いや、入ると決めてから先程学園の概要を聞くまでは、僕もあの得たいの知れない恐ろしさを感じることなどなかった。けれど今気付いたところで、自分にはもうどうすることも出来ないのだー―。

零は諦めたように息を吐いた。腹を括ろう。もう全て決められてしまったことだ。まだ戦場へたどり着くまでに、こんなところで気圧されてはいけない。

零は両手で頬を軽くはたいて自分を奮い立たせると、勇ましく紺のカーディガンを脱ぎ捨て、乾いた糊と折り目の付いたワイシャツを広げて袖に通した。

ブーツでも歩きやすいようハーフパンツを選び、第一ボタンまで閉めた首元にきっちりとネクタイを締める。

些細な乱れを正し、下ろし立ての服が持つ布本来の独特な香りに包まれてみると、もう後には退けない覚悟が零の身体を駆け抜けていくような気がした。

「うん、なかなか似合ってるじゃないか」

緊張に張りつめたその背後に、柔らかな声が降ってきたのはその時だった。

すっかり一人でいるものだと油断していた零は思わず肩をぴくりと跳ねあげ、警戒するように素早く後ろを振り返った。

其処にあった若い男の、悪意の無い爽やかな笑顔に、零は内心焦りを感じながらも表情を崩さず小さく一礼する。

そうだ、すっかり忘れていた。この列車に乗っているのは僕だけじゃない、あの時説明に来た若い長身の数学教師もまたここに――。

どうして気を抜いてしまったんだろう。もうこの場所に、安心できる場所など無いと頭では理解していたはずなのに。

零は男に聞こえないようにこっそりと溜め息をつき、いきなり現れたことを微塵とも感じさせない聖職者の笑みを湛えている彼を軽く見上げた。

「驚かさないでくださいよ、先生」

自分より20センチはあるだろうか、遥か遠くに感じるその顔を見据えながら言うと、男は余裕たっぷりに軽やかな笑いを口に含んで、悪戯っぽい微笑を浮かべてくる。

「いやね、あんまり君が顔色一つ変えないから、少し驚かせてみたくなってしまって」

全く悪びれた様子の無い目の前の若い男――確か、長谷川隼人と言ったっけ。

彼に声をかけられるまで気付くことが出来なかったのだから、この男も相当用心してこの部屋に入ってきたのだろう。

それにしても、他人に気づかれることなくその背後まで忍び寄れる人間など一体どれ程いるのだろうか。

「随分と悪趣味ですね」

たっぷりと嫌味を込めて吐き捨てると、意外にも彼もまた悔しそうな顔をして此方を見返していた。

「だけどあれだけ気配を消して驚かせたっていうのに、君はやっぱり表情筋一つ動かさなかった。悔しいなぁ、最終的にこの勝負の軍配は君に上がったというわけか」

「勝手に勝負を仕掛けないでくださいよ」

「はははっ、まぁ不意打ちにしないと意味がなかったからね、すまなかった」

零が静かに咎めるような目線を送っても、長谷川はひらひらと右手を軽く振って受け流してしまう。

あまりに悪意を感じさせないその態度に、零はそれ以上あの悪戯について追求することが出来なかった。

絶対あの動きの裏に、何か別の意図が隠されていると思ったのに。彼は人の挙動を思うように誘導するのが得意らしい。

「それにしても、本当に君は面白いね!誰に対してもそんな突っ慳貪な態度なの?」

長谷川は相変わらず爽やかな笑顔を浮かべたまま、 両手を後ろで組んでさりげなく近寄ってくる。

本当のところ、これ以上他人と相対していたくはなかったのだが、ボックス席に行く手を阻まれている零は最早開き直り、元居た位置に座り直して彼を待ち受けた。

「さぁ、突っ慳貪だと自分で意識したことはありませんけど」

「まさか。君、よく誰かに冷たいねって言われない?」

長谷川はするりと誘いを受けて零の対角線に位置する席に腰掛けると、ゆったりと足を組んだ。

油断も隙も見せない、余裕たっぷりの笑み。

一体この男は、何を企んでいるのだろうか…?

「そんなことどうでも良いでしょう。それより、どうしてまたここにいらしたんですか?話は先刻全て済ませたんでしょう?」

彼の前に余裕の無い姿を見せるまいと、零もまた彼に倣って足を組み、にこにこと柔らかな笑みを張り付けたままの長谷川から少し視線をはずしてそう問いかける。

その顔を見ていたくなかったのは、今の零にとって長谷川の変わらない微笑みは、苛立ちの対象でしかなかったからだ。

しかしそんなことはつゆとも知らない長谷川は表情を崩すことなく、陶器の人形ばりに無表情な零を見返してくる。

「うん、学園に着くまであと30分くらいだから、それを教えてあげようと思ってね。そろそろ制服に着替えてもらおうとも思っていたんだけど、先に終わらせていたみたいで助かったよ」

「はぁ、それなら車内放送でも良かったのに」

「サイズも間違いは無いね。やっぱり青薔薇の制服が君には合ってるみたいだ」

自分の言葉には耳も貸さず、にこやかに微笑んだままの長谷川。その笑顔に仮面のような無機質さを感じるのは気のせいだろうか。

いや、その感覚を常に持つのはとても大切なことかもしれない。ここはもう僕の常識では通用しない、学園に囲われた檻の中の世界なのだから。

「――では、ご用はそれだけですか?」

遠回しに伝える『帰れ』という勧告。

お互い座っているお陰か、合わせやすくなった目線で長谷川を鋭く一瞥すると、彼はああそうだ、とあたかも今思い出したかのようにポンと手を打った。

「そうそう、申し訳無いけれど、その服と本を回収しなくちゃいけないんだよ」

先程脱いだばかりの、家から着てきた最後の私服。暇を潰すために読んでいた、ありふれた数冊の本。彼はそれらを指差してにこりと微笑む。

「外部からの持ち込みは一切厳禁だからね、悪いけど、此方の方で処分させてもらうよ」

「私服も持ち込めないんですか?」

「まぁ、ね。こちらで指定した洋服をいくらでも選んでもらうことはできるけれど、君個人の私物として持ち込みを許されるものは一つもないんだ」

「………徹底してるんですね」

「そりゃあね。この学園は親を失った子供のためだけの、外界から守られた場所だから」

「守られた、場所……ですか」

「ああ。とにかくこれはこの学園での大事な決まり事なんだ、理解してもらえるよね?さ、洋服を寄越してもらえるかい」

柔らかく諭すような口調でありながら、そこに有無を言わさぬ響きを放つ長谷川の言葉。

まるでそうすることが当たり前であるかのような彼の軽い口振りに、零は何とも形容しがたい、うすら寒いなにかを感じずにはいられなかった。

一切私物の持ち込みを禁止され、外界と二度と連絡を取ることも出来ない。学園は自分を、徹底的に『本物の世界』から引き剥がそうとしているのだ。

やっぱり此処は、ただ山奥に建てられた孤独な学園というだけではない。

何かがおかしいのだ。それをはっきりと口に出すことはできないけれど、まるで何本もネジの外れた人形のように、 どこかが狂っている――。

零は薄気味悪い心地を隠すことが出来ず、言われた通りに自分で洋服を集める気にはなれなかった。

代わりに肩をすくめ、小さく首を振って細やかに拒絶の意を示すと、途端に長谷川の顔から鮮やかな笑みが姿を消し、一瞬の間もなく憂いを帯びた沈痛な表情が浮かび上がってきた。

「――君が嫌な気持ちになるのも分かるよ、ごめんね…。誰だってこれだけ徹底管理されようとなれば、おぞましい気持ちにもなるよね。だから君の否定的な感情も充分に理解できるよ」

まるで自分も同じだと言うかのように、悲痛と悲しみに満ちた同情の声。ゆっくりと自分との距離を詰めながら、慰めるように薄く微笑みを浮かべる目の前の男。

その姿は、まさにこの場面に有るべき、寸分も隙のない完璧な動作だった。

見事なものだなぁと、零は先ほどまで恐怖すら浮かべていたことも忘れ、長谷川の挙動にみとれてしまう。

きっとこの男は、一日に祝事と弔事を同時に経験したとしても、それを一切感じさせない挙動をもって式に参列するのだろう。

結婚式では心から祝福を讃える、鮮やかに清々しい笑みを。葬式では悲嘆を胸に秘めた、厳かで凜とした儚げな無表情を、それぞれ何食わぬ顔で平然と浮かべるのだ。

「けれど、これは両親を亡くした子供たちをこれ以上傷付けたくない、そんな学園の大きな意志なんだ」

長谷川は零の目と鼻の先でぴたりと止まり、真剣な表情で真っ直ぐに瞳を合わせてくる。

強い光だ。先程の生ぬるい笑顔とはまるで違う。誰かを従わせるときの、えも言われない圧迫感を与える強烈な視線。

まるで金縛りにあったように身体が動けなくなる。まるで長谷川の漆黒の瞳に、縫い止められてしまったかのように。

「不気味かもしれない。不安かもしれない。早くも怖じ気づいてしまったのかも」

捲し立てる長谷川の言葉が、ぐわんぐわんと零の耳に響いてくる。

突き詰めるような強い光、たしなめるように鼓膜を揺さぶる低い声。前にも僕はどこかでこれを――。

「でもね」

圧迫感に押され、今にも倒れてしまいそうだった零の肩が、不意にがしりと掴まれる。

見上げた視線の目の前にあった長谷川の、真顔を通り越した悪魔のような微笑みに、零はぞわりと背筋を恐ろしく冷たいものが通り抜けていくのを感じた。


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